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聖なる夜に花は揺蕩う 第7話 黒い羊「全10話」

第1話はこちらから

 【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 
 


 12月19日日曜日


 今朝も五時過ぎに目が覚めた。夢は見なかった。暗い湖底を彷徨さまよっているみたいだ。光を求めて動かずにはいられない。

 編集部へ向かう電車のなかで、桐生のスマートフォンに富士原からメールが届いた。富士原は木曜日に発売された『FINDER』の記事を読み、どうしても会って話しておきたいことがあるという。何か気づいたことがあるのかもしれない。

 時間と場所を指定してくれれば、きょうにでも会いに行くと返信して電車を下りた。

 麻布十番の改札を通り、地下道を歩く間もメールの着信がないかチェックした。富士原からまだ連絡はない。きょうは日曜日で、ビジネスマンやOLとはすれ違わなかった。エスカレーターに乗らずに階段を上る。階段から見上げる出口は、白くまぶしかった。

 編集部のあるビルの入口にはシャッターがあるが、桐生がどんな時間に行ってもいつでも開いていた。

 階段を駆け上がり、編集部のドアを開けた。なかは薄暗い。編集長を入れて五十六名のスチールデスクが並んでいる。右壁面に窓があるが、つねにブラインドで遮光していた。

 奥のドアが開き、鳥居が顔を出した。徹夜明けのように眼窩が落ち窪んでいる。

「編集長、もしかして徹夜ですか。コーヒー淹れますよ」

 桐生はコートを椅子に掛け、デスク席の前を通って流しへ向かった。

「いや、俺が淹れる」

 鳥居はいつにも増して厳しい視線を桐生に向けた。

「お前、何かに憑かれてるのかもな。最近肩が重いとか、やけに寒いなんてことはないか」

 鳥居は食器棚に近づき、マグカップを二つ取り出して流しに並べた。コーヒーメーカーに焙煎された粉と水をセットし、スイッチを入れる。

「やめてくださいよ。夢にうなされることはありますけど、悪夢なら編集長のほうが詳しいですよね」

 桐生は鳥居から少し離れた窓際に立った。鳥居は元・東光新聞の敏腕記者だ。修羅場をいくつもくぐり抜けてきたからこそ、マグカップに「万事塞翁ばんじさいおうが馬」と格言を刻み、己を励ましているのだろう。

「俺たちの仕事は、いってみりゃあ悪夢みたいなものだからな。そういう意味では、お前は仕事に恵まれてる」

 鳥居は上着のポケットから透明なポリ袋を差し出した。なかに白い封筒が入っている。宛名はワープロ文字で印字され、差出人の名前はない。封は切られていた。

「証拠品だから、指紋を付けないように読んでくれ」

 鳥居の一言で、誰から送られた手紙なのか察しが付いた。

 桐生は流しの引出しからゴム手袋を出して嵌めた。この手紙から差出人の指紋は検出されないだろう。それでも鳥居の忠告に従った。封筒のなかから三つ折りの紙を引き出して広げる。
 
   親愛なる『FINDER』の皆様へ
 
   想像してください。あなたがたはいま、
  虚空こくう を吹く風の中にいます。一人の
  女性の死を突き止め、考えている。なぜ、
  彼女は殺されなければならなかったのか、
  と。
   前回の手紙で私が告白した四件の殺人に
  ついても、きっと調べてくださっていること
  でしょう。
   被害者はみな、虚空に取り残された者たち
  です。誰かと繋がることで充足できると信じ
  ていた。そんな幻想を断ち切り、真の充足を
  与える。それが私の使命だと思っています。
   ところで、真の充足とは何かご存知
  ですか。
 
 桐生は手紙から顔を上げた。コーヒーメーカーが音を立て、いい香りが漂っていた。鳥居はピッチャーに落ちる黒い液体を見つめている。

 犯人は自分の犯行が世間に注目されて悦に入り、さらなる注目を要求しているのだろうか。そうだとわかっていても『FINDER』は再び手紙を掲載することを、『名もなき殺人者』は知っている。

 ふっと息を吐き、手紙に視線を戻した。
 
   “死”こそが至高の充足です。すべては闇に
  消え失せる。あとには何も残らない。だから
  いまを大切に生きなさい、などと言うつもり
  はありません。好きにしたらいい。
   いくつもの幻想を抱いて、他人の痛みや悲
  しみから目を逸らし、自分の番が回ってきた
  ら果てればいい。
   あなたがたがどんな記事を書こうと、世間
  は忘れていく。忘却によってしか傷は癒され
  ないのだから、仕方ありません。
   あなたがたがこの手紙を読む頃には、西岐
  亮司の死体も発見されているかもしれません
  ね。あれが私の犯行だとわかるよう、署名を
  刻んでおきました。
   偉大な宇宙の力を表す円を、世間の人々に
  も見せてあげたい。きっと私に呼応する者は
  大勢いるでしょう。
   あの円を掲げる者は私と同類です。私は彼
  らを受け入れる。円が私たちを繋いでいくの
  です。
  
