黒い花の屍櫃(かろうど)・10 長編ミステリ
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山手線で恵比寿から高田馬場へ移動する間、スマートフォンで木彫り店を検索した。岩手県内にいくつかある。だが、正木の名前は見つからなかった。以前調べた事件の統計によれば、年間約七万人が失踪しているという。事件の確証がなければ警察は捜査しないのが現状だ。
西武新宿線に乗り換え、小平へ向かう電車のなかで桐生は手帳を開いた。川瀬から聞いた正木耕助の住所の下に、『失踪十年・自分の意思か?』と書き付けてある。
事故後、思うように木を彫れない苛立ちから家族を捨てたのだろうか。捨てられたと思い込んだ有紗は、父を恨んで悪魔の儀式に手を出したのかもしれない。
桐生は顔を上げ、車内を見渡した。向かいの座席に座っているふくよかな女性は大きな紙袋を大事そうに抱え、スマートフォンを眺めている。その隣の男性は前かがみになりながらタブレットを睨みつけ、中央の席では学ランを着た二人が時折笑いながら喋っていた。
ドア口に立っている女性や、吊革に掴まっているビジネスマンも何かに夢中で、桐生と視線の合う者はいない。ここにいる人々は、みな当たり前の日常を生きている。家族や恋人が失踪するなんて、考えなくていい。桐生は違う。消えかけた道を探し出し、世間に知らせなければならない。
桐生は手帳に視線を戻した。夫の生死もわからず娘を亡くした正木希美は、いま、どのように暮らしを立てているのか。それを知るために大籠に行こうと思ったところで小平駅に着いた。
久利生と榊の作品展を見るため、早見の店へ向かった。六時に店で璃子と待ち合わせをしている。駅ビルで買ったスパークリングワインの袋を手に、アトリエのあるクリーム色の建物まで来た。時刻は五時半を回っており、どのフロアの窓からも明かりが漏れている。
ガラス扉を開け、突き当たりのエレベーターに乗るか迷ったが、日ごろの運動不足を解消しようと階段で上ることにした。二階まで上ったところで、誰かが下りてくる足音がした。踊り場で曲がると、篠原真衣が下りてきた。グレーのスウェットパンツにラベンダー色のタンクトップを合わせている。ほっそりとした腕には適度に筋肉が付いている。
「桐生さんも、久利生君たちの作品展を見にいらしたんですか」
真衣は肩に掛けていたフェイスタオルで額の汗を拭いながら、桐生に微笑みかけた。笑うと頬がふっくらと盛り上がり、華やいだ。魅力的な笑顔だ。久利生の自宅で会った時の硬さが取れて、生き生きとしている。インストラクターの仕事が彼女を輝かせているようだ。
「ええ。真衣さんは、レッスンが終わったところかな」
桐生も笑みを返した。
「はい。きょうのレッスンは五時で終わりなの。のちほどご一緒しましょう」
真衣は軽やかな足取りで階段を下りていった。真衣を見送ったあと、桐生の足も不思議と軽くなった。ヨガの体験でもしてみようか。ここなら自宅からも通える。
久しぶりに心が浮き立った。疲れも感じずに四階フロアに辿り着き、辺りを見回す。明かりは少し暗めで、ドアの横にはメニューが書かれた黒板が設置されていた。『40`s』と記されたドアには、榊からもらったのと同じDMがテープで留められている。
ドアを開けると、正面はカウンターだった。店内に人の姿はない。カウンターの奥の壁にはグラスや酒が並び、スローテンポの洋楽が流れていた。
ドア側には二人掛けのテーブルが五脚あり、アクリル・ケースが一つずつ置かれている。ケースには小さな木彫りが収められていた。店内の壁には額装された絵が掛かっている。榊の作品だ。アトリエで見た青白い肉体の何かがこちらを見つめている。
手前のテーブルに近づき、ケースを覗き込んだ。狼に似た黒い獣に翼が生えている。
「それはマルコシアスです」
顔を上げると、カウンターの奥に久利生が立っていた。
「天使じゃなさそうだね」
