見出し画像

聖なる夜に花は揺蕩う 第10話 聖なる夜


 

   12月24日金曜日

 

 金曜は次週号の企画会議があり、午前中から編集長や北村たち特派記者、デスクの赤石らは一階の会議室へ行っていた。

 桐生はきのう、清澄からスマートフォンに送ってもらった画像を見ていた。樹里亜の部屋に残されていた十字の印の入ったビー玉は、転がらないように銀色のリングの上に置かれていた。直径四センチほどで、幅三ミリほどの青い輪が二つ、中心で十字になるよう垂直に重ねられている。正円の重なりが、これほど心に安らぎを与えるとは知らなかった。雨の日、公園の池でいつまでも雨粒が作る波紋を見ていたことを思い出す。

「桐生君、これから出られるかい?」

 岡島に声をかけられ、桐生は顔を上げた。

「いつでも出られますよ」

 スマートフォンを鞄に突っ込み、席を立つ。

「また『名もなき殺人者』から手紙が来たんだ。今度は白石夏希さんの遺体を埋めた場所が書かれているんだ。でも、きのうからガセネタがじゃんじゃん送られて来てるから、ハッタリかもしれないけどね」

「夏希さんの生死はいまだに不明なんだ。この際、行って確かめてみましょう」

 編集部をあとにし、桐生は岡島のプリウスに乗り込んだ。ナビに入力された地名は恩方(おんかた)となっている。スピーカーからピアノ曲が流れだした。

「岡島さんて、クラシックが好きなんですか」

「うん。高校のときの友達が文学やクラシックに詳しくてね」

「僕もそんな高尚な趣味を持ちたいな。休日にはクラシックを聴きながら文学に親しむとかね。この曲も、モーツアルトですか」

「いや、これはショパンのノクターンの二番だよ。ノクターンは遺作を入れて二十一曲あるんだ」

「同じタイトルの曲がそんなに長いんですか」

 メランコリックな旋律は、どこか懐かしい。

「物語と一緒だよ。いくつもの部屋で、同じテーマをもった旋律が流れている。俺さ、子供の頃はピアノが習いたかったんだ」

「僕も憧れます。岡島さんって多趣味ですよね。ダイビングの免許もあるし、アラスカで写真を撮ったり。あ、でも写真は本業か」

「ダイビングの免許は桐生君も持ってるじゃないか」

 バス通りを法定速度で走りながら、岡島が口を開いた。

「僕のは、ただ持ってるだけですよ。海の底とか、宇宙の果てとかに憧れはあるけど、宇宙飛行士になるのは無理だから、免許を取りに行きました。いままでに見たことのない景色を見てみたいって、ずっと思ってるかな」

「桐生君の気持ち、よくわかるよ」

 岡島はうなずいてくれた。目的地には昼頃に着いた。途中、ホームセンターでシャベルと軍手を購入し、坂の上で車を降りた。辺りに民家はなく、アスファルトの両側は常緑樹で囲まれていた。

「左側の林を十メートルほど進むと空き地があるらしい。目印に円と十字の印を刻んだ石が置いてあるってさ。行ってみよう」

 岡島はシャベルを掴んで歩き出した。桐生もあとに続く。

 白い雲に覆われた空が、時折ごろごろと鳴っていた。十メートル先に小さな空き地はあったが、円と十字を刻んだ石は見当たらない。

「石はどこかに転がっていったのもしれないですね。とりあえず、この木の辺りを掘ってみます」

「そうだね。なんだか雨が降り出しそうだから、始めたほうがいいな。じゃあ、俺は向こうの茂みを掘り返してみるよ」

 遠い雷鳴を聞きながら、桐生と岡島は土を掘り始めた。

 骨は剥き出しのまま埋まっているのだろうか。それともビニール袋に包まれているのだろうか。いずれにせよ人骨が埋まっているならそれとわかるはずだ。

 土は硬く、一時間も経たないうちに指先と肩が痺れてきた。空気は冷たかったが、背中と額には汗が流れていた。五十センチほど掘っては土を戻しながら二時間が過ぎた頃、頬に水滴が当たった。

 一粒の雨はすぐに小雨になり、二人は土を掘り返すのをやめた。空き地はほぼ掘り返していたが、骨の欠片一つ見つけることはできなかった。

 

 岡島はエンジンをかけ、シフトノブを『P』から『D』に切り替えた。エアコンの温度を二十四度に設定し、フットブレーキを外す。車がゆっくりと走り出す。

 レジスターから温風が吹き出し、濡れた髪を揺らした。桐生はハンドタオルで服を拭きながら、長時間の採掘作業で身体中の筋肉が強張(こわば)っているのを感じた。

「あの手紙はガセだったのかもしれないね」

 岡島の声はいつもと変わりない。

「岡島さんは本当にタフだね。僕なんか肩と腰がバキバキいってるよ」

 来るときに買った缶コーヒーの残りをすすりながら、岡島を見やる。

「俺、マッキンリー山に登頂したことがあるんだ」

「その山、冒険家の植村直己(うえむらなおみ)さんが眠る山ですね」

 マッキンリー山は改称し、いまはデナリ山と呼ばれている。北アメリカ大陸の最高峰だということは、桐生も知っていた。

「ああ。標高は六〇〇〇メートルを超えてるよ」

「そりゃあ、凄い。そのぐらいの登山だと命の危険もあるし、家族や恋人に反対されたんでしょ?」

 桐生は、自分と同じことを璃子が西岐に訊いていたことを思い返した。西岐は三年前、カラコルムのガッシャーブルムに登ったと話していた。だが、遊佐の話では、西岐は八千メートルの手前で下山していたという。