 西岐の遺体が目に浮かび、桐生は唇を噛んだ。『名もなき殺人者』は、殺しを楽しんでいる。ゲームのように。
 
   ここまで読まれたあなたは、絶望を感じて
  いるのではありませんか。
   まだ四件の殺人が闇に包まれています。投
  げ出したい衝動に駆られているかもしれませ
  んね。
   引き続きお付き合いいただくために、動機
  について少しだけ教えて差し上げましょう。
   あなたがたがいつでも夢中になって追いか
  けている殺人鬼、つまり私やほかのシリア
  ル・キラーたちの動機の一つは『スリル』だ
  ということです。つまりリスクが高いほど
  スリルを味わえる。
   欲を言えば、ターゲットは魅力的な人物で
  あるほどいい。そういう意味では、西岐は
  少し物足りなかったですね。
   彼はもっと本気で物事に取り組むべきでし
  た。厳しい自然と向き合いたいならなおさら
  です。
   いずれまた、お会いしましょう。あなたが
  たの健闘を祈ります。

             名もなき殺人者より
 
「ふざけてる。スリルが味わいたいなら、一人でロック・クライミングでもスカイ・ダイビングでもやればいいんだ。くそっ」

 手紙を破り捨てたかったが、その前に桐生の手から鳥居が手紙を取り上げた。

「落ち着け。こいつは六人目の殺人を告白してるんだ。警察に届けなきゃならない」

 鳥居は「歩くことを学べ!」のマグカップを桐生に差し出した。カップを受け取り、コーヒーをすする。深い苦味が口の中に広がり、体に染み渡っていく。

 ――ターゲットは魅力的な人物であるほどいい。

 手紙の言葉を反芻はんすうし、桐生は顔を上げた。

「西岐の部屋は荒らされませんでした。四階だから、外からの侵入も考えられません。犯人は、西岐を個人的に知っていたんじゃないでしょうか。だから西岐は犯人をあっさり部屋へ招き入れ、殺されたんです。西岐だけじゃない。瀬田絢子のことも、魅力的な女性だと知っていた」

「つまり、これは『流し』の犯行じゃないってことか。『名もなき殺人者』は、瀬田絢子や西岐と繋がりがあったんだな」

 鳥居は低く唸った。その目は獲物を見つけた鷲のように鋭い光を放っていた。

 
 午前八時過ぎ。田園調布西署のドアを開き、桐生は正面受付に座る男性署員に名刺を差し出した。

「殺された西岐さんの事件のことで、刑事さんに渡したいものがあるんですが」

『名もなき殺人者』からの手紙を刑事に渡すつもりだった。署員は『FINDER』の名刺を胡散臭そうに一瞥し、「少々お待ちください」と返答すると机の上の受話器を掴んだ。

 捜査はどこまで進んでいるのだろう。捜査共助課が秩父南署に連絡したことを考えると、合同捜査本部が設置されるのではないか。だとすると、田園調布西署員は人員集めと本部会場の準備で忙しいに違いない。日を改めようかと出口へ向かいかけたとき、誰かに肩を掴まれた。振り向くと尾崎が立っていた。

「おたくから会いにきてくれるとは嬉しいね。俺が用件を聞くよ」

「尾崎さん、きのうから泊まりですか。合同捜査本部が設置されるんですね?」

 探りを入れる。尾崎はうなずいた。

「俺たちの捜査本部から七人入れて、五十人規模になるだろう。その前に通常の捜査会議があるんだが、おたくの用件は込み入ってるのかな」

 尾崎は袖口から覗く腕時計に視線を落とした。黒い文字盤で、銀色の長針は二十分を差している。朝の捜査会議は八時半からだ。桐生はコートのポケットから袋に入った手紙を取り出し、尾崎に差し出した。

「『名もなき殺人者』からです。こいつはよっぽどの目立ちたがり屋ですよ」

「また手紙か。奴は喋りたいことが山積みなんだな。そんなに喋りたいなら、思う存分喋らせてやるさ。後悔するのは奴のほうだがな」

 尾崎は手紙を受け取ると、口角を引き上げた。

 
 手紙を渡してすぐ帰るつもりだったが、手紙を受け取ったときの状況を詳しく訊かれ、編集部に戻ったのは昼過ぎだった。スマートフォンにメール受信の知らせが表示された。富士原からだ。

 開くと、「17時以降なら大丈夫ですが、桐生さんの都合はいかがですか」と書かれていた。すぐに返信し、五時半に中目黒の駅前にある書店で待ち合わせることにした。

 璃子にも伝え、二人で中目黒へ向かうことにした。


 午後5時

 中目黒の改札を出て、通りを渡った。富士原に指定された書店は駅の正面にあった。

 店内に入ると、オレンジ色のライトが書棚を照らしていた。地図や旅行のガイドブックがずらりと並んでいる。壁際には小さなテーブルとスツールが置かれ、若いカップルが本を広げていた。

