嫌われる勇気、気になった部分メモ。

今更のアドラー、嫌われる勇気メモです。

・原因論ではなく目的論
→「不安だから外に出られない」ではなく、「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考える。
→感情に支配されずに生きる。過去にトラウマがあるために、自分は●●できない、とは考えない。「人は変われる」を前提に考える。

大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。

●●をしないことによって、「やればできる」という可能性を残しておきたい。「もしも●●だったら」と可能性のなかに生きているうちは変わることなどできない。

可能性という逃げ道、タラレバを言い訳に、自分ができない理由を正当化する。現状をしっかり見ようとしない、本当は、変わりたくない、という自分があるのでは?

これは強く共感します。
できない理由、というのは、やらないことによって、「やればできる」という自分の可能性を残し続けたい、というのが本心(思い当たる節あり)

陽明学の知行合一にもあるように、知っていることとやっていることは同じであり、知っているけどやらない、というのは知らないことと同じですね。

「見かけの因果律」
本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。

学歴が低いから成功できない、のではなく、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のだと考えなければならない。

全ての悩みは対人関係の悩みである。というアドラーが目標として掲げる「人生のタスク」とは。

行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標が、
①「わたしには能力がある」という意識
②「人々はわたしの仲間である」という意識

ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係、それが人生のタスク、と言っています。

対人関係の悩みを解消する1つとして、他者の課題を切り捨てることを推奨しています。承認欲求を自体を否定しています。

承認欲求は、他者から承認されることによって自分の価値を実感する。その他者からの承認、というのは褒められるとか、イイネを押されるとかなのですが、それだけに価値を感じてしまうと「他者の期待を満たすために生きている」ということになりかねない。ということです。

自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか。ーユダヤ教の教えの1つ

ここで「課題の分離」という考え方を知る必要があります。

「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があり、他者の課題には踏み込まない。ことが必要です。

そして、誰の課題かを見分ける方法は、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えればわかります。
子供に勉強をさせるというのは、最終的に結果を引き受けるのは子供であるため、子供の課題となる。親の課題ではない。
ただ、放任主義を推奨するものではなく、勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もし本人が勉強したいと思った時にはいつでも援助する用意があることを伝えておく。けれども子供の課題に土足で踏み込むことはしない。

介入はしないが、援助はする。
「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない」
自分を変えることができるのは、自分しかいない。

老子の言葉に「無為自然」という言葉があり、この解釈を東洋思想研究家の田口先生は、「(小さい子供が立ってあるくのを)緊張感を持って見守るようなこと」と言っていましたが、通ずるものがあります。

親子関係では、もう大人になったのに、「あなたの為だから」というように干渉してくる親も多いと思います。これは、誰の課題かを認識できていないのだろうし、お互いにとって良い関係とは思えません。こういった学びは大人になった子供に対しても干渉してくるような親にこそ読んでもらいたいと思います。
また、ほめるという行為には、「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。つまり横の関係ではなく、縦の関係になっています。

まずは、誰の課題なのか?を考えて、課題を分離する。その上で、
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない。
というアプローチが重要です。

課題の分離のあとは、自由について論じています。

本当の自由とは何か?
他者から嫌われたくはない、と思うのは自然な欲望であり、カントはそれを「傾向性」と呼んでいます。
それらの本能的な欲望や、衝動的な欲望の赴くままに生きるのが自由か?いや違う。それでは、欲望や衝動の奴隷でしかない。こういった傾向性に抗い、自らの方針に従って生きていることが自由だ、と言います。

そこから、「自由とは、他者から嫌われることである」と言っていますが、ここは気をつけないといけない点だと感じました。

この「自分の方針に従って生きる」というのは、自分を律して生きるということや、自分の確固たる信念や志に基づいて生きる、ということであり、それがあれば、他人に嫌われようが問題ないと思います。
ただ、この自分の信念や志、原則といったものをしっかり持つことは非常に難しいことで、人生を掛けて学び続けて行くようなものだと思います。

それらを持たずに、表面上での「嫌われる勇気」とか、自分の意見を押し通す、などをしてしまうと、薄っぺらい嫌なヤツ、で終わってしまいそうなので、ここの根幹部分(信念、志、使命、原則)をしっかり鍛える必要がありますね。

自己肯定ではなく、自己受容。

共同体感覚が必要で、具体的には、自己への執着(Self interest)を他者への関心(Social interest)に切り替えて、共同体感覚を持つこと。そこで必要になるのが、「自己受容」「他者信頼」そして「他者貢献」の3つ。

まず、自分を受け入れる。自分が●●ができる!という鼓舞ではなく、今の自分を受け入れる、肯定的なあきらめ、とも言っています。

そして受け入れたあとは、他者を信頼します。
誰かを無条件に信頼したところで裏切られる、と思っていても、裏切るか裏切らないかを決めるのは他者であり、それは他者の課題である。と。
ただ、自分がどうするか?だけを考えれば良い。相手は関係ない。

自己受容ができれば、他者信頼もしやすくなります。
そして、その後に他者貢献があります。

他者が仲間であれば、そこに対する貢献も見返りを求めるようなものではなく、純粋な貢献ができるはずで、他者がわたしになにをしてくれるかではなく、私が他者になにをできるかを考え実践していきたい。というもの。

行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標が、
①「わたしには能力がある」という意識
②「人々はわたしの仲間である」という意識

こちらの「自立すること」と「わたしには能力があるという意識」は自己受容に関する話で、「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である」というのは、他者信頼に繋がり、他者貢献に繋がっていきます。

そしてアドラー心理学では、人生を登山のように考え、自らの生を「線」でとらえる考え方ではなく、人生は点の連続だとする考え方。人生とは、連続する刹那であり、われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。と言っています。

刹那主義や享楽主義ではなく、いま、ここを真剣に丁寧に生きて行くことであり、人生における最大の嘘は、「いま、ここ」を生きないことです。

そして最後に、アドラーの「人はなんのために生きるのか?」「人生の意味とは何か?」に対しての答えは「一般的な人生の意味はない」です。そしてその後に、「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。

そして、自分自身で決める人生の意味は、他者の人生を生きず、他者から嫌われることを恐れず、「自由」に「幸福」に生きたい。
そして、そうなるための大きな指針は、他者への貢献である、と。

いま、ここ、を真剣に生き、その上空に他者貢献というものを見失わずに生きていけば、自由で幸福になるというのが、アドラー心理学の考え方。

これはとても面白かったです。
いま、ここをしっかり生きる、他者への貢献、といったものは他の自己啓発系でもよく出てくる言葉です。ただ、僕が好きなのは、「人生に意味なんてない、その人生の意味は自分自身で与えるものであり、自由で幸福に生きたいと思うなら、いま、ここを真剣に丁寧に生きて他者貢献しましょう」という一連の流れが非常にしっくりきて、自分の中に腹落ちしました。

まだまだ一読しただけなので、深み部分などは得られていないですが、しっかりと読み、自分なりに解釈し、実践していきたいと思います。

自由というものは非常に重いもので、自由には責任がつきますし、それを自分で引き受ける覚悟というものが必要です。それを改めて感じました。

私たちは世界という作品の制作に集合的に関わるアーティストであり、であるからこそ、この世界をどのようにしたいかというヴィジョンを持って、毎日の生活を送るべきだ。ーヨーゼフ・ボイス(現代アーティスト)



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