見出し画像

聖なる夜に花は揺蕩う 第6話 全なる無「全10話」

第1話はこちらから

 【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 



 12月16日木曜日


 刑事課室を出たのは午後十時過ぎだった。別室で調書作りに協力していた璃子の姿はない。疲れ果てて先に帰宅したのかもしれない。

 桐生は薄暗い階段を下りようとして、下から上ってくる男と目が合った。

「間に合ってよかった。捜査共助課から連絡があって、すっ飛んできたんだよ。またしてもおたくが第一発見者だとは驚きだね」

 尾崎は黒いレインコートを着ていた。まだ雨は降っているらしく、コートから水滴がしたたっている。

「捜査共助課から県警に連絡があったということは、警視庁も今回の事件は秩父湖の事件と同一犯だと疑っているんですね」

 桐生の問いに、尾崎は肯定も否定もしない。コートの内ポケットから手帳を取り出し、桐生を見た。

「今回の事件、おたくはどう感じてるのか率直に教えてくれるかな」

「今夜はさすがに帰りたいんで、詳しいことは調書を読んでください」

 通報してからすでに八時間以上経っている。これ以上同じ話を繰り返したら、頭の回線がショートしそうだ。今夜切断遺体の夢を見なかったとしても、いままさに悪夢のなかにいる。

 桐生は尾崎の横をすり抜けようとした。

「三日前に瀬田絢子の車が見つかったよ」

 尾崎の一言に、足を止める。

「……どこで見つかったんですか」

「二瀬ダム近くの無料駐車場に駐められていた。車内はきれいなもんだったよ」

 尾崎は手帳を開き、桐生の顔を注視している。

「犯人が乗り捨てたんですね。でも、容疑者は浮かんでない……」

 桐生の言葉に尾崎はうなずいた。車内に血痕などは残されていなかった。つまり瀬田絢子はどこか別の場所で殺され、犯人が瀬田の車で遺体を運んだ。犯人はいったいどうやって瀬田絢子の車のキーを手に入れたのだろう。

「殺害場所は、瀬田さんの自宅だったんですか」

「いや、まだわかってない。で、このとんでもない二つの事件は、記者さんから見てどんな印象かね」

 口調は穏やかだが、尾崎の目には有無を言わせぬ威圧感があった。捜査情報という餌に食いついた桐生は、尾崎の掌に釣り上げられていた。

「見せびらかしですよ。犯行声明文を送りつけてきたり、遺体を切断して音楽を流しておくなんて、誰かに見てもらいたくて仕方がないんですよ。殺人現場を演出して、発見者がどんな反応をするか楽しんでるんだ。そうとしか考えられません」

「じゃあ、犯人はおたくが驚く顔が見たかっただろうな」

 尾崎は手帳に何か書き付け、口を引き結んだ。

 どこかで見られていたのか。いや、そんなはずはない。部屋の中に隠れる場所はなかった。警察官が到着後、西岐の部屋は隅々まで調べられていた。それでも得体の知れない不快感が胸の内側から染み出してくるのを感じていた。

 
   12月17日金曜日
 
 生温なまぬるい液体が腕を伝っていく。これは血だ。痛みは感じない。薄闇のなかで、桐生は地面に横たわっていた。体を起こそうとしたが、何かが胸の上に重くのし掛かり動けない。

 誰かが桐生にささやきかけた。

 深淵を覗き込む者よ、お前が望むものは凶悪であり、罪であり、死である。

 ――お前は誰だ?
 叫んだつもりだった。だが桐生の言葉は闇に吸い取られ、声にならない。

 罪からもうじきお前に報酬が贈られる。死の棘はお前に死を与えるだろう。
 
 冷気が立ち込め、頭の奥に鋭い痛みが走った。桐生は目を開けた。昨夜帰宅した服のまま、またしてもリビングのソファーで寝落ちしたようだ。顳顬こめかみの奥がずきずきと痛む。ゆっくりと起き上がり、コーヒーテーブルの上に載ったスマートフォンを掴んだ。