「富士原君とは、どのジャンルの本棚で待ち合わせてるの?」

 璃子は周囲を見回している。

「奥にカフェがあるらしいよ。そこで修論を書いてるってさ」

 左奥にカフェのレジカウンターが見えた。四人掛けのテーブル席が八つある。半分ほど埋まっていたが、富士原の姿はなかった。

「約束は五時半だから、僕たちのほうが早かったみたいだね」

「桐生君は、ここで席を確保しておいて。何飲む?」

「璃子さんと同じものでいいよ」

 桐生は壁際のテーブル席に座った。いつの間にかジョン・レノンの『Happy Xmas』が流れていた。

 手帳を取り出し、事件を時系列に書き出してみる。
 
・11年前の8月29日、雲仙の岩戸神社で白石優人が絞殺された。現場に居合わせた白石夏希は、十字の印が入ったビー玉を握りしめていた。

・今年5月のゴールデンウィーク前、白石夏希が失踪。YouTubeチャンネルのアイコンは円と十字だった。

・8月29日、清澄樹里亜が失踪。部屋に十字の印が入ったビー玉が残されていた。

・12月10日金曜日、瀬田絢子の遺体が秩父湖の湖底で見つかった。犯人から送られた手紙に、円と十字の印が書き込まれている。

・12月16木曜日、雪が谷大塚の自宅マンションで西岐亮司の遺体が発見される。左胸に円と十字の印が刻まれていた。
 
『名もなき殺人者』は西岐を含め、これまでに六人を殺した。そのうち、遺体が見つかっているのは四人。白石夏希の遺体はまだ見つかっていないが、手紙に告白されていた五人のうちの一人である可能性は高い。

 もう一件、まだわかっていない事件がある。その被害者は闇のなかでスポットライトが当たるのを待っている。

「桐生さん」

 名前を呼ばれ、手帳から顔を上げた。鮮やかな黄緑色のダウンベストを着た富士原が立っていた。手に店名の入った紙コップを持っている。富士原の後ろに璃子が立っていた。璃子は二つ持っていたコーヒーの一つを桐生に渡した。

「それ、ホワイトホットチョコレートのトールよ。期間限定で、ホイップクリームとホワイトモカシロップ追加がお勧めって聞いたから、桐生君も同じのにしといたわ」

 甘い香りがする。一口飲んだだけで、クリームとチョコレートの風味が身体中に広がった。

「璃子さんにしては珍しいね。いつも健康第一だから、チョコやクリームとは絶縁してるんだと思ってた」

「限定品は特別よ。それにひどいこと続きだから、たまには甘いもので癒されたいの」

 璃子は桐生の横に座り、紙コップに口をつけた。口の周りがクリームで白くなっている。

「お二人は仲がいいですね。羨ましいな」

 富士原が桐生の前に座った。

「そういう富士原君は、卯月君と仲がいいんだよね? 同じ研究室だし、二人で飲みに行ったりするでしょ」

 手帳を開き、富士原に視線を向けた。

「……卯月とは、大学で知り合ったんです。なんとなくタイミングが合う奴っていうのかな。選択科目がほとんど一緒で、通学の電車でも同じ車両にいたり。だから気づくこともあるっていうか……」

 富士原は両手で包み込むように紙コップを持ち、うつむいた。店内に流れる曲は『戦場のメリークリスマス』に変わっている。

「僕たちに話したいことって、卯月君のことかい?」

 桐生が切り出すと、富士原ははっとした様子で顔を上げた。

「桐生さんたちが卯月のことをどう思ってるのかは、だいたいわかります。好青年に見えるでしょ? めっちゃイケメンだし」

 富士原の言動に、璃子が笑みを浮かべた。

「そういう富士原君だってモテるでしょ?」

「ぜんぜんですよ。卯月は、その場にいる女子全員からこくられるような男です。だからといって妬んでるんじゃありません。あいつには、人を惹きつける魅力がある。でも、それは深い闇を抱えてるからなんです」

 富士原は独り言のようにつぶやいた。

 桐生は卯月の顔を思い浮かべた。大理石のような滑らかな肌と切れ長の目は、知的な光を発していた。あの光は、暗い闇から生まれるのだろうか。

「卯月君には、どんな闇があるのかな。まさか夜はホストのバイトで稼いでて女性に貢がせてるとか、新興宗教の信者で壺を売りさばいてるんじゃないよね?」

 他社の週刊誌で読んだ殺傷事件を口にすると、富士原は首を振った。

「卯月には、人に話したくない過去があるんです。でも、瀬田先生には話してました」

「きみは、二人が話しているのを聞いたのかい?」

 桐生の問い掛けに富士原がうなずく。

「七月の初めでした。ゼミの連中とカラオケに行こうってなって、卯月も誘ったんです。でも、気が乗らないって断られて。そのときは気分でも悪いのかなって気にしませんでした。駅で携帯を置き忘れたことに気づいて、研究室へ取りに戻ったんです。ドアを開けようとしたら、中から卯月が瀬田先生と話してるのが聞こえてきて……」

 富士原は、記憶を辿るように視線を彷徨さまよわせた。

 桐生はペンを握り直し、富士原の言葉を待った。璃子はうまそうにホワイトホットチョコレートを飲みながら、聞き役に徹している。

「“俺が追い詰めたのかもしれない”って。卯月はそう言ってました。瀬田先生は、望みを持ち続けるように励ましていたと思います。深刻そうな雰囲気だったんで、二人が出てくるのを外で待ちました。十分ほどで二人は出てきたんですが、声は掛けませんでした。話し掛けたら悪いような気がしたんです。なんていうか、まるで……」

「――恋人同士みたいだった」

 璃子がホワイトチョコレートのカップから顔を上げ、富士原のあとを続けた。

「はっきりしたことはわかりません。でも、卯月は瀬田先生には心を許してるんだなって感じました。先生も、俺が近づけない距離に卯月だけ受け入れてるって」

「卯月君て、運転はできるのかしら」

 璃子はカップを揺らしながら首を傾げた。

「ええ、一度乗せてもらったことがあります。ゼミの合宿で山梨へ行くのに、卯月が車を出してくれたんです。レクサスのESで、最高の乗り心地でしたよ」

 富士原はほっとした様子で、コーヒーをすすった。

 桐生は手帳に視線を落とした。卯月から連絡をもらったのは日曜だった。黒のアウディを目撃したと聞き、西岐に疑いを抱いた。桐生と璃子が雪が谷大塚の部屋を訪ね、西岐の遺体発見に至ったのは、卯月の証言がきっかけだったといえる。

