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「世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない」読書メモ

蔦屋書店でフラッと買った本ですが、思いのほか面白かったです。
こういった本好きですが、科学的な視点から幸福とかを見るのではなく、哲学的な視点から人生の意味を考えていくようなもので、納得する部分が多かったです。

そもそも、なぜ人生の意味、幸福といったものを求めるのようになったのでしょうか?
僕自身幸福とは?といった本は好きで、とりあえず読むようにしているのですが、じゃあ今が不幸なのか?と考えるとそういうわけではないし、生活の満足度は足りているし、、、一方でなぜ生きるのか?、それこそ人はどこから来てどこへいくのか?とか考えると、人生の意味とは?というところに行き着きます。ある意味、そういったことを考える余裕があるというのは贅沢な悩みなのだとも思います。

ティム・クレイダーは「忙しさの罠」に喜んでかかる人が多い、と言っています。

忙しさは、私たちに実存的な安心感を与えてくれる。忙しくしていれば、虚しさを感じにくいからだ。忙しさが続く限り、つねに予定が詰まっていて、一日中、なにかしらすることがある限り、人生はバカげたものにも、取るに足りないものにも、無意味なものにもなりようがない。

この人生の意味を考えていく上で、科学の発展が大きい影響を与えたのは間違いありません。科学によって、宇宙の存在が少しずつ解明されてくると、146億年の歴史があり、その中で人類の歴史は一瞬のものですし、その視点から人生の意味を考えてしまうと、人間の存在意義などない。という結論になってしまいます。

超自然的な「宇宙の意思」「サムシンググレート」といったものを信じるのであれば、別ですが、分かっている事実のみから考えると、人類共通の存在意義は見出せません。

そういったことを知ってしまった。というのが現代です。

私たちは人生に意味を必要としているが、宇宙はなかなかそれを与えたがらないため、対立が生じている。ートッド・メイ
宇宙がどれほど大きいか、その歴史がどれほど長いか、それに比べて私たちの存在はどれほど小さく、生きる時間はどれほど短いかをよくわかっているのだ。

まずは、「人類共通の人生の意味などない」というのを一度結論づけます。
その上で、「普遍的な人生の意味はないが、自分自身で人生の意味を作っていくことはできる」というのが本書の主な内容だと感じます。

歴史を紐解きながら、それについて話していきます。

まず、科学革命の前の長い間、人類は「神」の存在によって社会を維持していました。「神の思し召し」といったような、我々人類の裏側には大きな神の存在がありました(主に一神教を指しているような感じです)

そこでは、神の作った大きな物語があり、神から与えられた役割があったので、人生の意味は何かしらある、それを見つけるだけ。というものでした。

何かの権威が生きる目的を与えてくれれば、喜んでその目的に走って生きる。

神という完全な存在が人類を作り、人類には役割を与えている、死後に天国にいけるように今を神の意思に沿って生きる。という大きな物語の上では、「人生の意味とは?」といったこと自体を考えることが「は?何言ってんの?バカなの?」というような世界だったのでしょう。

科学も元々は神の存在を証明するために研究を始めたそうです。ただ、その結果、神の不在を証明してしまった、、、

神がいないとしたら、今の苦しみはなんなのか?何を拠り所にして生きていけばよいのか?ということになります。

その結果、「幸福」というものを追い求めていくようになります。
今までは現世で苦しくても天国に行ける、というモチベーションがあったものが、天国ってないかもよ?となったら、じゃあ現世で幸福になるしかないよね。となります。

最近では企業でもCHO(チーフハピネスオフィサー)とか出てきたり、ブータンの幸福度を測る指標をフォーカスしたり、しています。

こうなると、むしろ社会が幸福を強制している、ような状況になってきます。幸福でなければいけない、幸福を目指さないといけない。と。

現代においては「今を楽しく生きる」という考えはもはや強迫観念に近いものだと言ってもいいだろう。
本来Happinessは運や偶然を意味するhapという古い言葉から派生したもの。