 画面には午前五時と表示されている。窓を見た。カーテンの隙間から見えるのは黒い闇だ。

 常備している頭痛薬をミネラルウォーターで胃に流し込み、パソコンの前に座った。ネットでニュースをチェックする。西岐の遺体が真っ二つに切断されていたことは、どこにも載ってない。もちろん遺体に円と十字の印が刻まれていたことは伏せられている。

 ほっと胸を撫でおろし、メールボックスを開いた。きのうスマートフォンで撮った西岐の遺体写真は、通報する前に編集部と自宅のパソコンに送信しておいた。自分宛に送ったメールの画像をクリックしようとして、手が止まる。

 ――深淵を覗き込む者よ、お前が望むものは凶悪であり、罪であり、死である。

 夢のなかの声が脳内を駆け抜け、桐生は頭を振った。違う。そんなものは望んでない。ただ真実を知りたいだけだ。

『名もなき殺人者』からの手紙を受け取ってから約一週間。すでに三人の死にかかわっている。もう、あとへは引けない。

 祈るような思いでメールをクリックした。画像ファイルは二つ添付されている。一つ目のファイルを開いた。

 ベッドの上の遺体は、斜め後方から写されていた。遺体は腕を頭上に伸ばし、顔を天井に向けている。目をつぶり、静かに祈りを捧げているかのようだ。腰から下はうつぶせで、左足を右足にクロスさせている。白いシーツはやけにきれいでリアリティがない。ドイツの芸術家ハンス・ベルメールが作った人形アートのようにも見える。

 犯人はどうやって西岐の部屋に侵入したのだろう。部屋は四階にあるので、外から侵入したとは考えにくい。争った形跡もなかった。西岐が犯人を招き入れたのだろうか。だとすると、西岐と犯人は顔見知りだったことになる。

 二枚目の画像を開いた。西岐の遺体が至近距離で写っている。頭上に伸ばした腕は筋肉で盛り上がり、仰向けの顔は少し右に傾いていた。腹部の柔組織は、ほぼまっすぐに切り裂かれていた。迷いは一切感じられない。切断面はどす黒く、腸がはみ出していた。

 雨音に混じる『Where The Streets Have No Nameどの通りにも名前がついていない』が耳に蘇る。ボーカルのボノは、キリストは信じているが宗教は信じていない、と雑誌で読んだことがある。西岐のポーズは、犯人からのメッセージではないのか。

 ――犯人はおたくが驚く顔が見たかっただろうな。

 尾崎の言葉が浮かび、桐生は口を歪めた。邪悪な何かがひたひたと近づいてくる。その気配を振り払うように服を脱ぎ捨て、洗面所へ向かった。蛇口をひねり、熱いシャワーを頭から浴びた。夢のなかで感じた血の滴りを、きのうの汗と共に洗い流したかった。

 
 

 12月17日金曜日


 金曜日は来週号の企画会議があり、北村や赤石は会議室に行っていた。

 桐生は顔を上げ、窓際にある璃子のデスクを見やった。壁一面の窓はクリーム色のブラインドで常時遮光している。光は入らない。璃子はパソコンの前でぼんやりとしていた。普段からナチュラルメイクだが、きょうはほとんど眉毛がない。描き忘れたのだろう。おかげでいつもより優しそうに見える。

「きのう調書作りから解放されたあと、尾崎さんに会ったよ。捜査共助課から連絡をもらったって」

 話しかけると、璃子はわずかに目を上げた。精気がない。

「田園調布西署と秩父南署で合同捜査することになるのかもね。犯人は、いったい何人殺せば気が済むのかしら」

 璃子はまたパソコン画面に視線を戻した。画面には、円と十字の印が記された記事が表示されている。

「“全なる無”……?」

「これは、カバラ魔術について書かれた記事よ。北村さんが、この円と十字はカバラ魔術の印じゃないかって言ってたでしょ。だから調べてるの。それに今回は西岐さんの胸に印が刻まれてたわ。何か特別な意味があるのかもしれない」