 卯月が黒の外車を見たのは、本当だったのだろうか。卯月と瀬田絢子が恋愛関係にあり、西岐の存在が二人の関係に影を落としていたのかもしれない。あるいは卯月が一方的に瀬田絢子に思いを寄せていて、西岐に嫉妬していたのだろうか。

 だから黒の外車を見たと伝えてきたのか。西岐の車が黒のアウディだと知っていて、西岐に疑いを向けようとした……。

「ESは走行感覚がなめらかで、エンジン音も静かだと評判ですよね。お父さんの車かしら。卯月君、実家暮らしとか?」

 璃子はレクサスと聞き、目を輝かせている。

「実家は代々木上原だから、大学に通うには便利だって言ってました。車は二台あるとかで、ESは卯月の車らしいです」

 スマートフォンでレクサスESを検索すると、新車は五百九十九万円からと表示された。卯月は、裕福な家庭で何不自由なく暮らしている。そんな男が大学の准教授に恋をした。自分より大人で、成熟した魅力を持つ瀬田絢子の気を引くために、トラウマがあるふりをしたのかもしれない。

 昨夜の尾崎との会話を思い返す。瀬田絢子の車は、二瀬ダム近くの駐車場で見つかっている。犯人は瀬田絢子の車のキーを持っていた。卯月なら、瀬田絢子からキーを奪うことは容易だろう。

「ねぇ、富士原君は卯月君の実家の住所、知ってるかい? 知ってたら教えてほしいんだけど」

 桐生の要望に、富士原はスマートフォンのアドレスを見せてくれた。

「あの、僕も同行させてください。知りたいんです。卯月と瀬田先生に何があったのか。それに、桐生さんたちが家を訪問したら、誰が住所を教えたのか不審がると思うし」

 富士原の提案に、桐生はうなずいた。時刻はまだ六時前だ。温(ぬる)くなったホワイトホットチョコレートを一気に飲み干し、書店をあとにした。

 

 代々木上原へ


 中目黒駅の改札で璃子と別れ、副都心線直通の東横線に乗り込んだ。車内はそれなりに混んでいる。

「俺が同行したいなんて言ったから、女性記者さんは帰られたんですか」

 富士原はドア口に立ち、申し訳なさそうに桐生を見た。

「そんなことは気にしなくていいよ。この時期だから、忘年会に誘われてるのかもしれないし、あるいはデートとかね」

 ホワイトホットチョコレートとホイップクリームの甘さが口に残り、かえって喉が渇いていた。冷えたビールを思い浮かべているうちに、明治神宮前に着いた。千代田線に乗り換える。

「女性記者さんと桐生さんは、付き合ってるわけじゃないんですね」

「きみは、社内恋愛のリスクについて考えたことはないだろうね」

 空いたシートに富士原と座る。

「うまくゴールできれば、何も問題はないんだ。恐ろしいのは、こじれたときだよ。人は豹変するからね。仕事も信頼も失いかねないし、下手したら刀傷沙汰になっちゃうかも」

 そんな事件は世の中に五万とある。そうなれば自分が週刊誌のネタになりかねない。

「週刊誌の記者さんが言うと、現実味がありますね。来年卒業したら、病院で臨床心理師として働くことが決まっているんです。俺も気をつけよう。あ、いま卯月が家にいるか、メールを送ってみますね」

 富士原はスマートフォンを取り出し、メッセージを打ち始めた。

 桐生の問題は、富士原の想像とは別のところにある。目の前に『事件』と『恋愛』のカードが並んでいたら、瞬時に『事件』を選ぶ自信がある。おそらく璃子もだろうし、北村や高輪も進んで事件に飛び込んでいくに違いない。赤石や鳥居が家庭と仕事を両立できているのは、奥さんがよほどできた人だからだろう。

 二人は運がいいなどと考えているうちに、代々木上原に着いた。ホームに降りると、風がやけに冷たく感じた。階段を下り、改札へ向かう。

「卯月はちょうど家にいるそうです。桐生さんも一緒だと伝えました」

「富士原君は、何度か卯月君の家に行ったことがあるんだね?」

「ええ、何回か夕飯をご馳走になってます。俺は中目黒のアパートで一人暮らしなんで、飯代が浮いて助かってまいす」

 改札を出て、富士原は通りを渡った。路地をまっすぐ歩いていく。

「食事は、卯月君のお母さんが作ってくれたの?」

 富士原のあとに続きながら、桐生は卯月の母親を想像した。卯月が母親に似たのなら、母親もかなりの美人に違いない。

「ケータリングです。家庭料理から本格的なフランス料理まで、予算に合わせて提供してくれるそうです。最初はビビりましたよ」

 富士原は苦笑いを浮かべた。

 細い道が多く、周辺には低層マンションや戸建てが並んでいた。緩やかな坂を上っていく。十字路の手前で富士原が立ち止まった。

「あれが卯月の自宅です」

 外壁はダークブラウンのタイル張りで、黒い門扉の横はシヤッターになっている。この奥に高級車が二台駐まるだけのスペースがあるとすると、家の敷地はどれくらいあるのだろう。

