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聖なる夜に花は揺蕩う 第8話 蹂躙(じゅうりん) 「全10話」

第1話はこちらから

 【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 


 12月20日月曜日


 桐生は璃子と一緒に香霖大学へ向かっていた。異常殺人者の心理について、専門家である木藤の意見を聞くためだ。246の坂を歩きながら、璃子に昨夜の卯月との遣り取りを伝えた。

「卯月君の妹さんが六年前に失踪してたなんて。どうして失踪者がこんなにいるのかしら。まさか、その妹さんの部屋にも円と十字の印が残されていたとか……」

 璃子は立ち止まり、表情を強張らせた。

「僕も気になって卯月君に確認したよ。でも、未知瑠さんの持ち物のなかに、そんな印はなかったって」

 昨夜の推理を思い返しながら、売店で買った缶コーヒーをすする。

「でも、卯月君は瀬田さんの教え子なのよ。身近な人が二人も姿を消してるって、本当に偶然だと思う?」

 璃子は目をすがめ、また歩き出した。

「この世界は偶然の重なりでできてるよ。必然とか運命って、物語のなかの話なんだと思うな」

「でも、もし『名もなき殺人者』が狙っていたのが未知瑠さんだったら? 次に未知瑠さんのお兄さんに目をつけて、瀬田絢子さんをターゲットにした可能性だって考えられるわよ」

 璃子の指摘に、桐生はぞっとした。『名もなき殺人者』は闇に沈み、嘲笑あざわらう声が聞こえてくるようだ。

「もしそうだとすると、『名もなき殺人者』は、六年前に未知瑠さんを殺してることになるよ。でも、僕たちには調べようがない……」

 缶コーヒーを鞄にしまい、空を見上げた。雲に覆われた空はどこまでも白く、奥行きを失っていた。

 
 五号館の薄暗い廊下を進み、『木藤研究室』と表示されたドアをノックした。「はい」と返事があり、ドアが開く。璃子がきょうの取材を受けてくれたことへの礼を述べると、口角を引き上げた。だが微笑んでいるようには見えない。疲れ切った様子で、頬の肉が削げ落ちている。

「さっきまで刑事さんが来ていたんです」

 木藤は二人をなかへ招き入れた。室内はエアコンが効いていて暖かい。

「さっき来ていたというのは、田園調布西署の刑事ですか」

 桐生室内を見回した。室内に学生の姿はない。ソファーの前のコーヒーテーブルの上には朱色のマグカップが一つだけ載っている。

「ええ。一人は田園調布西署の若い刑事で、もう一人は先週の月曜日にも会いにきた刑事です。年配で礼儀正しい方でしたが、眼光がとても鋭くて隙がない。特殊な世界で仕事をしている方だなと、すぐにわかります」

 尾崎だろう。金曜の午後、合同捜査本部が田園調布西署に設置されている。警察は西岐の身辺にいた人物を一人一人洗っているに違いない。

「西岐さんとの交友関係を訊かれたんですか」

 璃子の問いに木藤がうなずく。

「先日、遺体で発見された男性が西岐君だったなんて、なんて言ったらいいのか……」

 木藤は食器棚からマグカップを二つ取り出したが、その手は震えていた。流し台に置かれたコーヒーメーカーから、カップに液体を注ぐ。研究室には、つねに淹れたてのコーヒーが保温されているようだ。

 勧められるままにソファーに座る。桐生の前には、前回同様に黄緑色のマグカップが置かれた。きょうの璃子のマグカップは鮮やかなブルーだ。桐生の向かいに座った木藤は、テーブルに置いてあった朱色のカップを手に取った。

「木藤先生は、今回の事件の犯人をどうプロファイルされていますか」

 璃子は赤い手帳を開いた。璃子がFBI捜査官に憧れを抱いていることを思い出す。

「殺人者の脳は、殺人を犯さない人々の脳とはかなり違います。医学博士の福島章(あきら)氏の論文で、その異常性が報告されています。殺人者には、殺人者精神病とでも呼ぶべき固有の精神障害が想定されるのではないか。そう福島氏は書かれています」

「快楽殺人者の脳には損傷があるというような記事なら、僕も以前読んだことがあります」

 桐生がまだ中学生の頃、関西で凄惨な殺人事件が起こった。週刊誌のなかで、高名な精神科医が記者の取材に答えていた。記事には犯人が通っていた学校のモノクロ写真が掲載されていた。

 あの時が写真週刊誌との出会いだった。ほんの数ページの記事だったが、桐生はいまもファイルに当時の記事を挟んで保管している。

「それはおそらく、中枢転移と呼ばれる現象のことでしょう。強いトラウマによって引き起こされるとされていて、殺人のような攻撃行為が性欲を満たすようになるんです」

「『名もなき殺人者』は、殺人者精神病だとお考えですか」

 桐生はペンを握り、木藤に視線を向けた。

「重大な事件を起こすような人の精神状態は、たとえば複数の精神鑑定人の間で診断が一致するのは稀なんです。逮捕されるまで、誰からも異常だとか病気だなんて思われていない場合もあります。『名もなき殺人者』が殺人者精神病だとしても、警察に捕まるまで誰も気づかないかもしれません。恐ろしいことです」