 璃子はパソコンの記事がよく見えるよう、画面を桐生に向けた。

 存在する全てのものには、ある種の基本パターンがあり、我々の「内的伝統」には例外はあり得ない。その基本原理は非常に単純である。
 宇宙の円十字もしくは太陽の円十字、すなわち等辺の十字を含んだ円である。その内部で万物を生成している無。全なる無。
 
「すべてが無になるってことかな。そりゃあ、いつかは無に帰すだろうけど、それと殺人にどんな関係があるっていうんだろう」

 桐生は首をひねった。

「殺すことで宇宙と一体になるとかね」

 璃子は厳しい表情でパソコンに向き直った。

「宇宙の円十字か。犯人はどうして西岐さんを殺したんだろう。それも部屋を訪ねてる。西岐さんが犯人を部屋に入れたのかな」

「争った形跡はなかったわよね。それとも犯人がきれいに掃除していったのかしら。今回は殺害場所がわかってるし、マンションや住宅周辺の防犯カメラもあるだろうから姿が映ってるかもしれない。それだけ警察は犯人を見つけやすくなったわ。早く捕まえてくれないかしら」

 璃子の言葉に桐生もうなずいた。

 
 午後六時過ぎ、桐生は璃子も誘い、北村と三人で銀座に来ていた。

 駅前のデパートで白ワインを買い、数寄屋橋交差点を渡る。外堀通り沿いにある古びた雑居ビルの前で璃子が立ち止まった。ガラス扉に『報道写真展』と書かれたポスターが貼られている。画廊は地下にあるようだ。扉を開けると地下から談笑が聞こえてきた。

 細い階段を下りていく。入口にはいくつもの花が飾られ、かすかに甘い香りが漂っていた。

「三人おそろいで、来てくださったんですね」

 岡島が迎えてくれた。北村が差し入れのワインを渡すと笑顔を浮かべ、深々と頭を下げた。

「きのう、桐生君と璃子さんは大変でしたね。遺体を発見したんですよね? どんな経緯だったんですか」

 岡島は声を落とした。画廊は十畳ほどの広さで、中央に置かれたテーブルを囲んで男性が会話を弾ませていた。テーブルにはワインやビールのほかにカナッペやカプレーゼが並んでいる。

「取材していた男性だったの。瀬田さんが殺される数日前に、その男性の車に乗ったかもしれないっていう目撃情報があって、私たちはそれを確かめに行ったのよ」

 璃子も周囲には聞こえないよう囁いた。テーブルの向こうにはデスク陣がいた。赤石がワイングラスを片手に、若い女性二人と談笑している。

「さっきまで編集長もいたんですが、編集部に戻るって出ていきました。編集長っていつ編集部に行ってもいるからびっくりしちゃいます。休まなくて大丈夫なのかな」

「編集長はそこにいることに意味があるんだって。だからいつも編集部にいるようにしてるって、前に鳥居さんが話してたわ。せっかく積み上げた取材がパーになったりしてドン底気分になっても、鳥居さんの顔を見ると立ち止まってられないって思うもんね。せっかくだから展示を見せてもらうね」

 璃子はテーブルから白ワインのグラスを取り、入口横の壁に視線を向けた。桐生も白ワインのグラスを掴み、写真を見ていく。

 額装されたA4サイズの写真はモノクロで、公園が写っていた。誰も乗っていないブランコのそばに砂場があり、誰かが置き忘れたバケツとシャベルがやけに小さく見える。キャプションに記された名前は、同業他社のベテランカメラマンだ。

「この公園でよく遊んでいた男の子が誘拐されたらしい。身代金の請求もなく、事件はいまなお未解決だよ」

 岡島が桐生に解説してくれる。璃子は桐生より早いペースでどんどん作品を見ていた。一周目で全体をざっと見て、二周目をじっくり味わうタイプかもしれない。桐生は一点目から時間をかけて見たかった。岡島は桐生のペースに合わせ、立ち止まってくれていた。