 富士原がインターホンを押すと、すぐに門扉のロックが解除された。門の奥には角切石を用いた延段のべだんが玄関まで敷かれ、オレンジ色の照明に照らされている。角切石は一つ一つ色や模様が異なり、おもむきがある。

 ドアが開き、卯月が桐生たちを迎えてくれた。

「桐生さんに来てもらえるなんて、光栄ですね。父は泊まりがけでゴルフに出掛けているんで、気兼ねはいりませんよ」

 大きく開かれたドアのなかへ入ると、正面の白い壁に飾られた写真が目を引いた。黒い背景に小さな白い花が放射線状に咲いている。A4サイズより少し大きい額に収められている。玄関ホールの床は白とグレーが混ざり合った大理石で、写真の世界とよく合っていた。

「きれいな写真だね。花が光り輝いてるみたいだ」

 桐生は靴を脱ぎ、卯月が並べてくれたスリッパを履いて壁に近寄った。

「それは、ロバート・メイプルソープの『花』です。父は、その写真家が撮った花が好きなんです」

「メイプルソープって、展示を巡って美術館からクレームが来た写真家だよな。それでも主張を変えなかった天才写真家だろ。自分が美しいと思うものを純粋に追い続けるなんて、そうできることじゃないよな」

 富士原は腕組みして写真を眺めている。

「富士原君は、写真に詳しいんだね」

 桐生は富士原を見た。

「恵比寿に写真美術館があるんで、大学の帰りによく立ち寄ってました。写真って、心の内側を写し出すじゃないですか。この花の写真は確かに美しいけど、それだけじゃない」

「白と黒だけでどうしてこんなに印象的な写真が撮れるのか、不思議ではあるよね」

 桐生は写真と向き合った。小さな白い花が黒い空間に放射線状に広がっている。花が生けてある花瓶も白く優美な曲線を持っているが、引き寄せられるのは白い粒のような花たちだった。

「見る者を楽しませようとか、賞賛されたいとか、そんな他者との関係を断ち切っているような強さを感じます。周囲の目を気にしてどこかで妥協して生きてる俺たちを、痛烈に批判してるのかもしれません」

「だから美術館からの批判も跳ねつけるんだな」

 卯月はかすかに口角を引き上げ、左奥の扉を開けた。

 二十畳はありそうなリビング・ダイニングの床は、廊下と同じ大理石だった。エル字型のソファーは黒の革張りで、クッションがいくつも並べられている。コーヒーテーブルは黒のクリアガラスで、まるで水面のようだ。

 富士原がソファーに座ったので、桐生もその横に腰を下ろした。適度に体が沈み、かすかな革の匂いがリッチな気分にしてくれる。正面のボードには巨大なテレビが設置されていた。音にもこだわりがあるらしく、サラウンド・バーとスピーカーがセットされている。

「俺に訊きたいことがあるんですよね?」

 卯月は対面式のキッチンカウンターへ行き、白いカップを三つ並べた。カウンター奥の壁面は食器棚で、銀色のコーヒーメーカーは専門店で見かけるような大型のものだった。淹れたての芳ばしい香りが、桐生の座っているところまで漂ってくる。

「卯月君は、西岐亮司という男を知ってるかい?」

 カップにコーヒーを注ぐ卯月に視線を向ける。卯月はとくに動揺した様子もなくカップをトレイに載せ、リビングに戻ってきた。

「その男が、瀬田先生の事件に関係してるんですか」

 卯月はトレイをコーヒーテーブルに置き、桐生の対角に座った。富士原が興味深そうに桐生と卯月の遣り取りを眺めている。

「まだわからない。卯月君が先週の日曜日に話してくれたことは、本当だったのか確かめたかったんだ」

 桐生は単刀直入に切り出した。

「どうして俺が、わざわざ桐生さんに嘘を話さなきゃならないんですか」

 卯月はカップを手に取り、口元に運んだ。

「きみは、西岐さんの車が黒のアウディだってことを知ってたんじゃないかと思ってさ。僕たちに西岐さんを疑わせるために、黒の外車を見たって話したんじゃないか」

 手帳を開きながら卯月の表情を窺う。卯月は唇を引き結び、カップを持ったまま動かない。

「ごめん。俺が桐生さんに話したんだ。お前と瀬田先生は付き合ってたんじゃないかって。そしたらお前の家を教えてくれって言われて、心配だから一緒についてきたんだ。その西岐って男のことは知らないけど」