 不意に、『名もなき殺人者』から送られた手紙の一文が脳裏にひらめいた。

 

 ――彼はもっと本気で物事に取り組むべきでしたよ。厳しい自然と向き合いたいならなおさらです。

 

 あの文は、ガッシャーブルム登頂のことを指していたのではないか。

「俺の命を心配してくれるなんて人はいないから、気楽なもんだよ。俺が登ったときは、日本から山岳会の登頂隊が来てて、一緒にセスナ機に乗ってカヒルトナ氷河に行ったんだ。そこから約二十キロ先にベースキャンプがあるんだよ」

 岡島は懐かしそうに目を細めている。桐生は岡島の横顔を見つめながら、西岐の登山記事を思い浮かべた。

 記事はまだ最近のものだけで、マッキンリーについては書かれていなかった。西岐はマッキンリーに挑戦したことがあっただろうか。

「岡島さんがマッキンリーに登ったのは、いつのことですか」

「三年前の六月だった。マッキンリーはヒマラヤと違い、シェルパがいないんだ。だから六十キロ近い装備を一人で運ばなきゃならない。リュックと橇(そり)に分けて、橇は腰に付けたハーネスからロープで引っ張っていくんだ。しかもスキー板を履いた状態でね」

 過酷な体験を語る岡島は、やけに楽しそうだ。

「岡島さんは、ほかにも山に登ったことがある?」

 岡島と西岐がマッキンリー登山で出会った確率は限りなく低い。だが、登山が岡島の趣味なら確率は上がる。二人は、どこかの山で出会ったのではないか。心臓の鼓動が速まるのを抑えられない。

「学生の時から時間があるとよく山に登っていました。基本的に一人が好きなんです。地図を広げて装備を整えるのも好きですね。いい景色とも出会えます。だからカメラマンになったのかもしれません。カメラマンじゃなかったら、登山家になりたかったですね」

 ガッシャーブルムに登ったことがあるかと聞きたかったが、桐生は口に出せなかった。『名もなき殺人者』から送られた最初の手紙の文字が目の前に浮かび上がる。

 

   私はこれまでに五つの魂を闇に葬りました。

 

 そのとき、車内に流れているピアノ曲に気を奪われた。

「この曲は……」

「ああ、これは『平均律クラヴィーア』だよ。演奏しているのは、かの天才ピアニスト・グレン・グールドだね。彼が演奏した『平均律クラヴィーア』の一部は、〃地球の音〃として宇宙探査機ボイジャーに乗って宇宙を旅してるんだ。この曲を宇宙人が聴くかもしれないなんて、ロマンを感じないか」

 熱く語る岡島に、桐生は息を呑んだ。

 ――清澄樹里亜に『平均律クラヴィーア』を教えたのは、岡島だった。彼が『名もなき殺人者』だ。

 車は山道を走行していた。いますぐここから逃げなければならない。車は見通しの悪いカーブに差し掛かり、ゆっくりと速度を落として停止した。

「ちょっと外の空気が吸いたいから、外へ出るよ」

 桐生は安堵の息を吐き、助手席のドアを開けようとした。だが、開かない。ロックが掛かっている。

「桐生君は、どんなふうに死にたい?」

 岡島の声に、桐生は凍りついた。

「突然明かりが消えるみたいになんの痛みもなく意識を失って死ぬのと、ゆっくり時間をかけて、自分が成し遂げなかったことを悔いながら死ぬのと、どっちがいいかな」

 岡島は微笑んでいる。

「……あなたが……殺したのか……」

 これは思い違いだ。そんなはずがない。理性は答えを拒否していたが、直感は告げていた。

 ――一刻も早くここから逃げろ。

「みんな俺が殺した。最初に白石真人、次が未知瑠だ。絢子と西岐は君が第一発見者だから、よく知ってるよね。ああ、きみが知りたいのは夏希ちゃんのことかな。彼女は俺に会いたがっていたから、仕方なかったんだよ。彼女はずっと記憶に苦しんでいた。もう苦しまなくていい。忌まわしい過去から解放され、彼女は永遠の眠りについたんだ。死が魂を解放し、宇宙のエネルギーの粒になる。安心してください。これからきみにも同じ安らぎを与えてあげるよ」

 桐生が反撃しようとした次の瞬間、頭部に激しい痛みが走った。脳味噌がジャンプするような衝撃で、桐生の意識は暗い闇へと落ちていった。

 

 柔らかな毛布に包まれて、花びらが散っているのを見ていた。花弁は黄色やオレンジで、青空にくるくると円を描いている。そのうちに花弁の円が桐生のほうへ下りてきた。まるで遺伝子の二重螺旋のように渦を巻いている。この花弁の渦を上っていけば、母のいる天国に辿り着けるだろうか。

 はっと目を覚まし、顔の下に毛布が敷かれているのに気づいた。起きあがろうとしたが、体が思うように動かない。手首と足首が縛られている。

 それでも少しずつ体をずらし、桐生は体を起こした。右側頭部がずきずきと疼いている。手は後ろで縛られているので見えないが、足首は結束バンドで縛られていた。おそらく手首も同じ結束バンドで縛られているのだろう。

 どこかの部屋にいるようだ。コートは脱がされていたが、寒さは感じない。薄暗く、前方のドアからわずかな明かりが差し込んでいた。

 座ったまま体の位置を変え、顔があった場所に触れてみる。湿ってはいない。頭部を殴られたが、流血は免れたようだ。口に猿轡(さるぐつわ)も噛まされていない。大声で叫べば、誰かが助けに来てくれるかもしれない。