 次の写真もモノクロで、生垣の向こうに平屋が写っていた。窓は閉まっていて、外壁との対比で黒く見える。

「この建物は犬舎らしい。犬の飼育をしていた男は、散歩中に知り合った女性を絞殺したあと、自殺したんだ。床下から人骨が複数見つかってるけど、身元不明のままらしい」

 二年前の事件だ。『FINDER』でも記事を出していた。

「岡島さんは、この事件があった頃もアラスカにいたんですか」

 岡島に視線を向け、白ワインを口に含んだ。酸味とほどよい甘さが疲れた脳に染み渡る。

「うん。でも、最初の渡米はロサンゼルスに行ったんだ。ブロンドの美女と出会いたいっていう不純な動機でね」

 岡島は生ハムとオリーブのカナッペを二つ紙の皿に取り、桐生に差し出した。
「ロサンゼルスとアラスカじゃ、ずいぶん離れてますね。もしかしてオーロラが見たかったとか?」

 皿から一つつまんで口に入れた。塩が効いていて食欲をそそる。

「大自然への憧れはあったね。四月のアンカレッジでは、一日の日照時間が十五時間もあるんだよ」

 犬舎の写真が二枚続いたあとに、岡島の写真が飾られていた。写っているのは青空で、うっすらと虹が架かっている。

「この日は朝から雨だった。でも午後には止んで、見上げると虹が出ていたんだ。当時起きていた殺人事件の犯人が逮捕された日でもあるんだよ。写真を撮ったあとで、被害者の無念が報われたんだなって思ったのを覚えてる」

 岡島は深緑色のスーツを着ていた。ジャケットのインナーは黒のサテンシャツで洒落ている。

「僕は、この前のモルフォ蝶のカラー版も見てみたかったな。南米の空は、きっとアラスカより青いんでしょうね」

 桐生は目をつぶり、メタリック・ブルーの翅が舞う南米の空を思い浮かべた。きらきらと輝く青い光で、きょう西岐の部屋で見た光景を消し去りたかった。

「やあ、桐生君。久しぶりだね」

 やけに明るい声で名前を呼ばれ、桐生は振り返った。長身の痩せた男が立っていた。電話では連絡をとっているが、実際に会うのは一年ぶりだ。ダークグレーのスーツに青のワイシャツを合わせ、剛毛の癖毛はいつもより入念に髪をセットされている。

「高輪さん、きょうは休みですか」

「いや、仕事は切り上げてきた。知り合いのカメラマンからDMを貰ってたから、ちょっと寄ってみたんだ」

 高輪はテーブルの向こうにいた北村に会釈した。北村はデスク陣と話している。

「北村君はあいかわらず活躍してるよね。秩父湖の事件、あの記事を書いたの北村君でしょ? 桐生君が第一発見者なのは知ってたけど、北村君も一緒に現場に行ったんだね。現場写真は誰が撮ったの?」