桐生は黒い獣から漂う雰囲気を感じ取り、獣の顔を観察した。吊り上がった双眸は、これから闘いを挑もうとしているかのような鋭い光を発している。
「地獄の大公爵で、グリフォンの翼と蛇の尾を持っています。どうぞ、お好きな席に座って鑑賞してください。ワインでもいかがですか。といっても、六時までは僕の給仕ですけどね」
「うれしいね。白の甘口ってあるかな」
桐生がスパークリングワインを袋ごと渡すと、久利生は深々と頭を下げた。戸棚からワイングラスを二つ取り出し、冷えたワインを注ぐ。カウンターに座った桐生の前に一つ置き、微笑んだ。
「ふだんは、早見さんが撮った樹海の写真が飾られているんです。早見さんは樹海が大好きで、僕が青木ヶ原樹海を案内したこともあるんです」
「久利生君の実家は、樹海の近くなんだってね。それはいつ頃のこと?」
「二年前の春でしたね。まだ僕は学生で時間も自由だったし、幻聴もなかった頃です」
久利生はグラスを握り、壁に視線を向けた。榊の絵は壁に五枚並べられ、四枚は女性の顔だった。デフォルメされており、飛び出た瞳からは涙が流れている。境界線が曖昧な色彩は幻想的で、久利生の木彫りの彫刻と呼応していた。
「そっちも気になるね。次は早見さんの写真を見にこようかな」
軽くグラスを合わせ、乾杯した。桐生はワインを口に含み、フルーティな香りを楽しみながら久利生に視線を向けた。顔色もよく、前回の祓魔式で泣いていた青年と同一人物とは思えない。
「長山さんが亡くなったことは、もう知ってるかい?」
桐生の問いに久利生は目を伏せ、頷いた。
「榊から聞きました。桐生さんたちが恵里ちゃんを発見したそうですね。でも、どうして恵里ちゃんを発見できたんですか」
「編集部に手紙が送られてきたんだ。詳細は、明日販売の『FINDER』に書いてあるよ。久利生君の知り合いに、イニシャルがR・Jの人物はいないかな。あるいはリズム・アンド・ジャーナルで何か思い浮かぶ人はいないか」
「つまり、犯人はR・Jと名乗ってるんですね。桐生さんたちの編集部に手紙を送りつけて、まるでゲームを楽しんでいるみたいだ」
久利生は考え込むようにグラスを見詰めている。
「長山さんとは、親しかったそうだね。きみが長山さんに『sorbet』を紹介したって聞いてるよ」
「友達でした。出会ったのは藤田先生のクリニックです。初めてクリニックへ行った日に、僕は気分が悪くなってしまったんです。頭がくらくらして通路で蹲っていたら、恵理ちゃんが声を掛けてくれました。いま僕がこうしていられるのも、あの時恵理ちゃんに助けられたからかもしれません。彼女には勇気をもらいました。不安に押しつぶされそうなのは僕だけじゃないって。そう思えたのは恵理ちゃんのおかげです」
久利生は項垂れた。桐生は手帳を取り出し、長山恵里香とR・Jの接点について想いを巡らせた。
「長山さんが誰かに恨まれていたなんて話は、聞いてない? ストーカーに付け狙われてたとか」
「恵里ちゃんが誰かの恨みを買うなんて、考えられません。誰とでもすぐに打ち解けられる、やさしい子でしたから。でも、そのせいで変な男を引き寄せてしまったのかも……」
久利生は鎮痛な面持ちでグラスを握りしめた。
桐生は梶木の家の応接間で会った時のことを思い返した。わずかな会話を交わしただけだったが、白のモヘアがよく似合う、魅力的な笑顔の女性だった。R・Jは、長山恵里香に心を奪われたストーカーなのだろうか。『sorbet』を糾弾するような手紙を送ってきたのは、長山恵里香を殺すための伏線だったのかもしれない。
手帳に「R・J、長山恵里香のストーカー?」と書き込んだところでドアが開いた。
璃子と篠原真衣が笑いながら入ってくると、それぞれ手に持っていたものを久利生に渡した。璃子が持ってきたのは黄色と黄緑が基調のブーケで、真衣が渡したのは厚さ三センチほどの長方形の箱だった。オレンジ色の包み紙に金色のラベルが貼られている。
