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聖なる夜に花は揺蕩う 第9話 繋がれた糸「全10話」

第1話はこちらから

 【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 


 12月21日火曜日


 ――未知瑠には理解者がいた。

 卯月との会話を思い返し、桐生は唇を噛んだ。卯月未知瑠はいったいどこで『名もなき殺人者』と出会ったのか。

 いや、どこでも有り得る。街で道を訊かれた。または図書館で席が隣り合って手がぶつかったとか、きっかけはいくらでも考えられる。初めて出会った瞬間に、未知瑠は好意を抱いたかもしれない。おそらく『名もなき殺人者』は見掛けのいい男だろう。ジェフリー・ダーマーのような甘いマスクで、未知瑠の気を引くことに成功したのかもしれない。

 未知瑠だけじゃない。西岐のような大人の男が家に招き入れている。『名もなき殺人者』は魅力があり、社会的地位もある人物に違いない。

 卯月嶺の顔を思い浮かべ、桐生は首を振った。妹の指を剥製にするなんて考えられない。

 しかもあのカードには“私はこの少女を愛していました”と書かれていた。『名もなき殺人者』がいままで書き送ってきた内容に嘘はない。『名もなき殺人者』は嘘を語らない。そんな必要はない。取り繕うことなどおよそ不可能なほど、異常で混沌こんとんとしている。

「桐生君、大丈夫か」

 北村に声をかけられ、顔を上げた。

「赤石さんが俺たちを呼んでるよ。行こう」

 赤石の机の前にはすでに璃子が立っていた。嫌な予感がする。桐生と北村が璃子の横に並ぶと、赤石が口を開いた。

「富士原が、警察で取り調べられてるらしい」

「それは、誰からの情報ですか」

 璃子の質問に、赤石は机の上のタブレットを指差す。

「『週刊ピリオド』から速報が流れてる。富士原は瀬田さんにストーカーまがいの尾行や、無言電話を架けてたようだ。きみたちは香霖大学の学生から話を聴いていたんじゃなかったのか」

「富士原君は瀬田先生のFacebookをフォローしていて、僕たちの取材に最初に応じてれました。瀬田先生が大学に来ていないことをとても心配していたんです。彼が瀬田先生を殺した犯人だとは、とうてい思えません」

「富士原は瀬田さんにずっと思いを寄せていたんだ。だが、いつまでも一方通行であることに腹を立て、秩父湖に連れ出して殺したのかもしれないだろ?」

「それなら、もっと早く割り出せたんじゃありませんか。警察はおそらく瀬田先生の通信履歴を調べたはずです。富士原君からの着信はなかったから、いままで疑いをかけてなかったんですよね?」

 璃子も富士原犯人説には納得がいかない様子だ。眉間には深い縦皺が刻まれている。

「富士原は電話ボックスから架けていた。周辺に防犯カメラはなく、『週刊ピリオド』の聞き込み情報を調べて、やっとわかったらしい」

 赤石は苦い薬でも飲み込んだような顔で、タブレットに表示された記事を睨んでいる。

 桐生は、つい二日前に会ったときの富士原を思い浮かべた。卯月と瀬田絢子の関係を疑っていた。卯月は瀬田と親しかった。卯月への嫉妬はあったのかもしれない。

 璃子は首のコリでもほぐすように指で首の後ろを指圧し始めた。北村は神妙な表情で口を閉ざしている。

「北村君はどう思う?」

 赤石が北村に視線を向ける。

「富士原の犯行を否定するだけの事実は、まだありません」

「そうか。瀬田絢子の殺害時刻に幅がある以上、富士原のアリバイを調べるのは難しいだろう。犯人は車を使ったはずだから、警察がその車に辿り着けば逮捕も有り得る。俺たちには犯人からの手紙があるんだ。『週刊ピリオド』には負けられない」

『FINDER』には手紙がある。そうだ。だから湖底に沈む遺体を発見できた。きのうはギフトまで送られてきた。手紙は第一発見者に宛てて書かれていた。

 桐生のなかに疑問が浮かぶ。黒い闇に落ちてきた花びらのように、ゆらゆらと舞っている。

「あの……」

「どうした桐生。言いたいことがあるならはっきり言え」

 赤石の視線が桐生に向けられた。

「……犯人は、どうして僕たちが第一発見者だって知ってるんでしょうか。第一発見者の情報は報道されてないはずですよね?」

 桐生は首を傾げた。

「わからん。警察内部から情報が漏れているのか、あるいは……」

 赤石が言葉を切り、桐生たちの間に沈黙が流れる。

「犯人はきみたちが西岐のマンションに入っていくのを見ていたのかもしれない」

 赤石の言葉に、桐生はしばらく立ち尽くしていた。

 
 深夜過ぎに自宅アパートに帰った桐生は、ソファーにぐったりと座り込んだ。コートを脱ぐのも億劫だった。しばらく動きたくない。このまま泥のように眠りたい。赤石に呼ばれたあと、富士原に連絡を入れたが繋がらなかった。まだ警察で取り調べられていたのだろう。