昔は、幸せはラッキーぐらいだったのが、幸せじゃなきゃいけないというようになった。と。

幸福も、元々は外側の状況だったのが、内面の状態の良さや、人生の全体としての良さを意味するようになってきた。
その人がどの程度幸福を感じているかで、人の良し悪しを評価する倫理観すら生まれている。

ただ、問題なのは幸福は感情であり、人によっても違うということです。さらに幸福が義務になると、それ以外は失敗?という感じにもなってしまいます。

私たちが幸福を望むのは、社会が私たちに幸福になれと指示するから、ということだ。

日本を始めとした先進国は、経済成長をすることで、生活の満足度を上げ、生活を豊かにして、その結果、国民が幸福になる、という絵を描いていたのだと思います、幸福のための経済成長。

でも、ここまで経済成長しても幸福度はあまり上がっていない、むしろ格差拡大などで下がっている、というのが今、ですが、それは資本主義の無限の成長というパワーにやられているのでしょうが、今回は資本主義は置いておきます。

経済成長すれば生活も豊かになって、幸福になる。というシナリオが崩れ始めると、じゃあ人生の意味って?と人生に意味を求めるようになってきますが、それがまさに最近の先進国の状況ではないでしょうか。だから僕もそんな本が好きだったりするのでしょう。

そして、普遍的な、人類共通の生きる意味はない、という結論になってしまっており、神の不在を信じるならば、意味は外側からは与えられません。

人生の意味を自らが作り出さないといけない、ということになります。

そもそも人生に意味って必要?というそもそも論もありますが、ざっくり説明すると、人類は脳が大きくなって2足歩行になり、進化してきました。
脳が大きくなりユヴァル・ノア・ハラリ(サピエンス全史著者)が言う認知革命がおきます。そうなると、内省できるようになります。未来に想いを馳せたり、過去を振り返って反省できたりします。そうして振り返ったりすると、自分の行動を正当化する必要が出てきます、それに対する答えが昔は神であったのですが、それがなくなってしまった現代、神に代わる満足できる答えが必要になります。そこで、人生の意味とは?というのを考え、納得していかないと前に進めないという人が増えてしまった。と。

自分の選択に従って人生を生きるには、自分で船を操縦するには、そもそも自分がどの方向に行きたいのかを知っている必要がある。
歴史上にも、人生の不条理に直面し、自分の存在の小ささを受け入れたことではじめて自らを解放でき、人生に確かな意味を見つけることができた、という人も大勢いる。
人は自分で望んで生まれてくるわけではない。誰かの許しを得て生まれてくる人もいない。誰もが、人生のマニュアルなど持たないまま、気づいたらこの世界にいて、限られた時間の中でなにか意味のあることをするように求められる。

自分で人生の意味を作り出さなければなくなった現代、ではどうやっていくのが良いのか、それは自分次第、とかなってしまうと(最終的には自分次第なのですが)モヤっとしてしまうので、それに対するヒントなども多く書かれています。

では、人生の意味とは幸福になることだ。とした場合はどうなるのか?
それは結構大変だよ、という感じです。

なぜなら、

人は誰もが幸福になる必要がある、という考え方が社会の中で優勢になると、不幸な時、それに耐えて生きることが難しくなってしまう。
人間は常に幸福でいなくてはいけないのに、不幸になった自分は失敗した人間、ダメな人間だという意識を持つことになる。
無限に幸福を求めてしまう。
これは、いつも片足をドアの外に出しているようなもの。

結局、無限の幸福欲求などだと、単なる感情のはずの幸福が、他人との比較や、追い求め続けて結局疲弊などになってしまう。ということです、さらに、

現代で幸福を目的にせずに生きるのは容易ではない。「人間は幸福になるべきだ」というメッセージが社会にあふれているからだ。CMなどの「この商品を買えば幸福になれますよ」というニセ預言者だらけ。