「チョコレートです。久利生君も榊君も甘いものが大好きなんですよ」
真衣は桐生に微笑んだ。
「チョコって形や色もきれいだし、一つ一つ味も違っているとワクワクします」
久利生は璃子と真衣にもワインを勧め、グラスを並べた。
「やあ、みんなお揃いだね。久利生君、これは俺からの差し入れだ。きみたちチョコ、大好きだろ?」
早見がドアから顔を出し、こちらも長方形の箱を差し出した。
「いま、その話をしてたところです」
久利生は笑顔を浮かべ、早見にもグラスワインを渡した。二杯目のワインを飲み終わる頃には榊も現れ、早見が用意してくれたカナッペを摘みながら作品を堪能した。
「久利生さんは、どうして彫刻を始めようと思ったんですか」
璃子はテーブル席に座り、生ハムのサラダをつつきながら久利生に問い掛けた。グラスに赤ワインがたっぷり入っている。今夜は深緑色にボタニカル柄のワンピースを着ていて、いつもの黒いパンツスーツより動きにくそうだ。
「森林に囲まれて育ったから、子供の頃から木の破片を組み合わせて遊んでいました。青木ヶ原樹海は何度となく探索して、木の根の形や洞窟に魅了されていました」
久利生は差し入れのチョコレートの包装紙を丁寧に剥がし、蓋を開けた。カウンター席に座っていた桐生に一つ勧める。赤いハート型やトリュフ、金色のラメが散りばめられたチョコレートが二十個ほど並んでいる。トリュフを一つもらい、口に入れた。甘さが広がり、一気に溶けていく。
「青木ヶ原樹海って、もとは溶岩だったんだろ? だから木はしっかり根を張れずに地表を這ってるんだよな。地面は硬くて歩きにくいって、本で読んだよ」
榊は赤いハート型のチョコを摘み、口に放り込んだ。
「だから俺は、トレッキングシューズを履いていくんだ。広さは東京ドーム六百四十個分もあるから、もしきみたちも行くなら方位磁石は持っていったほうがいい」
早見は桐生の前にレーズンバターの載った皿を置いた。小さなスプーンとクラッカーが添えられている。
「璃子さんなら体内包囲磁石が内蔵されてるから心配いらないね」
桐生はレーズンバターをクラッカーに塗り、口に運んだ。レーズンのほかにもドライフルーツが入っていて、ほのかな甘さとバターの風味が絶妙だ。
「桐生君はスズランテープも持っていったほうがいいわね。木に括り付けながら進めば、磁石が効かなくても迷う心配はないから」
璃子の忠告に、真衣が笑った。真衣は奥のテーブルで、同年代の女性とパスタを食べていた。置かれている彫刻は、黒い花の箱に設置されていたのとよく似たケルビムだ。壁には白いペガサスの油絵が掛かっていた。ペガサスの隣には少女が佇んでいる。ペガサスは翼を広げ、少女に顔を近づけていた。少女の痛みを癒そうとしているかのようだ。
「久利生さんは、樹海探索で彫刻に目覚めたんですか」
璃子はカウンター席に座る久利生に視線を向けた。
「木の温もりとか、立体が作り出すフォルムに興味はありました。でも、形を自分で掘り出してみようと思ったきっかけは、旅先で訪ねた木彫り店です」
「どこの木彫り店へ行ったんだい? 取材で北海道へ行った時は、町にたくさんの木彫り店があって驚いたな」
数年前、桐生は北海道で木彫りのキーホルダーを買っていた。天使の彫刻で、祈りを捧げるように合掌していた。ニスは剥げて傷だらけだが、いまもアパートの鍵に付けてある。
「岩手県にある集落です。そこに、九十四名の信徒が殉教した場所があるんです。子供の頃に両親と訪れ、近くにあった木彫り店のマスターに木彫りを教えてもらいました」
「……その木彫り店の名前って、覚えてるかい?」
正木耕助の木彫り店が脳裏を掠め、桐生は持っていたクラッカーを落としそうになった。
「僕に手ほどきしてくれたのは、正木耕助さんです。彫刻刀の柄に刻まれていたので、間違いありません」
久利生は自分の手に正木の彫刻刀を握っているかのように、自分の指を見詰めていた。
つづく