 部屋を見回し窓を探した。壁に板が打ち付けられている。おそらくあれが窓だろう。耳をすましてみたが、外の音は聞こえない。むやみに叫べば、誰かが駆けつけるより先に奴にぶちのめされ、下手すれば今度こそ死ぬ。それくらいならドアに近付き、開いた瞬間に奴に蹴りを入れたほうが逃げられるかもしれない。

 ドアに近づこうとしたが、手首に巻かれたバンドは壁に取り付けられた手摺(てすり)に繋がれていた。あと一歩届かない。そのとき、ドアが開いた。ライトが顔に当たり、桐生は眩しさに顔を背けた。

「よかった。意識が戻ったんだね」

 岡島は、左手に持っていた懐中電灯のスイッチを消した。

「どうして、こんなことを……。あなたが『名もなき殺人者』だったなんて……」

 視線を岡島に向けた。黒いビニールの雨合羽を着ている。肩にタオルを引っ掛け、右手にナイフを握っている。刃渡り二十センチくらいだ。あのナイフで瀬田絢子や西岐を殺したのか。

 悪い夢を見ているような気がした。恐怖より混乱が渦を巻いている。ドアの向こうからピアノ曲が聞こえた。岡島の車のなかで聞いたバッハの『平均律クラヴィーア』だ。

「桐生君に気づいてもらえて光栄だよ。こんなふうに話ができることも、最高に気分がいいね」

「初めから、僕を殺すつもりだったのか」

 縛られた手首を動かしてバンドを外そうとすると、よけいにバンドが皮膚に食い込んでくる。

「気づいて欲しかったんだ。近くに殺人者がいるって、どんな気分だい? せっかくだから教えてくれないか。きみは俺のような殺人欲求はどこからくると思う?」

 岡島はしゃがみ込み、桐生と目線を合わせた。岡島の黒い瞳は強い光を発している。

「それを知りたいなら精神科を受ければよかっただろ。犯罪心理学者に手紙を送るとか、僕よりほかにいくらでも相応しい人はいるよ」

 桐生の言葉に、岡島は口角を引き上げた。

「絢子を選んだ理由は、彼女が書いた犯罪心理学の本を読んだというのもある。でも、一番の理由は、彼女のゼミに卯月嶺がいたからだ。彼のことは、アラスカにいたときも、ずっと気にかけていたよ」

 岡島はナイフの刃先を床に押し当て、桐生の背後の壁を見つめていた。まるでその壁に過去の記憶が映像として映し出されているかのように、瞳孔が左右に動いている。

「……あなたは、なぜ未知瑠さんを殺したんですか」

「声を掛けてきたのは、彼女のほうだよ。俺はとにかく日本を出たかった。そのための金を貯めるために、いろいろとバイトしてた。未知瑠と出会ったのは、原宿の古着屋にいた頃だね」

 岡島は、甘美な思い出に浸るかのように頬を緩めた。

「あの日は五月に入ったばかりの土曜日で、お洒落に敏感な若者たちで賑(にぎ)わっていた。空は青く澄み渡り、気持ちのいい昼下がりだったよ。こんな日に仕事をしなければならないなんてツイてない。そう思いながら、商品棚を整理していた俺は、彼女に呼び掛けられたんだ」

 桐生の脳裏に二人の姿が浮かぶ。服を買いに来た少女が若い男性店員に話し掛けた。どこにでもある日常の一コマだ。

「俺が振り向くと、女の子が立っていた。半袖の白い開襟シャツにチェックのスカートを穿いていたな。ベージュとピンクのチェック柄で、すぐに近くの女子高生だとわかったよ」

 岡島は微笑んでいる。桐生は込み上げてくる吐き気をなんとか押し戻した。

「彼女は額に手をやり、前髪を揃えてた。その指は白くなめらかで、関節にも皺(しわ)がなかった。いや、そう見えただけかもしれない。マネキンのように細くて、爪はほんのりとピンクがかっていたよ。あのときの胸の高まりは、いまも忘れてない」

「それなのに、あんたは未知瑠さんを殺したのか。指を切断して……。普通に付き合えばよかったじゃないか」

「付き合ってたよ。誰にも秘密という条件付きで。俺からの連絡も拒否してたね。兄が自分を見張っているから、電話は困るって言ってたな。でも、それは嘘だった。俺を信用してなかったんだ」

「未知瑠さんは当時、まだ高校生だ。あんたは九つも歳上の男だろ。警戒心を抱くのはむしろ当然じゃないのか。未知瑠さんを本当に大切に思ってたんなら、安心させてあげるべきだっただろ」

 桐生は殴られた右側頭部が痛み出し、壁にもたれた。自分はあとどれくらい生きていられるだろう。

「安心させて欲しかったのは俺のほうだよ。未知瑠は時間にルーズで、約束の時間にはいつも遅れてきた。門限があるとかで、六時には帰っていったね。俺と一緒にいるのが楽しくないのかって、不安に襲われたよ。俺はずっと一緒にいたかったのに。その後、付き合った女たちも、みんな俺を置いていこうとした。それが耐えられなかった」

 岡島は握っていたナイフの刃先で床をゆっくり叩き始めた。

「どうしてあんたは真人さんを殺したんだ? そばには小学生の女の子がいたのに」

 桐生の問いかけに、岡島は笑い出した。

「きみは事件の本質がぜんぜんわかってないんだな。白石は夏希ちゃんを草むらに連れ込んで、陵辱しようとしてたんだ。俺は夏休みの旅行であの祠へはよく訪れていたんだ。あんな奴は死んで当然だ」

「……そんな……、でも、それなら通報すればよかったじゃないか」

「きみ、性犯罪者ってのは捕まってもすぐ社会に戻ってくるんだよ。それに異常な嗜好は治らない。夏希ちゃんのためには、殺すのが一番いい。それでも性被害者の傷はなかなか癒えない。大人になってから命を絶ってしまう被害者だってたくさんいるんだよ。それくらい、事件記者なら知ってるだろ?」