 富士原は桐生と卯月を交互に見比べている。

「西岐さんは、瀬田先生の別れた恋人なんだよ。でも、瀬田先生が西岐の車に乗り込んだのを卯月君が見たんなら、二人は別れてなかったのかもしれない」

「……あいつは、先生のことを諦めてなかった。しつこく付きまとってたんだ。だから、ちゃんと話し合うって言ってたのに……。あいつが殺したんだ。そうとしか思えない」

 卯月はカップをソーサーに戻し、視線を落とした。

「西岐さんは亡くなったよ。『名もなき殺人者』に殺されたんだ」

 桐生の言葉に、卯月が顔を上げる。

「そうか。西岐は警察に疑われていたんですね。それで逃げきれないと思って自殺したのか」

「いや、それは状況的に有り得ない。遺体を発見したのは僕なんだ。あれは間違いなく他殺だよ」

 胴体が真っ二つに切断されていたことは言わなかった。卯月と富士原は、射るように桐生を見つめている。

「卯月君は、瀬田先生と付き合っていたのかい?」

 桐生は気持ちを鎮め、問いを繰り返した。

「……好意はありました。たぶんお互いに。でも、先生が俺に興味を持ったのは、研究対象としてだったかもしれません」

 卯月はふっと息を吐き、カップに指を添えた。指先がかすかに震えている。

「瀬田先生は犯罪心理を研究していたんだよね。きみには、過去に犯罪に巻き込まれた経験があるってことかい?」

 ペンを握り直し、卯月を見る。

「六年前の七月に、妹が失踪したんです。二つ年下で、生きていれば今年で二十二歳になっているはずです」

「それ、警察には届けたのか。誘拐されたんなら、犯人から身代金の要求があっただろ。たいていは身代金の受け渡しで犯人を捕まえられるんじゃないのか」

 富士原が身を乗り出す。

「失踪届は、両親が出しに行ったよ。当時、未知瑠みちるは高校一年だったから、警察はスマホの通話記録やSNSも調べてた。でも、いまも行方はわからない」

 卯月はカップから指を離し、ソファーにもたれかかった。空気中に答えが漂っているかのように視線を彷徨さまよわせている。

「家出の可能性はあるかい? 未知瑠さんが思い悩んでいた様子とか、何か異変はなかった?」

 桐生は訊きながら、清澄樹里亜の死を思い浮かべた。恋人に裏切られ、傷ついた樹里亜はどこかで『名もなき殺人者』と出会った。部屋に円の印が入った置き物を残して。

「未知瑠さんの持ち物のなかに、この印が記された物を見なかったかい?」

 桐生は手帳に書きつけてある円と十字の印を卯月に見せた。

「……そんな印は見てません」

 手帳に視線を落とし、卯月は首を振った。

「未知瑠さんは、どんな子だったのかな。自分から何でも話す子だった?」

 手帳の新しいページに、『六年前の七月』と書き付け、卯月に視線を向ける。

「高校生になる前は、よく一緒にゲームして遊びました。未知瑠は動体視力と反射神経がいいんで、シューティングゲームは俺より上手かったですね。でも、第一志望の高校に落ちたあとから、家族と話さなくなりました。母は未知瑠のことを心配してました。だから俺は、未知瑠を監視するようになったんです。それが嫌だったのかもしれません。俺のせいで、未知瑠はいなくなったのかも……」

「未知瑠さんの失踪は、卯月君のせいじゃないよ。思春期って、些細なことですごく落ち込んだりするもんだし、それを心配しない家族はいないよ」

 九歳のとき、桐生の母は病死した。当時高熱を出して寝込んでいた桐生と入れ替わるように亡くなっている。そのせいなのか、父との関係は悪くなった。高校生の頃は食事もばらばらで、会話は学校行事の事務連絡くらいだった。いまは桐生の仕事のせいで断絶の危機にある。

 どちらか一方が悪いわけではない。ただお互いの価値観が合わないだけだ。
「未知瑠が出掛けてるときに、あいつの日記を読んだんです。そこに『黒い羊の仮説』のことが書かれていました」

 卯月はテーブルからカップを取り、コーヒーをすすった。

「それって、お前の研究テーマだな。“親と子の間で起こる病理現象の一種”って説明してたっけ」

 富士原は目を瞬かせた。卯月はうなずき、桐生に向き直った。

「未知瑠の部屋には心理学の本が何冊もあり、『黒い羊の仮説』はアメリカの女流精神分析学者、ジョンソンとスズレクの提出した仮説です。これが書かれていた本には付箋が貼ってありました。『人は明るい光の部分だけを生きることはできない。無意識の中に抑圧された悪こそ“黒い羊”である』って。未知瑠は、自分のことを黒い羊だと思っていたんです。家族のなかで、自分だけが不要な悪だって」

 漠然とした理由だ。そんなことで失踪するとは思えない。桐生の考えがわかったかのように、卯月は首を振った。

「未知瑠はいつも日記を本棚の奥に隠していました。でも、失踪後に日記は失くなっていました。未知瑠が持っていったんです」

 未知瑠が自分の意思で家を出て行ったのなら、何らかの理由があるはずだ。死を決意するほどの絶望やトラウマが。

「日記には、ほかに気になる記述はなかったかい? 付き合っていた彼氏にフラれたとか、怖い思いをしたとか」

「警察にも話したんですが、未知瑠には理解者がいたようです。日記に書いてありました。会って話すと、心が軽くなるとか、救われるというようなことが書かれていました。付き合っていたのかもしれません。でも、名前まではわからなくて……」

 卯月は視線を落とし、唇を噛んだ。

「ネットで知り合ったのかもな。そっちも調べたのか」

 富士原の問いに、卯月は「ああ」と低く答えた。

「警察は、家出じゃないかって。その後、変な手紙が送られてきたり、脅迫電話が架かってくるようになった。わけのわからない宗教の勧誘なんかもあって、頭がおかしくなりそうだったよ。母は未知瑠のことが原因で家を出ていったんだ。きっと、母はいまも未知瑠のことを探してる」