 富士原の顔を思い浮かべる。瀬田絢子が亡くなったと知り、富士原も卯月も打ちひしがれているように見えた。あれは演技だったのか。富士原は、初めから情報収集が目的で自分たちに近づいてきたのか。

 富士原の記事はショックだった。思い返せば、思い当たる節がなくはない。卯月のそばにいたからこそ、瀬田絢子と卯月が親密な関係になることが許せなかったとも考えられる。

 自分の想いを拒絶され、卯月を選んだことへの憎しみから遺体を切断したのだろうか。もしそうなら、瀬田絢子の車を運転し、はるばる秩父湖へ沈めたのはなぜだろう。コンクリート塊を付けて沈めたのに、『FINDER』に知らせてきたのは何のためか。十一年前、富士原が白石真人を絞め殺したのだろうか。

「まだ、富士原が犯人だと決まったわけじゃない」

 コーヒーテーブルに置きっぱなしにしてあったタブレットを掴み、起動した。『週刊ピリオド』の速報記事に目を通し、記事に差し込まれた広告に目を留める。

 広告は登山グッズを紹介していた。『さあ、山へ行こう!』というキッチフレーズの下に、深緑の斜面が写っている。若いカップルが鮮やかな赤と黄色のリュックを背負い、笑顔で斜面を登っていた。斜面には白い花が咲いている。

「『名もなき殺人者』は、いったいどこで西岐と出会ったんだ?」

 富士原が犯人なら部屋に指の剥製があるはずだが、まだ見つかっていないのだろう。だからまだ任意で取り調べられている。

 読みかけだった西岐のホームページを開いた。記事の最終更新日は、西岐が殺される三日前だ。日付をクリックすると、全文が表示された。ところどころに画像が添付され、滋賀県にある白山に登ったことが書かれている。登る山によって装備を変えることや、服装の注意点についても触れていた。

 このホームページを読めば、西岐がいつ、どんな山に登っていたのか、簡単に調べることができる。

『名もなき殺人者』も、このホームページで西岐の行動を読んでいたのだろうか。もしかすると、二人は登山で出会ったのではないか。登山仲間として、西岐が『名もなき殺人者』を部屋へ招き入れたのかもしれない。

 桐生は西岐の記事を読み始め、遠い地にそびえる山に思いを巡らせた。

 
   

 12月22日水曜日


 クリスマスに心ときめかせていたのはいつの頃だったか。空一面を覆う雲が、景色に薄いグレーのベールを掛けている。足が重いのは体が疲れているせいだけではなかった。

「きのうは桐生君たち、デスクに責められて大変だったね」

 岡島が運転するプリウスに、桐生も同乗していた。水曜は公休日だが、部屋でじっとしているより取材に出かけたほうが気が紛れる。

「きょう発売の『週刊ピリオド』、朝一にコンビニで買って読みましたけど、富士原君が犯人っていうのはやっぱりピンとこないです」

 桐生は『週刊ピリオド』と一緒に買ったミネラルウォーターを喉に流し込んだ。

「桐生君の気持ちもわかるよ。富士原君は瀬田さんの教え子だし、最初に取材に応じてくれたから印象もよかったんじゃない? でも、人は見かけによらないからね。若くてかわいい女性が、知り合って間もない男の首を切り落としたりするんだからさ」

 岡島の言う通りだ。

「僕たちはみんな、富士原に騙されていたのかな」

 桐生のつぶやきに、岡島は唸った。

「まだわからないけど、富士原君といつも一緒にいた卯月君は、きっとものすごいショックを受けてるだろうね。卯月君も、桐生君たちが最初に取材したんだろ?」

「最初に二人で来てくれたんです。二人とも瀬田さんのことを心底心配してるように見えたのにな」

「じゃあ、富士原君の自宅を訪ねたあと、一緒に卯月君に会いに行かないか。今日は大学にいるのかな」

「ちょっと卯月君にメールを送ってみます」

 走り続ける車のなかで、卯月にメールを送った。数分と掛からず返信があった。あと二日で大学院も冬休みに入り、一月三日まで閉鎖されるという。だからきょうは一日中研究室に籠もって修論に取り組むと書かれていた。