「じゃあ、どうして夏希ちゃんを殺したんだ?」

「彼女が会いに来たからだよ。彼女の傷は癒えなかった。安らぎを望んでいたから、与えたんだ。彼女は永遠に癒されている。全なる無に還ったんだよ」

 カバラ宗教のサイトで読んだ言葉を聞き、桐生は首を振った。

 コミュニケーションも問題なく取れ、表面上反社会的な行動も見られない。こんな男が、なぜ人を殺し続けているのか。多くのシリアルキラーは、家庭環境に問題があった。岡島も辛い生い立ちなのだろうか。

「あんたは、虐待されてたのか」

「そんな回答じゃ、期待はずれですよ。シリアルキラーはみんなかわいそうな境遇で育ったって思ってるのか。残念ながら、俺は虐待なんて受けてない。父は医者だ。俺には優秀な兄がいたから、勉強を強制されたこともない。自由にさせてもらってたよ」

 だとしたら、岡島が犯行を重ねてきたのはなぜだ? 岡島自身にもわからない殺人欲求の源泉はどこにあるのか。

 孤独の部屋で、空想は膨らむ。無視され、罵(ののし)られ、嘲(あざけ)りを浴びれば、孤独の部屋の空気は淀(よど)み、冷たい闇に満たされる。そこに棲む者は殺戮(さつりく)の空想に耽(ふけ)り、絶叫とスリルを楽しむようになる。

「……あんたは、手紙のなかで僕たちに訊いたよね。〃スリル〃を求めているだろって。ちゃんとわかってるじゃないか。あんたは〃スリル〃という快楽のために人を殺している。痛みを与え、相手の恐怖を味わいたいんだ」

「きみは、自分の手で殺人を犯さないものは善良だと思っている。でも、それは間違ってるよ」

 岡島はナイフの刃先でカチカチと音を刻みながら、体を前後に揺らしていた。まるで子供がブランコにでも乗っているみたいだ。

「人間の暴力の歴史は遠い昔、紀元前から継続しているのは知ってるかい? ギリシャの暴君ファラリスは、人を生きたままローストにしたことで知られている。フェレーのアレキサンダー王は、犬に人間を食いちぎらせて興じた」

 フェレーのアレキサンダー王の行いは、イワン・カラマーゾフが語った残虐な将軍の姿に重なる。岡島は残虐行為を味わうかのように唇を舐めた。

「キリストの死の直後、時代を統治したローマの皇帝カリギュラとネロは、権力と娯楽のために血族とも結婚し、強姦し、殺した。権力者だけじゃない。ブリテンからアフリカにまで及ぶ広大な帝国全土には二百近い闘技場があり、七万もの席に詰め寄せた観客は死の見世物に熱狂したんだ。彼らが求めていたものが何か、桐生君にはもうわかってるだろ?」

 目の前を埋め尽くす群衆は、闘技場で殺し合う剣闘士に視線を注いでいる。彼らは流血に飢えていた。その場面を想像し、桐生は再び吐き気を催(もよお)した。桐生の答えを促すように、ナイフで床を打ち付ける音が速くなる。

「きみに、いいことを教えてあげるよ。何が善であり悪であるのか。それを知っているのは、創造する者だけなんだよ。映画を撮ったり絵を描いたりするなかで、監督や画家は善と悪を定義する。写真家もカメラを使って世界を創造する。見る者に嫌悪感を抱かせることだってできる。つまり、俺は悪を創造する者というわけさ」

「……あんたは、善を創造する者にだってなれた。写真展に展示されてた虹の写真や編集部で見せてくれたモノクロの写真に、僕は心を動かされたよ。あんたには善を創造する力が備わっている。望めば、殺戮の空想は止められたはずだよ」

「殺戮の空想をしない人間なんて存在しないよ。桐生君だってムカつく奴に、死ねって吐き捨てたことくらいあるだろ? 想像してみてほしい。真夏のクソ暑い日に、クーラーの効いてない満員電車のなかに押し込まれてるとしようか。狭くて暑いのに、飲んだくれの野郎どもがデカい声で喋りまくってる。こっちは寝不足で、おまけに腹が減ってる。そんなときに誰かに突き飛ばされたら、殴りかかりたくなるだろ? もし、生まれてこのかた一度もそんな感情を抱いたことがないなんて奴がいたら、財産も家族も他人に奪われて野垂れ死ぬさ。迫害者には怒りを感じるべきだし、自分や自分が大切に思うものを守りたいなら戦うしかない。命懸けで」

 岡島は桐生の顔を見て、勝ち誇ったように笑った。

「あんたは、本当はもっとお父さんに期待されたかったんじゃないのか」

 桐生の放った言葉に、岡崎は体を揺するのをやめた。

「ねえ、きみはスクープが欲しいんだろ?」

 岡島は桐生をまっすぐ見つめ、ナイフの刃先を床に突き立てた。

「きみがここで死ねば、間違いなくスクープになるよ。事件記者、『名もなき殺人者』に殺されるって。『FINDER』はすっげえ売れるだろな」

 桐生の脳裏に死体が浮かんだ。胴体は真っ二つで、奇妙なポーズをとっている。祈りは届かない。死んでいるのは自分だ。左胸には円と十字の印が刻まれている……。

「あんたが未知瑠さんに惹かれたのは、あんたと未知瑠さんの立場が似ていたからじゃないか。優秀なお兄さんばかりが注目され、きみは内心腹を立てていた。自分は優秀なのに、正当に評価されてないって。でも、本当はあんた自身が、黒い羊だったのかもしれない」