 木藤は深く息を吐き、飲みかけのコーヒーをすすった。

 桐生はリチャード・コティンガムを思い浮かべていた。コティンガムはコンピューターオペレーターとして働く魅力的で男で、三人の子供の父親でもあったが、少なくとも十一人の若い女性と少女を殺害していた。

「木藤先生が選ぶマグカップの色には、何か意味があるんでしょうか。僕は前回も黄緑だったんですけど」

 桐生は重苦しくなった空気を払うように、黄緑色のカップを手に取った。

「私の癖なんです。人と会うと、色に例えたくなるんですよ。でも人はいつも同じ状態じゃない。きょうも桐生さんは黄緑だけど、橘さんは青というイメージを持ちました」

「じゃあ、その朱色はきょうの木藤先生を表しているんですね?」

 璃子は青のイメージが気に入った様子で、木藤のカップを見詰めている。

「いえ、この色は魔除けなんです。お二人は陰陽五行説いんようごぎょうせつという中国の古代思想をご存知ですか」

「たしか五色あって、全部揃うと最強の魔除けになるんですよね。以前、事件を調べてるときに、ちらっと読んだ気がするけど……」

 璃子のつぶやきに、木藤は「その通りです」と相槌を打った。

「神社の鳥居やお地蔵様の前掛けなどを思い浮かべてもらえればわかると思います。太陽を象徴する赤色には、厄災を払う力があると信じられてきました。五色とは森羅万象を表し、青は木、赤は火、黄は土、白は金、黒は水です。桐生さんを黄緑色だと感じるのは、土をイメージするためでしょう」

 土臭いという意味なら、あまり嬉しくないと思いながら、桐生はコーヒーをすすった。

 
「桐生君が黄緑色って、わかる気がする」

 璃子は木藤に「いつでも訪ねていい」と言われたことがかなり嬉しいらしく、ずっと上機嫌だ。

「黄緑って、色としては弱いよね。黄色ほど明度が高くないし、緑のような強いエネルギーも感じない。だいたい陰陽五行説の五色に入ってないなんて、なんだか残念な気分だよ」

「周りに順応しやすいってことよ。どんな色にも合わせられるって、桐生君の長所だと思うな。どんな相手にも同調できる柔軟性がある証拠よ。羨ましいわ」

 ここで羨ましがられても嬉しくない。せっかくなら陰陽五行説の五色になって、誰も見たことのない色を発したい。

 駅前の蕎麦屋で天麩羅てんぷら蕎麦をすすり、編集部に戻った。

 ドアを開けると、みんなが一斉に桐生を見た。明日の入稿に向け、追い込みをかけているはずのデスク陣や北村が異物でも飲み込んだかのように顔を強張らせ、桐生と璃子を凝視している。

「やだな。僕の顔に蕎麦でも付いてるとか?」

 口の周りを触ってみたが、何も付いてない。デスクの上の白い封筒が目に留まり、言葉はどこかへ消えた。封筒には赤で『速達』と印字されている。かすかに膨らんでおり、小物が同封されているとわかる。宛名はワープロ文字で『FINDER編集部・雪が谷大塚切断遺体第一発見者の担当記者様』と記されていた。差出人を確かめようと手を伸ばした。

「封筒に触っちゃいけないよ」

 北村が声を上げ、桐生はぎょっとした。

「その封筒の差出人は『名もなき殺人者』だ。裏にそう記されてる。何が入ってるのかわからない。編集長がいま警察に連絡を入れてるから」

 赤石が北村の後ろから顔を覗かせる。

「まさか、爆弾でも入ってるとか? ユナ・ボマーじゃあるまいし、爆発なんてしませんよ。『名もなき殺人者』からなら、きっと事件の遺留品だ。開けてみよう。僕と璃子さん宛だし」

 コートのポケットに突っ込んであったウールの手袋を嵌め、封筒を手に取った。璃子は顔色を失い、呆然と突っ立っている。北村に腕を引っ張られ、スチールデスクの陰に隠れた。

 人を切断するような者は爆弾には興味がない。彼らは遠くから間接的に殺すのではなく、自分の手で殺したい。エドマンド・ケンパーやテッド・バンディー、ジョン・ウェイン・ゲイシーが犯した殺人を桐生は思い浮かべた。彼らは刺殺や絞殺を好んでいた。そのほうが被害者の悲鳴や恐怖を間近で感じられるからだ。
 最初の手紙で『名もなき殺人者』は五つの殺人を告白している。桐生たちは円と十字の印が残された事件を四件見つけた。残る一件はいまもどこかに埋もれている。まだ事件として報道されていない事件の鍵が、このなかにあるのかもしれない。

 桐生は引き出しから鋏を掴み、封を切った。なかには二つ折りの紙と小さな発泡スチロールの箱が入っていた。

「本当に開けちまったのか。その小さな箱が爆発するなんてことはないよな?」

 北村がデスクから顔を出した。璃子はまだ隠れている。

「たぶんね。またしても手紙が入ってますよ」

 桐生は小箱を置き、紙を開いた。印字された文字に視線を落とす。

 
   親愛なる『遺体第一発見者』の記者様へ
 
   死が間近に迫る瞬間を、あなたは知ってい
  ますね。あなたは私とともに被害者を殺し、
  被害者とともに殺される。その自己投影は
  『スリル』ではありませんか。
 