「岡島さんです。今年の春から『FINDER』に来てくれたんです」

 桐生は岡島を高輪に紹介した。高輪が名刺を差し出すと、岡島は東光新聞の文字に目を輝かせた。

「『東光新聞』は、帰国してから電子版を購読してます。名刺をいただけるなんて光栄です」

 岡島もすぐに自分の名刺を取り出し、高輪に渡した。

「岡島君も、年の瀬にえらいもん見ちゃったね。まだ二十代? 肌の艶が俺なんかとは違うよね」

 高輪は白のスパークリングワインの入ったグラスを取り、一気に飲み干した。長崎出身で酒は強く、どんなに飲んでも顔色は変わらない。

「いえ、今年で三十一になりました。去年までアラスカにいたんで、体力には自信があります」

 岡島は頬をほころばせた。一流メディアの新聞記者と知り合いになれたことがよほど嬉しいらしい。

「アラスカって、いわゆる極寒地だよね。冬はマイナス三十度の世界でしょ? きみ、よっぽどタフなんだね」

 高輪の言葉に岡島は微笑んだ。

「生きてることのありがたみを感じますよ。たぶん、死を意識するからなんでしょうけど、きょうも生き延びられてよかったって思いながら眠ることができます」

「一日を生き延びられたことに感謝する、か。それって素晴らしいことだよね。俺もこれからは徹夜明けに朝日を眺めるとき、感謝することにするよ」

 高輪は二杯目のグラスを手に取った。次もスパークリングワインだ。乾杯しようとしたが、岡島はテーブルの向こうにいた赤石たちに呼ばれて行ってしまった。

 ふと、桐生の脳裏に白石夏希の顔が浮かぶ。十一年前に長崎で起きた絞殺事件のことを、高輪なら知っているのではないか。

「高輪さんは長崎出身ですよね。十一年前に雲仙の洞窟で絞殺事件があったんですけど、覚えてますか」

「ああ、岩戸神社の洞窟だね。罰当たりだよね。神仏の御前で人をあやめるなんてさ。桐生君がそんなことを訊くってことは、『FINDER』で未解決事件の特集でもやるの?」

 高輪は室内をざっと見渡し、黒と濃いグレーの写真に近づいた。B4サイズで銀色の額に収められている。よく見ると黒い木々の間に草原が写っていた。キャプションには、『この森で女性の遺体が発見された』と書かれている。黒い木々は不気味で、草に染み込んだ被害者の悲鳴が聞こえてくるようだ。

「実は、岩戸の事件現場にいた少女が五月に行方不明になってるんです。それで調べてるんですよ」

「それって、今回の事件と関係があるとか?」

「……場合によっては、そうかもしれません」

 言葉を濁す。夏希が十字の印の入ったビー玉を持っていたことは、まだ高輪に話すわけにはいかない。

「なるほど。桐生君たちはいろんな可能性を探ってるんだね。今週号の『FINDER』、読んだよ。『名もなき殺人者』の手紙は衝撃的だったね」

「あの手紙には、五件の殺人を犯したと書かれていました。つまり、未解決事件があと四件あるはずです」

「だから桐生君たちは、殺人に繋がりそうな失踪事件を調べてるんだね」

「確率は低いけど、もしかしたら、残る四件の事件に行き当たるかもしれない。万が一ってこともありますから」

「犯人がまた手紙を送ってくる可能性だってあるしね。スクープを掴むには幸運が必要だって思うでしょ?」

 高輪が桐生を見た。いつも好奇心旺盛で、誰もが見過ごすような小さな違和感を見逃さない。高輪は、桐生が口にしない事柄を読み取ろうとしているような気がした。

「高輪さんはかならずと言っていいほど幸運を引き寄せますよね。天性の強運を持ってるんですよ」

 桐生の言葉に、高輪は「いや違う」と右手の人差し指を振ってみせた。

「その運は、日頃の努力と行いが引き寄せるんだよ。まずは笑顔だよ、桐生君。“笑う門には福来る”って言うでしょ?」

 数々のスクープをものにしてきた高輪が言うと説得力がある。高輪は三杯目のグラスを手に取った。今度は赤ワインだ。グラスを揺らし、次の写真に視線を向ける。

 人のいない商店街だった。商店街には見覚えがある。この先のアパートで女性が殺された事件を、桐生は二月に取材していた。キャプションには、桐生の知らない名前が記されている。

「きのうの昼過ぎに、雪が谷大塚で男性の遺体が発見されたのはご存知ですか」

 桐生は思い切って訊いてみた。

「事件があったのは知ってる。きのうは妹の結婚式で、その時間は青山の式場で誓いの言葉を聞いてたんだ。あいにくの豪雨で、妹と花婿の誓いより雷が落ちるんじゃないかって気になってたけどね。将来を誓い合ってる最中に雷が落ちたら、なんだか気まずいでしょ。雷鳴の中での誓いなら、参列客の記憶には深く刻ませること間違いないけど」

 高輪にかかると不運な出来事もどこかユーモラスに聞こえる。

「『名もなき殺人者』は、また犯行を重ねると思いますか」

「そう思うね。こういうタイプは、取り憑かれてるんだよ。FBI捜査官が書いた本によると、自分の頭んなかに描いた理想の殺人と現実の殺人のギャップが許せなくなるらしいよ。得られる満足感の持続力も徐々に短くなっていく。だから、殺人の間隔も詰まっていく。それでたいていはミスを犯して捕まるけど、なかにはノーミスで迷宮入りになる事件もある」