 奥の部屋から流れていた曲が協奏曲に変わった。バイオリンとピアノが響き合い、力強い旋律を刻む。

「この曲がもっとも美しい。これはチェンバロっていう鍵盤楽器のための協奏曲なんだ。ピアノは弦を下から打って音を出すが、チェンバロは弦を爪ではじく。音色はピアノとよく似てるけど、より繊細で柔らかい」

 岡島は曲に聴き入るように目を瞑(つぶ)った。悲哀に満ちた旋律は、これから死へ向かう者へのレクイエムのようだ。

 拘束されてからどのくらいの時間が経ったのか。桐生には正確な時刻はわからなかったが、おそらくまだ数時間だろう。喉の乾きや空腹はそれほど感じない。ただ右側頭部の痛みは増していた。自分はここで死んでスクープ記事になるのか。

 そのとき、ブザーが鳴った。岡島は目を見開き、ナイフを桐生の喉元に向けた。もう一度ブザーが鳴り、外から誰かが岡島の名前を呼んだ。

「くそっ。兄貴か」

 岡島は肩に掛けていたタオルを桐生の口にかませて猿轡(さるぐつわ)にし、立ち上がった。大股で部屋を出て行く。すぐに大声で怒鳴っているのが聞こえてきた。「ドアは開けられない」と撥(は)ねつける岡島に対し、相手がなんと答えているのかは聞き取れなかった。

 桐生は板の打ち付けられた壁ににじり寄り、縛られた両足で板を蹴った。蹴るたびに頭に鋭い痛みが走ったが、この機会を逸すれば痛みさえ感じられない冥府の闇に堕ちるしかない。後ろで縛られた両掌で体を支えながら、必死に壁と板を蹴り続けた。

 次の瞬間、大きな物音と共に冷たい風が吹き込んできた。壁が抜けたのかと思ったが、そうではなかった。

「なんですか、あんたたちは。勝手に部屋に入るのは不法侵入ですよ。令状はあるんですか」

「お兄さんが立ち会い、鍵を開けてくれたんです。不法侵入にはなりませんよ」

 聞き覚えのある男の声が部屋に響き、桐生は動きを止めた。

「幸也、お前はいったい何をしたんだ?」

 別の男の声は高圧的に岡島を非難していた。

「兄貴……ちくしょうっ。なんでここに来たんだよ。くそっ、やめろ。触るんじゃねぇ」

 岡島の怒声に男たちの声が混ざり合い、彼らの気配が遠ざかっていく。それと同時に足音が近づき、尾崎が顔を覗かせた。桐生を見るなり駆け寄り、口にかまされていたタオルを外した。ポケットから携帯用の鋏を取り出して拘束バンドを切った。

「桐生さん、大丈夫か」

 尾崎の問いに返事をしたかったが、腹の奥が圧迫されるような不快感でうまく声が出ない。桐生はうなずいた。尾崎に肩を支えられて立ち上がると眩暈がした。()

「……どうして……尾崎さんが……?」

 チェンバロ協奏曲は止んでいた。外が騒がしい。

「おたくが失踪したって、北村さんから連絡をもらったんだ。まさか、犯人が同じ会社のカメラマンだったとは驚きだよ」

 尾崎は、持っていた毛布を桐生の体に巻き付けた。尾崎に支えられながら立ち上がり、隣室へ入った。

 青白い蛍光灯で照らされた部屋は十畳ほどの広さで、床には黒いビニールシートが敷かれていた。正面の壁にローチェストがあり、オーティオデッキがセットされている。デッキの両側に大型スピーカーが置かれていた。ここからチェンバロ協奏曲が流れていたのだろう。

 部屋の中央にはウッドテーブルがあった。桐生はテーブルの上に視線を留めた。天板は大人一人がゆうに横たわれるほどの面積で、ドス黒い染みがある。このテーブルの上で、遺体を切断したのか。

 壁一面に設置されたメタルシェルフには、大きさの違う鋸(のこぎり)やハンマーがいくつも並べられていた。あのなかのどれかで瀬田絢子や西岐の遺体を切断したのか。未知瑠の指を切断した刃物は、いまも大切に保管しているに違いない。

 ここは一階で、右手奥にある玄関のドアは開け放たれていた。外気が吹き込み、桐生は毛布を掻き合わせた。

「あんたがここに運ばれたとわかるまで、時間が掛かったよ。スマホのGPSでは、あんたは自宅に帰宅したことになっていた。ドアの鍵が開いていた。スマホや鞄は残されたままね。おたくが岡島と一緒に編集部を出ったのを、受付嬢が覚えていてね。岡島の実家まで行って、いろいろと聞き込みをしたんだ」

「岡島のスマートフォンから居場所はわかったんじゃないですか」

「いや。奴は自分の携帯のSIMカードを抜いていた。車もお兄さんの車に乗り換えている。いままで捕まらなかったのは、そういう用心深さがあったからだろうな」

 尾崎の横を、捜査員が通り過ぎていく。シューズカバーが床と擦れ合う音が遠ざかっていった。

「あいつは六人も殺した。その動機はなんだったんですか」

「岡島のようなタイプは、人の痛みが快感なんだろう。そもそも岡島には、秩父湖の遺体発見で調書作りに協力してもらってる。あいつは刑事を前にしても、いっさい動揺していなかった。奴の心臓には、ぶっとい毛でも生えてる。俺たちが動揺したり憔悴する様を見て、楽しんでるんだよ」

「でも……どうして、奴は僕をすぐに殺さなかったんだろう」

「奴はあんたと話がしたかったんだ。そのおかげで、あんたは生き延びられた。あんたは奴が殺した遺体を二件目撃している。いわば貴重な第一発見者だ。ここは第一発見者でよかったというべきかな」