 富士原の自宅を訪ねたあと、以前待ち合わせた大学構内のカフェで落ち合うことにした。

 中目黒のアパートまで行ったが、富士原は留守だった。張り込みを続けているワイドショーの記者たちの話では、警察署で連日事情聴取されているとのことだった。

 岡島はアパート周辺の写真を何枚か撮り、二人はプリウスに戻った。

「この前編集部に送られてきた指の剥製って、身元は断定されたのかな」

「ええ。未知瑠さんの部屋はずっとそのままになっていて、毛髪が残されていたそうです。DNA鑑定の結果、あの指の剥製は、未知瑠さんのもので間違いないって、赤石さんが教えてくれました」

「卯月君は妹さんのことでも憔悴してるのに、修論も仕上げなきゃならないなんて大変だな」

「まったくです」

 山手通りから駒沢通りに入った。電車なら三十分のところを車なら十分もかからない。渋滞もなく渋谷四丁目の交差点を左折し、香霖大学キャンパスまで来た。付近にあったコインパーキングに駐車し、正門を通る。

「でも、この事件はおかしいって思いませんか」

 構内のカフェを目指して歩きながら、桐生は岡島に問いかけた。

「ずいぶんたくさんの人が殺されてるからね。犯人は、きっと恐ろしい冷血漢に違いないよ」

 広場まで来ると、岡村はカメラを構えた。富士原が煙草を吸っていたベンチのほうへレンズを向け、シャッターを切る。

「内面も異常だと思うけど、僕がわからないのは、どうして『FINDER』に犯行告白の手紙を送ったのかってことです。だって、遺体を切断して、錘を付けて湖に沈めたんですよ。それって、犯行を隠したいからでしょ? それなのに、自分でその犯行を『FINDER』に知らせた。発見されたいなら、はじめから公園にでも放置すればよかったのに」

「なるほどね。『ブラック・ダリア事件』は明け方の公園に遺体を遺棄したんだったね」

 ブラック・ダリアことエリザベス・ショートの遺体が発見されたのは、一九四七年一月十五日の早朝だった。ロサンジェルスの空き地に遺棄された遺体は全裸で、胴体を真っ二つに切断されていた。激しい殴打による青痣があり、首と手首と足首にロープを巻き付けた痕があった。

 その後、濃厚な容疑者が浮かんだが、追求しきれぬまま男は焼死している。捜査の手が迫っていると知った男が、自ら死を選んだのかもしれない。あるいは事故だったのか。

「『名もなき殺人者』は、被害者に激しい怒りを感じていたと思いますか」

「どうかな。でも、なんとなく今回の犯人は、『ブラック・ダリア事件』とは違う気がするよ」

 岡島はまたカメラを構え、今度は桐生を撮った。岡島は呼吸するように被写体にカメラを向け、ごく自然にシャッターを切る。

「『ブラック・ダリア事件』の犯人は怒りに任せて被害者を拷問し、草地に遺棄していったと考えられているよね。俺が思うに、犯行の動機は痴情のもつれだよ」

「じゃあ、『名もなき殺人者』は自分が殺してきた相手に怒りを感じてなかったと思うんですね?」

「俺も手紙の写真を撮ったから、内容は全部読ませてもらってる。犯人は、未知瑠さんを愛していたんだろ? 怒りとは違う理由で、人を殺すことがあるのかもしれない」

「それはどんな感情なのかな」

 ――私はこの少女を愛していました。

『名もなき殺人者』は未知瑠に恋をしていた。恋はそのうちに相手のすべてを支配したいという欲望に変わっていったのではないか。思い通りにならないことへの怒りではないのだろうか。