 高輪は肩をすくめ、桐生に向き直った。

「これで終わりじゃないってことですか」

「ああ。俺はなんだか胸騒ぎがするよ。次もきっとイカれた事件になるだろうな」

 高輪の呟きに、桐生は顔の筋肉が硬直するのを感じた。高輪の事件を感じ取る独特の臭覚は超一級だ。

「『名もなき殺人者』は、ただのイカれたサイコパスじゃなさそうですね」

「ああ、こいつは相当イカれたサイコ・キラーだろう」

 高輪は強い口調で言い、グラスに残ったワインを一気に飲み干した。

 
   

 12月18日土曜日


 編集部に行くと、北村と岡島がホワイトボードに『奥多摩・三頭山みとうさん』と書き込んでいた。

「清澄さんから連絡があったんだ。三頭山の尾根で、樹里亜さんのものと思われる遺体が見つかったそうだ。DNA鑑定をするらしい。いま三頭山にいるそうだから、会って話を聞かせてもらうことにした」

「じゃあ、僕も一緒に行きます」

 桐生もホワイトボードに『三頭山』と記入した。

 
 自販機でホットの缶コーヒーを三つ買い、北村の車に乗り込んだ。桐生が助手席で岡島が後部シートだ。

「遺体のそばに、樹里亜さんの所持品があったんですか」

「そうらしい」

 北村はナビに秩父多摩甲斐かい国立公園と入力し、編集部専用駐車場から通りに出た。

「清澄さんから連絡をもらって、まだ二日しか経ってない。清澄さんが貸してくれたファイルだってまだよく読んでないし、樹里亜さんが休みの日によく食べに行ってた渋谷のパフェも確かめに行ってなかったのに」

 桐生は缶コーヒーの蓋を開け、一口飲んだ。熱くて一気には飲めない。

「樹里亜さんには、付き合っていた男性はいなかったんですか」

 後部シートから岡島が問いかけた。

「いたけど、今年の二月に別れたらしい。その堀内って男にも会って、話を聞いてきたよ。彼女には自殺願望があったって言ってたな」

「本当かどうかわからないですよ。樹里亜さんの遺体が見つかったから、警察はこれから堀内のことを徹底的に調べるでしょうね」

「そのファィルは、清澄さんに返すんですよね? 持ってきてるんですか」

 岡島は後部座席から乗り出し、フロントミラー越しに北村と視線を合わせる。

「ああ、後部座席の紙袋のなかにあるよ。樹里亜さんがパソコンに書いていた日記やFacebookに載せていた記事がファィリングされてる。見てもいいよ。岡島君もこれから清澄さんに会うんだ。樹里亜さんのことを知っといて欲しい」

「このなかに、犯人に繋がりそうな手掛かりはなかったんですか」

 岡島はファィルを手に取り、表紙を開いた。

「写真はFacebookにもアップされたものだし、日記には堀内とデートした場所とか一緒に食べた物とかが切々と綴られていた。別れを切り出されて、そうとう傷ついてることがわかるよ」

 信号で車は停止した。北村はコーヒーをすすり、ドリンクホルダーに入れる。

「俺たちは、どこに向かってるんだろうな」

 北村は信号を見つめている。

「地獄に向かって突っ走ってるのかもしれませんね」

 岡島はファイルに視線を落とし、ゆっくりとページをめくっている。沈痛な面持ちで、唇を噛み締めている。樹里亜が持っていた輝きを、心に刻み込もうとしているようだった。

 秩父湖で遺体を発見したとき、『FINDER』は地獄行きの切符を手にしたのかもしれない。人が人を殺す。この道は太古の時代から始まり、どこまでも続いていく。たとえ今回の事件が解決しても、新たな事件が待っている。自分たちは地獄へ突き進むしかない。