 ドアの向こうから、車のドアが閉まる音が響いた。赤色灯のライトが玄関の壁をちかちかと赤く照らしている。

 尾崎の言葉に桐生は戦慄を覚えた。岡島は、車中で桐生を殺すこともできた。あるいは飲みかけのコーヒーに睡眠薬を入れて眠らせ、東京湾に沈めることもできただろう。

「もし、僕が湖に潜らず、西岐の死体も発見してなければ、こんな目に遭わずにすんだのかもしれませんね」

「じゃあ、記者をやめて刑事にでもなるかい?」

 尾崎は眉を上げ、桐生に視線を向けた。口元にかすかな笑みを浮かべている。

「もし、過去に戻って職業を選びなおせるとしたら……」

 桐生はゆっくりと部屋を振り返った。殺す者と殺された者の声がひしめき合い、黒い渦を巻いている。新たな渦を作らないようにするために何ができるだろう。

「――やっぱり事件記者になると思います」

 桐生の答えに、尾崎は「筋金入りだな」と肩をすくめた。

 

 

 *****

 

 岡島はパトカーの後部シートにもたれていた。頭のなかでチェンバロ協奏曲ニ短調BWV一〇五二一が流れている。まるでチェンバロとバイオリンが一つの収束点に向かって追いかけっこをしているようだ。繰り返し刻まれる旋律に、岡崎は高揚していた。目の前には湖が見える。

 ――氷の下の水は、ガラスのように澄んでいた。

 そう岡島に教えてくれたのはFBIのダイバーだった。

 十年前の二月、アンカレッジで十八歳の少女が失踪する事件が起きていた。二ヶ月の捜査のすえ、警察はある男の身柄を拘束した。氷の張った湖の底に遺体を沈めたという男の供述で、アンカレッジ警察のSWATとFBIはマタヌスカ湖へと向かった。

 氷の厚さは九十センチほどで、音波探知機の設置に二時間かかったという。さらに画像転送が可能な遠隔操作探知機を湖底に送り、遺体の状態を確認した。腕が剥き出しの状態で膨張している画像を見て、現場に戦慄が走った。腕と足は胴体から切り離されていた。胴体は真っ二つで、少し離れたところに頭部が沈んでいた。遺体は七つに切断されていた。

〈遺体を引き上げる前に、オレたちは黙祷を捧げたんだ〉

 ダイバーの男は当時を思い出したのか、頬を強張らせていた。

 岡島がこの話から学んだのは、厚い氷の底に沈んだ遺体は、犯人の供述がない限り見つからないということだ。

 実際には、たいへんな労力と精神力が必要だ。錘(おもり)を括り付けた遺体をソリに載せ、雪の積もった湖面を歩かなければならない。氷釣りを装うために湖面に小屋を建て、五十センチ四方の穴を開けるのも手間取るだろう。切断した女たちを氷の穴から沈めるという夢を持ちながら、アラスカでは実行には移せずにいた。

 その光景を想像するだけでなく、自分の目で見てみたかった。この衝動を誰かに話したかった。精神科医に話すより、もっと興味をそそられる人物がいい。瀬田絢子は、話し相手にちょうどいいと思った。彼女が未知瑠の兄が通う大学の准教授だったことが一番の決め手となった。

 彼女と知り合う方法として選んだのがワイン会だった。彼女が当時付き合っていた西岐はホームページに日記を載せており、行動パターンを掴みやすかった。

 最初は二人が一緒にいるワイン会へ顔を出し、当たり障りのない世間話をした。彼女が通うジムにも行き、挨拶を交わすくらいの顔見知りになったのが一年前だ。

 その半年後、絢子は西岐と別れている。絢子と二人で話したのは、都内のホテルで開催されたワイン会だった。彼女は一人で参加していた。あのときは軽く恋愛話をしただけだったが、見かけほど芯が強いわけではないとわかった。

 あの女は西岐のことなどすっかり忘れ、教え子の卯月嶺に惹かれていた。だが、自分の気持ちを認めるのを恐れていた。

 愛すればいい。揺るぎない正義なんてものはない。他人がどう思うかなんて考えるな。だが、あの女にはそれができなかった。そのくせ、男には色目を使う。反吐が出る。

 絢子を誘い出すのは簡単だった。彼女がジムから帰るときに食事に誘うと、疑いもせずに岡島の車に乗り込んだ。その日、岡島が運転していた車が黒のアルファロメオだったのも功を奏した要因だろう。都内に住む兄の車だが、平日はいつも車庫で眠っている。車庫とスペアキーを渡されていた岡島は、自由に乗り回していた。

 この家へ向かいながら、湖に沈めた二人の女の話をした。彼女は目を見開き、恐怖で固まっていた。あのまま静かにしてくれていたら、もっと生かしておけた。

 ペットボトルの水を飲ませようとした岡島に、絢子は呪詛と罵声を浴びせた。あの屈辱は耐えがたい。黙らせたくてレンチで殴りつけた。あっけない幕切れだった。殴るときは、もっと手加減しなければならないとわかった。

 殺害後は、まず浴槽で血を抜いてから切断した。ジムの駐車場に駐められた彼女の車を取りに行き、切断した遺体をトランクに入れて秩父湖へ向かったのは八日の水曜日だった。

 自分で遺体を発見するために、『FINDER』に手紙を送った。桐生がどんな顔をするのかにも興味があった。桐生は恵庭昌に魅了されているが、岡島にいわせれば恵庭はペテン師だ。本当は、父親を殺してもいないのだろう。