「それがわかったら、俺にも教えてよ。桐生君は立派な記者だから、きっと突き止められるさ」

 岡島は微笑むと、レンズを空へ向けシャッターを切った。

 待ち合わせのカフェへ入ると、卯月が窓際の席に座っていた。前回と同じ窓際の席だ。店内はがらがらで、卯月のほかには学生が三人いるだけだった。

「もうすぐ冬休みですからね。学部生はすでに冬休みに入ってますし」

 卯月は、桐生が店内を見回している意味を読み取って答えた。少し頰がこけ、目の下にクマができている。

 卯月に岡島を紹介し、向かいの席に座った。

「未知瑠さんのことだけど、なんて言ったらいいのか……」

「覚悟はできていました。まさか今回の事件の犯人に殺されていたなんて、まだ信じられないけど……」

 卯月はテーブルの上で指を組み合わせた。

「未知瑠さんは、高校には電車で通ってたのかい?」

「ええ。地下鉄で三十分も掛からなかったと思います」

 卯月は組んだ手に顎を載せ、記憶を辿るように目をすがめた。

「犯人は、どこかで未知瑠さんを見ていたはずなんだ。通学途中とか、バイト先とかで。心当たりはないかな」

「未知瑠はバイトはしてませんでした。高校で禁止だったと思います」

 すぐに繋がりが辿れるなら、未知瑠の指など送りつけてはこないということか。『名もなき殺人者』には身元が割れない自信がある。

「きみは、富士原君が『名もなき殺人者』だと思うかい?」

「それは……わからないです。あいつが瀬田先生のことをストーキングしてたなんて、ぜんぜん気づかなかった。でも、この一連の事件の犯人は、遺体を湖に捨てたんですよね? もし富士原が犯人だとしたら、未知瑠を殺したのもあいつだってことになります。指を剥製にするなんて……そんなむごいこと、富士原にできるとは思えません」

 卯月は組み合わせた指をほどいた。

「富士原君とは、連絡取ってるかい?」

「スマホはずっと繋がりません。俺とは話したくないんだと思います」

 卯月は指に額を押し付け、低くつぶやいた。

   

 12月23日木曜日


 翌日の編集部では、電話が鳴り響いていた。この日発売された『FINDER』には『名もなき殺人者』からの手紙と、未知瑠の指が入っていた箱の写真が掲載されている。前日に発売された『週刊ピリオド』やワイドショーでの報道もあいまって、事件への注目度は高まっていた。

 桐生が取った電話のうち、三件は「自分が『名もなき殺人者』だと名乗っていた。だが、送った指は右手の親指だとか、五本全部だなどと言って笑っていた。
 嘘を語るのは、注目されたいからなのか。犯罪者となってでも有名になりたいのだろうか。実際に警察に捕まったら、厳しい取り調べを受けることをわかっているのだろうか。いや、その前に捜査妨害である。嘘は刑事たちの貴重な時間を奪っている。

「桐生君、清澄さんからメールが来たよ。三頭山で見つかった遺体は、樹里亜さんのものだと断定されたらしい」

 北村に声をかけられ、桐生は現実に引き戻された。

「いつ、わかったんですか」

「メールにははっきりと書かれてないが、遺体は荼毘に付され、きょう遺骨を受け取ってきたそうだよ」

 娘の遺骨を持ち帰る清澄の姿が目に浮かんだ。うつむいて歩く男の背中は一回り小さくなり、闇に佇んでいる。

「これから清澄さんに会いに行きませんか。樹里亜さんの部屋にあった十字の印の入ったビー玉も、あったら見せてもらいましょうよ」

「そうだな。樹里亜さんの仏壇に線香もあげたいしな」

 北村は鞄とコートを掴むと、ドアへ向かった。桐生もあとに続いた。

 清澄に連絡を入れ、川崎の自宅に着いたのは正午前だった。木造二階建てで、玄関にはパンジーのプランターが置かれていた。濃い紫と白い花が咲いている。
「樹里亜は花が好きでした。あの子が帰ってきたときに、花が枯れていたら可哀想だと思い、水やりは欠かしませんでした」

 清澄は寂しそうに微笑み、桐生と北村を家のなかへ招き入れた。

 玄関を上がってすぐの突き当たりにドアがあり、左隣にさらにドアが二つある。右手には階段があった。清澄は左奥のドアを開け、振り向いた。

「あいにく客用のスリッパなんて置いてないんで、炬燵こたつであったまってください」

「私たちは樹里亜さんに線香をあげにきたんです。どうぞお構いなく」

 北村は川崎の駅ビルで買った饅頭の包みを清澄に渡した。

 六畳ほどの部屋の左には対面式のキッチンがあり、その奥に炬燵とテレビボードが置かれていた。炬燵の背面に、黒く艶やかな仏壇があった。なかに写真が飾られている。そこには、はにかんだ笑みを浮かべる樹里亜が写っていた。