 
 午前十一時、三人は秩父多摩甲斐国立公園のなかにある『檜原ひのはら都民の森』に着いた。檜原都民の森は、奥多摩三山の一つである三頭山の南東斜面、標高千から千五百メートルに広がる山岳公園だ。

 バス停の近くにある駐車場はがら空きだった。車から降り、辺りを見回す。木々は落葉し、吹き抜けていく風は冷たい。空は白い雲に覆われていた。

「桐生君は、青木ヶ原って行ったことあるかい?」

 岡島はカメラを肩から掛け、手に花束を持っていた。清澄樹里亜の遺体が発見された場所に供えたいと、途中で買ったものだ。

「自殺の名所で有名な富士の樹海ですね。東京ドーム六百四十個分の広さだって聞いたことあるよ。でも、僕が行ったら、かなりの確率で帰って来られないだろうな」

 木造平屋建ての売店があり、奥に『都民の森』と記された看板が見える。

「スマホにはコンパス・アプリもあるし、心配なら帰り道がわからなくならないようにスズランテープを木にくくり付けておけばいい。日が沈む前に戻ってくれば大丈夫だよ」

 岡島が励ましてくれるが、コンパスが壊れることだって有り得る。Googleマップが「ルートを変更しました」を連呼して、二分で着くはずの目的地に三十分かけても辿り着けなかったのはつい最近だ。

「俺は行ったことあるよ」

 北村は気持ちよさそうに空を見上げていた。黒いコートの裾がひらめき、メンズ雑誌の一ページみたいだ。何気ない仕草もサマになるのは、長身だからというだけではない。

「北村さんは、いつ行ったんですか。『FINDER』で樹海特集なんてあってもいいかもしれませんね」

「『FINDER』の専属になる前だったな。取材で、樹海に詳しいフリーのライターと行ったんだ」

「自然は豊かだと思うけど、遺体を見つけちゃう可能性もありますよね。もしかして、そっちが目的だったとか?」

「どうして自殺するのにわざわざ樹海へ行くのかわからなくてさ。ナイフで手首を切るとか、歩道橋から飛び降りるとか、ほかにも方法はあるだろ? 彼らを引きつけてるのは何だろうと思ったんだ」

「それで、見つけたんですか」

 桐生の問いに、北村はうなずいた。

「なぜ樹林に行くのか、わかったんですか」

「俺たちが見つけたのは、亡くなって間もない遺体だった。いまにも動き出しそうなくらいきれいで、信じられなかった。白骨化してるほうがいいって思ったよ。それなら人間も土にかえるんだって信じられるだろ」

 北村は空を見上げた。いまなお鮮明に記憶に刻み込まれているようだ。

 看板に近づいていくと、清澄茂が立っていた。桐生たちに気づいた清澄が深々とお辞儀をした。清澄に岡島を紹介し、お悔やみを述べた。

「警察署で遺体は確認できたんですか」

「それが……遺体は見ないほうがいいと言われました。樹里亜が普段使っていたヘアブラシを渡したあと、遺留品を見せられました。あれは樹里亜のバッグでした」

 清澄は声を震わせた。

「バッグのなかには何が入っていたんですか」

「財布です。なかに学生証が入っていました」

 清澄は落ち窪んだ目をしばたたかせた。樹里亜が失踪したのは八月だ。警察が遺体に引き合わせないと判断したのは、かなり腐敗が進んでいたからだろう。

 清澄が歩き始め、桐生たちもあとをついていく。看板の奥に登山道へ続く道がある。しばらく誰も喋らず、登山道へ入っていった。舗装されていて坂もきつくない。土と草の匂いがする。どこかで鳥が鳴いていた。

「死因は何だったんですか」

 北村が口を開いた。

「警察からは『まだわからない』と言われました。この先にブナの路があるんです。西峰近くの斜面にバッグが落ちているのを登山客が見つけたそうです。それで、斜面の草むらに遺体があったようです」