 あの男は何もわかっちゃいない。救われなきゃならないのは奴のほうだ。

 岡島は唇を歪めた。マッキンリー山に登ったとき、岡島はクレバスに落ちた。あのときは単独登頂で、ザイルを結び合う仲間もいなかった。前日にスキーストックを折り、スキーを諦めたのも災いした。あの日は濃い霧が出ていた。そのせいでヒドゥンクレバスに気づけなかった。

 あの日、岡島はあのクレバスで死んでいてもおかしくなかった。あんなところでくたばっても、誰も気づかない。遺体も発見されない。父は探しもしないだろう。

 腰のハーネスに付けた二メートルの竹竿が、岡島の命を救った。夢中でピッケルを壁に引っ掛け、這い上がった。

 あのとき、足元に迫っていたのは無音の闇だ。氷と闇。二つは混ざり合い、甘美な欲望の部屋となった。痛みとスリルを箱に入れ、未知留の指の隣に並べたい。重要な点は、状況をよく見極めることだ。計画に縛られてはいけない。

 西岐に近づくのは簡単だった。絢子と別れたばかりの西岐は意気消沈し、通っていたスポーツジムも退会していた。西岐が行きつけの居酒屋へ行き、偶然を装って声を掛けた。まるで気の合う友人のようにビールで乾杯し、三時間も西岐の愚痴を聞いてやった。

 そのとき、連絡先は一切教えなかった。それでも不審がられることはなかったのは、ジムやワイン会でよく顔を合わせ、身元も確かだと思われていたからだろう。

 十六日の夜、西岐が好きなブルゴーニュワインとイタリア産のチーズを持って西岐のマンションへ向かった。西岐の部屋に明かりが点(つ)いているのを確認し、彼が外出するのを外で待った。午後八時を過ぎた頃、西岐はマンションから出てきた。近所の定食屋へ入るところを見届け、西岐が食事を済ませるのを心待ちにした。

 奴はどんな反応を示すだろう。部屋へ招いてくれるだろうか。何もあせることはない。今夜がダメなら、また次がある。

 予感はあった。うまくいくときは不思議と邪魔は入らない。西岐が食事を済ませて出てきたところへ声を掛けた。

 西岐はやけに憔悴していた。別れたとはいえ、かつて愛していた女が殺されたのだから無理もない。ワインを見せると、西岐はあっさり部屋に呼んでくれた。青信号が灯(とも)っている。目的地まで止まる必要はない。感覚は研ぎ澄まされていた。

 リビングに通されると、西岐の話を一通り聞いて慰めてやった。西岐の酔いが充分に回った頃、岡島は自分の服にわざとワインをこぼした。西岐はふらつく足で洗面所へ案内してくれた。西岐の後ろをゆっくりとついていきながら、岡島はポケットに忍ばせてあった折り畳み式ナイフを掴んだ。

〈俺さ、絢子さんとドライブしたことがあるんだ〉

 引き出しからタオルを取り出そうとしていた西岐は動きを止め、不思議そうに岡島を見た。

〈ジムの帰りに彼女を見かけてさ。そのとき、たまたま兄貴のアウディに乗ってたんだよね。絢子さん、喜んで助手席に乗ってくれたよ〉

 西岐は話を聞きながらタオルを濡らし、岡島の服にできたワインのシミに押し当てた。岡島が何を言っているのか理解していないようだ。岡島は話を続けた。

〈それで、秩父湖に連れて行ってあげたんだ。俺の話を聞かせてあげたら、わめきだしてさ。レンチで殴ったら、それっきり意識が戻らなかった。だから湖に沈めてあげたんだ。ちゃんと祈りを捧げてね〉

 言葉の意味をやっと理解した西岐が顔を上げた。その喉元に、一気にナイフを突き刺した。洗面台の鏡には、殺す者と殺される者の顔が映っていた。西岐は目を見開き、残り火が消える間際のように命を震わせていた。岡島の手に血が滴(したた)っていく。

 あのときの感触が蘇り、岡島は右手を頬に当てた。かすかな鉄の匂いが鼻腔を掠(かす)め、ぬるりとした感触が頬を伝っていくのを感じた。

 岡島は窓の外に視線を向けた。桐生がドアから出てきた。毛布にくるまり、色黒の刑事に付き添われている。

 岡島の脳裏に誰かが話し掛ける。

 ――僕たちは、一粒の砂です。宇宙の完璧な円のなかで待ち続ければいい。僕たちが輝きだすときまで。

 岡島は懐かしい声に微笑んだ。彼は高校生の時に出会った友人で、岡島に詩や文学を教えてくれた。彼の問いかけは、いまも心に刻まれている。

 ――きみは、アベルのように殺されるか。それともカインのように弟を殺してでも生きたいか。自分がよりよく生きるために、殺人は許されると思うか。

 彼は父親を殺し、庭に埋めた。いまも警察には捕まらず、どこかでひっそりと生きている。今回の事件の全容を知ったら、彼は何て言うだろう。

「俺たちは、一粒の砂だ」

 岡島の呟きは、低いエンジン音にかき消された。岡島を乗せた警察車両はゆっくりと走り出し、夜の闇はよりいっそう濃くなっていった。

 

   12月29日水曜日

 

 光が水面(みなも)をゆらゆらと揺蕩(たゆた)っていた。よく晴れた空に、白い雲が綿飴のようにふわりと浮かんでいる。桐生は、北村の車で秩父湖に来ていた。大洞川(だいどうがわ)吊り橋の真ん中で、北村と湖面を眺めていた。