 卯月は両手で頭を抱え、ソファーに身を預けた。

「『FINDER』でも失踪事件を調べてるんだ。僕たちにできることは記事を書いて、無事を祈ることくらいだけど」

 桐生は手帳に『理解者・恋人?』と書き込み、コーヒーに口を付けた。深い香りとカフェインが疲れた脳に染み渡る。

「俺、当時の気持ちを誰にも話せないでいたんです。そんな俺に、瀬田先生は教えてくれました。自分の気持ちを人に話すのは、恥ずかしいことじゃないって」

 卯月は自分に言い聞かせるように両手を握りしめた。

 出口の見えないトンネルのなかを歩いている。清澄茂は娘の死を知り、やっと出口に辿り着いた。だが、卯月や白石夏希の家族、彼らの友人は、まだトンネルのなかを彷徨さまよっている。

 卯月に礼を言い、ソファーから立ち上がった。玄関のドアを開けると、また雪が降り始めていた。


 鷹の台へ


 たかの台駅の改札を出た頃には、午後八時を回っていた。雪がアスファルトに積もり始めている。傘はないが、自宅アパートまで十分も掛からない。花びらのように舞い落ちる雪を眺めながら、桐生は卯月の話を思い返した。

 西岐のことを知っているかと訊いたとき、卯月は訊き返した。

 ――その男が、瀬田先生の事件に関係してるんですか。

 西岐が瀬田絢子の別れた恋人だと話すと、卯月は西岐を責めた。名前までは知らなかったようだが、西岐の存在は知っていた。別れた恋人に付きまとわれていると、瀬田絢子から聞いていたのかもしれない。

 付きまとわれて嫌な思いをしていたなら、その男の車に瀬田絢子が自分から乗り込むのは不自然だ。西岐の話では、瀬田絢子とは半年前に別れている。彼女の死を知ったときの西岐は、ショックを受けているように見えた。

 誰かが嘘をついている。それは西岐なのか。それとも卯月なのか。あるいは誰も嘘などついてなく、まったくの別人が仕組んでいるのか。

 ――犯人はおたくが驚く顔が見たかっただろうな。

 尾崎のつぶやきが耳に蘇り、桐生は唇を歪めた。

『名もなき殺人者』とは、いったい何者なのか。瀬田絢子を含めた五人を殺し、さらに西岐まで殺したのはなぜか。

『名もなき殺人者』は、瀬田絢子を人けのないところへ誘いだして殺した。尾崎の話では、秩父湖付近の駐車場で発見された瀬田絢子の車に殺人の痕跡はなかった。彼女はどこかで殺され、切断されている。

 普通に考えれば、おもりを付けて湖に沈めるのは犯行を隠すためだ。だがこの犯人は『FINDER』に手紙を送りつけ、自分の犯行が報道されるのを楽しんでいる。『名もなき殺人者』はどこかで嘲笑あざわらっている。

 桐生はコートの肩や袖口に積もった雪を払い、よく立ち寄る居酒屋の戸を開けた。この店ではいつもビートルズが流れている。今夜は『ミシェル』がかかっていた。

 カウンターの向こうに立つ店主は強面で愛想がない。外で会ったら道を譲りたくなるような威圧感があるが、メニューはリーズナブルでどれも旨いので足繁く通っていた。

「お連れさんが来てるよ」

 店主は桐生を見るなり、奥のテーブル席に視線を向けた。連れなどいないはずだが、細かいことは気にしない。奥の席へ行くと、高輪がテーブル・コンロに載った鍋を前に、はみ出したニラと格闘していた。

 高輪は以前、高円寺に住んでおり、何度かこの店で一緒に飲んだことがあった。ニラ入りの白いモツ鍋は、その頃から高輪の好物だ。

「高輪さん、埼玉支部に移ったんですよね? ここから自宅まで遠いのに、こんなところで飲んでて終電間に合うんですか」

「大丈夫。車で来てるから」

 高輪はこぼれ落ちそうなニラを鍋に押し込み、胡瓜とササミの梅肉和えが載った皿を桐生のほうに押し出した。

「飲酒運転は絶対にダメですよ」

 桐生は高輪の向かいに座った。おしぼりとお通しを置きにきたバイトの兄ちゃんに、生ビールとポテトサラダを注文する。

「いまの口調、璃子ちゃんにそっくりだね。きょうは烏龍茶飲んでるよ。年末に人間ドックの予約を入れるから、Γガンマ―GT値を下げとかないといけないんだよね。で、ちょうど桐生君に電話しようと思ってたところ」

 高輪はササミを口に運び、笑みを浮かべた。

「何か気になることでもありましたか」

 西岐の遺体が切断され、胸に円の印が刻まれていたことは報道されていない。警察は情報をすべて公開しないことで、情報提供の真偽をふるいにかけるのだろう。やってもいない犯行を騙る者を排除し、模倣犯が現れないよう注意する必要がある。だが、勘のいい高輪は何かを感じ取っているのかもしれない。

「『五感を駆使して取材しろ』って、よく言われてたんだよね。鳥居さんに。『社会の悪に立ち向かいたければ、まず弱い自分に打ち勝て』とも言われたな」

 高輪は渋面じゅうめんを作り、鳥居の声音を真似た。

「高輪さんは、編集長と一緒に取材してたんですか」

 おしぼりで手を拭き、運ばれてきた中ジョッキを掴む。高輪と乾杯し、喉に流し込んだ。泡と冷えたビールが、脳と体に溜まった疲労を胃袋へと押し流す。

「鳥居さんは、俺が東光新聞に入社したときのデスクだよ。きのう写真展で会えるかと思ったのに、来てなかったでしょ。どうしてるかなって気になってさ。もしかして、きのうの事件と関係があるんじゃない? 東京近辺で起きた事件は傷害と窃盗が三件で、殺人が一件あったよね。あれって、桐生君が話してくれた雪が谷の事件でしょ」