 苦い砂を口に放り込まれたような触感を覚えた。言葉はじゃりじゃりとした邪悪を含み、桐生の体を駆け巡った。抵抗する活力は、たった一枚の紙に吸い取られていく。
 
   あなたがたは、私からの最初の手紙を誌面
  に載せてくれました。
   おそらく、あなたはこの手紙を心待ちにし
  ていたでしょう。今回はそのお礼にプレゼン
  トを同封しました。もうすぐクリスマスだか
  らサンタクロースの気分です。
   もう中身は確かめましたか。品物を見て
  も、それが何かわからないといけないです
  よね。
   それは私が大切に保管していたものです。
   大切な記憶と繋がるための記念品でしたが
  もう一つ対になるものを持っているので、
  一つあなたに差し上げましょう。詳しい説明
  は箱の中に入れてあります。
   では、よいクリスマスを。
   いつかあなたにお会いできる日を楽しみに
  ています。
 
            名もなき殺人者より
 
 手紙から顔を上げた。心臓の鼓動がどくどくと音を立てている。北村と璃子がすぐそばで桐生を見守っていた。赤石はまだスチールデスクの後ろに隠れている。

 北村と璃子に手紙を差し出し、桐生は箱を手に取った。『名もなき殺人者』は、桐生が箱を開けることを望んでいる。開けたらきっと後悔する。だが、開けなければもっと後悔するだろう。

 これは、『名もなき殺人者』からの挑戦だ。桐生がどれだけ本気で事件と向き合っているのかを試している。

 十センチ四方の箱は深さ五センチほどで、やけに軽かった。それほど力を入れなくても蓋は持ち上がった。二つ折りの小さなカードが添えられている。カードを取り出し、なかを見た。

 光沢のある黒い布が敷かれている。その中央に、十センチにも満たない白い筒状のものが小さなピンで固定されていた。箱を覗き込んだ璃子と北村が悲鳴を上げた。

 桐生は箱に入れられたものから目を逸らすことも、その場に箱を放り出すこともできなかった。添えられたカードを開く。
 
   これは右薬指の剥製はくせいです。防腐処理をし
  て、中に綿を詰めてあるので安心して
  ください。
   左薬指は私が持っています。指の持ち主の
  名前は卯月未知瑠。私はこの少女を深く愛し
  ていました。
 
 どす黒い邪悪なものが、桐生の体の内側を黒く塗りつぶしていた。それは悲鳴を求めて増殖し、光を呑み込んでいく。闇を深め、この世界を暗黒に変えていく。

 箱に収められた指だけが、まるで生きているかのように瑞々みずみずしく艶やかだった。
 
 
 *****
 
『名もなき殺人者』は窓際に立ち、星のない黒い空を眺めていた。黒い闇の底から、あの日の記憶が蘇る。

 彼女とリビングで語り合った時間は楽しかった。ずっと一緒にいたかったが、いずれ体は朽ちていく。だから、あの白い指だけでもこの世界にとどめておこうと思った。剥製にしようと決めたのは、祖父が鳥の剥製を作っているのを見て知っていたからだ。

 子供の頃は剥製の並んだ部屋に入るのが怖かった。目は生命の輝きを保ったまま、こちらに飛びかかってくるように思えた。だが自分で作ってみて、なぜ祖父が剥製を愛していたのかを理解した。美しい瞬間を切り取り、永遠を与えるため。それを自分の手の届くところに置いておきたかったからだ。

 彼女に出会った日を思い返す。あの日から、彼女は何度も会いにきた。初めはぎこちなかったが、次第によく話すようになった。思春期は小さなことにも過敏になる。些細な失敗で人生が終わったかのように大袈裟に考え、引きこもって悲嘆に暮れたりする。

 彼女は、思春期特有の漠然とした不安を抱えていた。淡いピンク色の日記帳には、繰り返し「何のために生きているのか」と書かれ、死を讃える言葉が記されていた。彼女の心にささやきかける者がいる。「死ねば楽になる」と。彼女は文学や詩を読み、死ぬことに憧れていた。

 その憂いを帯びた横顔こそが、ありふれた日常を輝かせるほど美しかった。

 ――きみが望むなら、殺してあげよう。

 命が消える間際にこそ、それまで溜めてきた光があふれ出す。指を切り落とす瞬間、それを彼女も知っただろう。

 生の輝きを指に封じ込め、未知瑠は無限の幻想を手に入れた。もう憂えることはない。彼女は宇宙の深い闇にかえり、恒星のように自ら光を発している。

『名もなき殺人者』はメタルシェルフに並べたガラス瓶に視線を向けた。瓶のなかには未知瑠の左薬指が飾られている。

 未知瑠とは運命の糸で永遠に結ばれている。誰にも蹂躙じゅうりんされない。自分たちは宇宙の輪に守られている。