「白石夏希の遺体は、どこかの山奥に埋めたんだろうな」

 北村はシャッターを切ると、カメラから顔を離した。

「わかないことがまだたくさんあります。だからさ、来年になったら拘置所に面会に行ってこようかなって考えます」

 鞄から缶コーヒーを二本取り出し、一本を北村に渡した。

「桐生君は見かけよりずっとタフだな。頭を殴られたんだろ? もう腫れは引いたのか」

 北村は桐生の頭部を見ている。二十四日の夜、桐生は病院へ運ばれた。一通り検査を受け、右側頭部に瘤ができている以外、異常はなかった。それでも赤石から三日間の休養を与えられ取材から離れていた。

「触るとまだ痛いけど、大丈夫です。でも、どうして僕が岡島に拉致されたってわかったんですか」

「富士原君が警察の取り調べを受けてるって記事が出た日があったの、覚えてるかい?」

 北村はスマートフォンを鞄にしまい、缶の蓋を開けた。かすかに湯気が立ち上る。空気は冷たいが澄んでいた。

「『週刊ピリオド』の速報ですね。あのときは赤石さんに呼ばれて冷や汗かきましたよ」

「あのとき、桐生君が言ってただろ。〃犯人は、どうして僕たちが第一発見者だって知ってるのか〃って。俺も警察サイドで情報が漏れてるんだと思ったが、もう一つ可能性があることに気づいたんだ」

「……漏れてるのは、編集部からだってことですか」

「ああ。それで、二十四日に桐生君と一緒にいたのは誰かって考えたんだ。事件に最初から関わっていて、すべての犯行が可能な人物として岡島を疑った。あとは警察が調べてくれた」

 北村はハーフコートの内ポケットからマルボロのボックスを掴み出した。一本口にくわえた。銀のジッポーで火を点(つ)ける。

「北村さんて、煙草吸うんですか」

 桐生の問い掛けに、北村はゆっくりと煙を吐き出した。

「一年で三本だけ、吸っていいことにしてるんだ。桐生君も吸ってみるか」

 北村は煙草を口の端にくわえたまま、ボックスを差し出した。桐生は首を振る。

「煙草を吸うと、毛細血管が収縮するんです。僕の場合、指先の感覚が麻痺してくるから吸わないことにしてます。この説明をすると、喫煙者はみんな嫌な顔をするけど」

 桐生は鞄に入れてあったキャラメルを取り出し、口に放り込んだ。ブラックコーヒーにキャラメルはよく合う。

「面会、北村さんも一緒に行きますか」

「来年のことはまだ考えたくない」

 北村は煙を細く時間をかけて吐きながら、水面を眺めている。

「僕が連れ込まれた家は、自宅とは別に岡島が借りてたのかな」

「あの家は、岡島の祖父のものだったらしい。今年の初めに亡くなり、空き家になっていたそうだ。アラスカから帰国した岡島は家の片付けと管理をすると申し出て、好きに使ってたようだな」

 煙草の先端に灰が溜まっていた。北村はコートのポケットから銀の小さなケースを取り出し、灰を落とした。

「岡島のお父さんは医者で、優秀なお兄さんだけに期待を掛けてたって言ってたよ。岡島にはお兄さんと違う才能があることを、お父さんは気づいてたんじゃないかな。だから岡島のやりたいようにさせてただけかもしれない。でも岡島は、期待されてないから自由を与えられていると感じてたんだ」

 岡島はアラスカでカメラマンとして生計を立てていた。誰にでもできることじゃない。南米で撮ったというモルフォ蝶の写真が脳裏に浮かぶ。白い空に煌めきを放つ蝶は、夏希の歌のタイトルとなったメネラウスだったのかもしれない。

 桐生はすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。気温が下がり始めている。あと二日で新しい年になる。黒い鳥は、はるか彼方へ飛び去っていた。

 

 

 

 

 

【参考文献・ウェブサイト】

ウィリアム・G・グレイ 葛原賢二訳 秋端勉監修『カバラ魔術の実践』一九九六年、国書刊行会

小野一光『冷酷 座間9人殺人事件』二〇二一年、幻冬社

ジョン・ギルモア『切断 ブラック・ダリア殺人事件の真実』一九九五年、翔泳社

上野正彦『死体の嘘』二〇〇一年、アスキー

ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』二〇〇一年、岩波現代文庫

ニーチェ 手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』一九七八年、中央公論社

ドストエフスキー 原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』一九七八年、新潮文庫

藤原章生『ぶらっとヒマラヤ』二〇二一年、毎日新聞出版

『奥多摩ハイキング案内』二〇二二年、山と渓谷社

越智啓太・桐生正幸『テキスト司法・犯罪心理学』二〇一七年、北大路書房

福島章『犯罪心理学入門』一九八二年、中公新書

ウィリアム・ブレイク 寿岳文章訳『ブレイク詩集』二〇一三年、岩波文庫

レノア・テア 吉田利子訳『記憶を消す子供たち』一九九五年、草思社

『U2ファイル』二〇〇五年、シンコーミュージック・エンタテインメント

『日本異界図典』二〇二一年、GB

福島章『殺人という病い』二〇〇三年、金剛出版

コリン・ウィルソン+ドナルド・シーマン 関口篤訳『現代殺人百科』二〇〇四年、青土社

モーリーン・キャラハン 村井理子訳『捕食者』二〇二一年、亜紀書房

ピーター・ヴロンスキー 松田和也訳『シリアルキラーズ・女性編』二〇一七年、青土社

パウル・ツェラン 飯吉光夫訳『閾から閾へ』一九九五年、思潮社

ブライアン・マスターズ 桃井健司訳『死体と暮らすひとりの部屋』一九九七年、草思社

 

 

『冒険する長崎』http://boken.nagasaki.jp/spot/boken411.html

『七大陸最高峰~マッキンリー~(北アメリカ)』

https://www.noguchi-ken.com/M/1993/06/post-344.html

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?