 高輪は烏龍茶のグラスを揺らしながら、桐生を見ている。

「編集長は、高輪さんが来る前に来てたみたいですよ。写真展で何かひらめいて、編集部に戻ったのかも」

「ああ、それは有り得るね。あの人は、どこにいても仕事のことを考えてるから」

 高輪は煮えてきたニラとキャベツを小皿によそい、桐生の前に置いた。七味と柚子胡椒ペーストを添えるのも忘れない。

「高輪さん、『黒い羊の仮説』って知ってますか」

 しんなりしたキャベツを口に入れると、よく染み込んだ白いこってり味噌とキャベツの甘みが広がった。

 高輪は白くふっくらと煮上がったモツをお玉ですくい、桐生の小皿に入れてくれた。結婚すれば、奥さんから重宝されるだろう。

「何、それ。白い羊ばっかりじゃつまんないから、ときどきは黒いのも生まれとこうって話かな。それをいうなら、パンダはどうしていつも白と黒なんだって思わない?」

 高輪は首を捻り、自分の皿に取り分けたモツにたっぷりと七味をかけた。

「アメリカの女流精神分析学者が提出した仮説だそうです。一見明るく健全に見える家庭にも、問題児が一人はいる。その問題児のことを黒い羊と呼ぶそうです」

「つまり、そのトラウマの記憶で失踪した女性が、黒い羊だったんだね」

 高輪は七味たっぷりのモツを口に入れ、顔をほころばせた。

「違うんです。秩父湖の事件を調べてて、瀬田さんのゼミの院生と知り合ったんですが、彼の妹が六年前に失踪してることがわかったんです。彼は、妹の失踪を瀬田さんに話していたそうです」

「その失踪した妹さんは、まだ見つかってないのかい?」

 高輪の問いに、桐生はうなずいた。

「その失踪事件と、秩父湖のバラバラ事件に繋がりはあるのかな。桐生君、まさか、雲仙の事件もその女性の失踪も、『名もなき殺人者』の仕業だって思ってる?」

「その可能性を探っているところです」

「事件を繋ぐ手がかりがあるってことか」

「……それは、いまは言えません。でも、いつかはっきりしたら記事にします」
「それは楽しみだね」

 高輪は小さく口笛を吹いた。

 桐生はジョッキを掴むと、残ったビールを一気に飲み干した。

 
 自宅アパートへ帰宅後、パソコンで『黒い羊の仮説』と検索すると、すぐにジョンソンとスズレクの名前と共にいくつかの記事が表示された。もし、自分が黒い羊だという自覚のせいで家出したのだとしたら、卯月未知瑠はどこへ行ったのだろう。

 次に『六年前・失踪』と打ち込んだが、ヒットしたのは遺体や遺留品が見つかった事件だけだった。デジタル版の東光新聞アプリでも調べてみたが、六年前の失踪記事はなかった。

 手帳を開き、『六年前の七月』と書かれたページを読み返す。卯月は妹の失踪がトラウマとなっていた。瀬田絢子に話すことで、痛みは癒されていたのだろう。一方で、別れた恋人である西岐の存在に嫉妬していた。

 卯月は否定したが、瀬田絢子が黒のアウディに乗り込むところなど見ていなかったのかもしれない。西岐を疑わせ、西岐の自宅を訪問させるための嘘だったのだろうか。

 卯月が西岐を殺したのか。

 だが、西岐に罪を着せるつもりなら、わざわざ遺体を切断しないだろう。自殺に見せかけるほうがいいに決まっている。それに、西岐の左胸には円と十字の印が刻まれていた。卯月が『名もなき殺人者』であるはずがない。

 ――私の動機の一つは『スリル』だということです。

 席を立ち、窓の外を眺めた。黒い闇に雪が舞い続けている。

 スリルを味わうために人を殺し、切断した。自分がやったことを知らせるために、印を刻んで。『名もなき殺人者』は、殺しを楽しんでいる。

 ――無意識の中に抑圧された悪こそ“黒い羊”である。

 殺人への抑えがたい衝動が、『名もなき殺人者』を突き動かしている。

 ――理想の殺人と現実の殺人のギャップが許せなくなるらしいよ。

 写真展で高輪が話してくれた言葉が浮かぶ。得られる満足感の持続力も徐々に短くなっていくから、殺人の間隔も詰まっていく。

 最初の殺人が白石優人だとすると、次の殺人まで十一年の期間空いている。五月に白石夏希と再会したことがきっかけで第二の殺人を犯したと仮定すると、次の清澄樹里亜失踪まで約三ヶ月だ。

  手紙には瀬田絢子の殺害が五件目だと書かれていた。樹里亜を殺したあとに四件目の殺人を犯したのか。あるいはもっと前か。

 瀬田絢子を殺してから西岐を殺すまで、わずか数日しか空いてないことはわかっている。

 ――捕まるまで殺し続ける……。

 そこまで考え、体の奥が芯から冷えていくのを感じた。



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