 清澄は胸の前で両手を握りしめた。

 桐生は返す言葉が見つからず、無言のまま登山道を進んでいった。アスファルトで舗装された道は人が二人並んで歩けるほどの幅があるが、登るにつれ少しずつ細くなっていた。

 短いトンネルがあり、抜けると道が二手に分かれていた。矢印の形の札があり、右手は『鞘口峠さいぐちとうげ』、左手は『三頭大滝』と記されている。清澄が振り返った。

「ここへは、ずいぶん前に妻と三人でハイキングに来たことがあります。あれは樹里亜が夏休みの頃だったかな」

「もしかしたら樹里亜さんはそれを憶えていたのかもしれませんね。だからここを訪れたのかも」

 桐生は辺りを見回した。落葉した木の枝が重なり合っている。夏の深緑を想像する。青空と白い雲を見上げる親子を思い浮かべた。桐生が子供だった頃の思い出と重なる。家族は笑い合っていた。

 堀内が話していたように、樹里亜に希死念慮があったのだろうか。自らこの地で死のうと決意したのか。あるいは、ここで『名もなき殺人者』と出くわしてしまったのだろうか。

 清澄は右手へと歩き始めた。舗装された道は終わり、冬枯れの樹林のなかを登っていく。急な上り坂になり、息が切れた。枯れ葉を踏み締める音に鳥のさえずりが重なる。ときおり思い出したように岡島が立ち止まり、シャッターを切った。

「……樹里亜は、堀内に殺されたんです」

 清澄が足を止め、桐生を振り返った。

「秩父湖で女性を殺したのも、きっとあの男です。だって手紙に書かれていた十字の印は、樹里亜の部屋にあった置き物と同じですよ」

「樹里亜さんが『名もなき殺人者』に会っていた可能性はあります。あの置き物のことを、警察に話しましたか」

 北村の言葉に、清澄は首を振った。

「私も、樹里亜さんと瀬田さんを殺したのは同一人物だと思っています。その置物のことを、警察にかならず話してください」

「……『名もなき殺人者』だなんて、ふざけてる」

 清澄は言葉を吐き捨て、首に巻いていたマフラーを巻き直した。拳を握りしめ、また歩き始める。

「今朝はやけに冷えると思ってたけど、予報出てましたっけ」

 岡村は空を見上げていた。つられて桐生も天を仰ぐ。ひらひらと白い花びらが舞い落ち、頬に当たった。雪だ。

 清澄は樹林を見回し、「あのブナの木です」と指差した。落葉したブナの樹林に足を踏み入れ、斜面を登っていく。三人もあとに続いた。

 清澄が指したブナは周囲の木より幹が太く、枝が大きく三本に分かれていた。先端に向かってさらに細かく分かれ、空を掴むように伸びている。その向こうに斜面が見える。

 木の根元に岡島が花束を置いた。清澄は合掌しうなだれた。四人が黙祷を捧げる間、樹林は静寂に包まれていた。枝の向こうから止めどなく落ちてくる雪は、樹里亜の死をいたんでいるようだった。

 
 
 *****
 
 窓の外は青く透明なベールに包まれていた。『名もなき殺人者』は目を細めた。

 痛みを超越した向こう側に、いままで見た記憶のすべてを絶する景色がある。痛みは人を成長させ、美しくする。それはまるで、さなぎから羽化する蝶のようだ。

 蛹のなかでそれまでの体をばらばらにし、再構成するときの痛みはどれほどのものだろう。若草色の蛹はやがて黒ずみ、そのうちに上部が外れる。柔らかな風を感じながら、アゲハチョウはゆっくりとはねを伸ばす。その薄くしなやかな翅は朝日に祝福され、新たな世界へと飛びたっていく。

 あの小さな翅の羽ばたきが世界を変化させるように、自分の行いが新しい価値を生み出し、世界を変容させる。一つの命が消え、死が永遠を生む。亡骸(なきがら)は誰にも侵害されない静謐せいひつのなかで、この世界を浄化していく。

 その死を自分の手のなかに掴みたい。そう願わない者がいるだろうか。



貴重なお時間とサポート、ありがとうございます✨✨✨