 仏壇のそばに北村が正座したので、桐生も北村にならった。

 清澄も仏前に座り、朱色の高坏たかつきに饅頭の包みを置いた。マッチで蝋燭ろうそくに火をともす。朱色の線香差しから二本抜き取り、北村と桐生に一本ずつ渡した。

 北村は線香の先端を火にかざした。数秒で細く白い煙が立ち上る。それを香炉にさし、手を合わせた。

 この世ではない別の世界と繋がる瞬間は、いつも静寂に包まれる。

「もうあの子は帰ってこないとわかっているのに、玄関で物音がすると耳をそばだててしまうんです。ドアがいまにも開いて、樹里亜が顔を覗かせるんじゃないかって」

 清澄は顔を歪めた。

 桐生の番になり、渡された緑色の線香を蝋燭に翳した。ふっと赤い火が灯り、煙が細く立ち上がった。北村がさした線香の隣に線香をさしこみ、合掌した。

「僕は子供の頃に母を病気で亡くしました。頭ではわかっているのに、ときどき声が聞こえるんです。僕の名前を呼んでるってわかるんです。そんなときは、きっと近くにいて、僕のことを見てるんだなって思います。樹里亜さんも、お父さんのそばに来てくれてるんですよ。きっと」

 清澄はうつむき、「ありがとう」とつぶやいた。

「樹里亜さんの部屋を見せてもらってもいいでしょうか。十字の印の入った置き物を見せていただきたいんですが」

 北村が切り出すと、清澄は蝋燭の火を消して立ち上がった。

「あの置き物は警察が持っていきました。あれから何日も経つのに、まだ堀内は逮捕されていません。そのかわりに、学生が取り調べられているそうですね。その学生が樹里亜のことも殺したんでしょうか」

「わかりません。でも、犯人は、堀内さんではないのかもしれません」

 北村の言葉に、清澄もうなずく。

「秩父湖の事件と同じ犯人なら、そいつは何人も殺している。堀内にそんな大それたことができるとは思えない」

 清澄は仏壇のあった部屋を出て、階段を上り始めた。桐生と北原も清澄についていく。階段を上ってすぐの部屋のドアには、プレートが掛けられていた。樹里亜の名前が英語で綴られ、ピンクと水色の花が描き込まれている。

 清澄がドアを開けた。ここも六畳ほどの広さで、正面に窓がある。カーテンは閉め切られていた。淡い水色のカーテンの隙間から、光が差し込んでいる。

 右の壁にはベッドが置かれ、左側の壁には背の高い書棚が置かれていた。百科事典と文学全集がぎっしりと並び、『神曲』や『カラマーゾフの兄弟』は手の届きやすい中段に入れられていた。下段は引き出しになっている。

「樹里亜さんは、文学がお好きだったんですね。引き出しのなかも見ていいですか」

 北村が問いかけると、清澄はうなずいた。引き出すとCDが収納されていた。北村はCDの背表紙を一つずつ確かめ、声を上げた。

「クラシックがぎっしりだ。モーツアルトの『レクイエム』のほかに、ワーグナーやラフマニノフが並んでいるよ」

 桐生も引き出しを覗き込み、CDを手に取った。ジャケットは若い青年のモノクロ写真だ。

「バッハの作品集ですね。この写真の青年が演奏してるのかな」

「その演奏者はグレン・グールドという名前で、樹里亜がよく部屋で聴いていました。そのアルバムに収録されている『平均律クラヴィーア』は、宇宙探査機ボイジャーに乗って宇宙を旅してるそうです。そうだ。十字の入った置き物はスマホで写真を撮りました。ちょっと持ってきます」

 清澄は部屋を出ていった。

「宇宙を旅するクラシックか。それはどんな曲なんだろうな」

 北村は桐生からCDを受け取り、周囲を見回した。机の横の棚に白いステレオスピーカーを見つけ、早速電源を入れた。CDを入れ、再生ボタンを押す。やさしい音色が流れ出す。どこか物悲しく、それでいて懐かしい気持ちになる。子供の頃に眺めていた景色を見ているみたいだ。北村はCDジャケットの写真を眺めながら、曲を聴き入っている。

 窓の前に置かれたスチール・デスクには、本が五冊並べられていた。五冊とも著者はパウル・ツェランと記されている。そのうちの一冊に付箋が貼られていた。抜き出して表紙を開く。短い文章がいくつも綴られている。詩集だ。

 付箋が貼られたページを開くと、ボールペンでサイドラインが引かれていた。
 
   きみは待っているがいい、
   すべての目の見守るもとで一粒の砂がきみの
  ために輝き出るまで。
   一粒の砂。
   それは、ぼくがきみを見つけようと身を沈み
  こませたとき、ぼくに夢みることを助けてくれ
  たものだ。
 
「樹里亜さんは、詩的な感性を持っていたみたいですね。一粒の砂、か。夏希さんは、一粒の涙って歌ってたな。そういう感性は、どうやったら育めるんでしょうね」

「それは難しい質問だな。この部屋にあるような文学小説や、クラシックに親しむことから始まるのかもしれないよ」

 北村は桐生が開いていたページに視線を落とし、詩の一節を口ずさんだ。



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