こういうことです。
しっかり自分の中で消化せずに「幸福」というものを追い求めてしまうと

もっと幸せになりたいと思うあまりに、人生において大切なものを犠牲にしてはならない。幸福とは単なる感情であり、それ以上のものではない。

こうなってしまいますし、現代の人は「ヘドニック・トレッドミル」にかかってしまっていると著者は言います。

「ヘドニック・トレッドミル」
つねに今よりもう少しお金が、物が手に入れば、それで幸せになれると思っていて、いつまでも本当に満足することはないという状態。

隣の芝生はいつまでも青く、幸せの青い鳥を追い求め続けてしまいます。

そのため、著者は「幸せを追い求めるのではなく、自分の人生の意味を自分で考え、それに向かって生きる」ことを勧めています。

「選択のパラドックス」
選択の幅が広いことを良しとするが、選択肢が増えすぎると幸福感は減る。
「満足化」
ある程度以上よいと思えるものが1つ見つかったら、即それを選ぶ。
それ以降は検討せず先へ進む。
細かく検討するとストレスも溜まるし、不満や後悔が大きくなる、エネルギーも無駄遣いする。
今や大産業になった広告産業はただ1つの目的のために動いている。それは人々に「今の生活は間違っている」と感じさせることだ。
大量消費主義は、人々が今の自分の生活に満足し、「もう何もいらない。もう欲しいものは全部持っているから」と言い始めた時に終わってしまう。

先進国になった日本で、少子高齢化などで先取りしている日本では、世界に先駆けてこれからの暮らしを提示していける立場にあると思います。

自分の心の中に確固たる指針、価値観、人生の目標をしっかり持っていないと、広告だらけの社会に振り回されずに生きることは難しいだろう。

こういったリテラシーを持ち、自分の人生を主体的に生きているのか?振り回されていないのか?を立ち止まって考えるのはとても大事だと感じます。

で、人生の意味を持つのにおすすめの方法としていろいろありますが、主に自己決定理論を述べています。

人間がつねに成長し、満足し、幸福でい続けるのに欠かすことのできない心の栄養。それが、基礎的な心理的欲求。
①自律への欲求(自分自身の人生の作者になりたいという欲求)
②能力への欲求(自分の能力に自信を持ちたいという欲求)
③関係への欲求(他人とつながりたい、他人を世話したい、他人に世話をされたい)

ここに1つの「慈善への欲求」も付け足して、その4つを充実させていくと人生の意味を感じやすいよ、と述べています。
自分の能力を高め、自己実現を目指しながら、他者との繋がりがあると、人生に意味を感じやすいとかです。

その上で、大袈裟なことをしなくてもそういった欲求は感じられるので、自分にできる範囲でやっていくことが大事で(誰も偉人のようにはなれない)、人生をプロジェクトのように生きるのではなく、物語のように生きようと言っています。

とても賛同できる内容も多く、よかったです。

ここで他者貢献や慈善への欲求など、わかっちゃいるけどなかなかできないという人には、「世界は贈与でできている」がお勧めです。
自分がいろいろ受け取ってしまっている、という健全な負債感があると、それを返すために行動したい、と思えます。

以下は良いと思ったフレーズの抜粋です。

人の生は、愛情、友情、怒り、同情などを通じ、他者に価値を与えることによってのみ価値を持つ。ーボーヴォワール
「人を喜ばせることと、人を助けることの間には大きな違いがある」
自分が本当に助けたいと思う人だけをよく考えて選んで助けるのと、強制的に助けさせられるのでは全然違う。主体的にそうすることが大事。
自分が本当に自分らしく生きられているかどうかを決められるのは、自分自身だけ。
自立した人間の人生には、数字などで測ることのできない、他と比較することもできない、無限の価値と、高い品位がある。ーローレンス・ベッカー
刺激と反応の間には、空間がある。
その空間にあるのは、反応を選択する能力だ。
その反応によって私たちは成長するし、そこに私たちの自由がある。
ースティーブン・コヴィー
「人生の意味とは、自分にとって意味あることをして(自己充足感を得る)、同時に、自分を他人にとって意味ある存在にすること(他人に貢献する)」ー著者主観
人生にどのくらいの意味を感じればよしとするのかは、その人次第。
どの程度、自分に正直でいられれば、どの程度の能力を持てれば、どの程度、他人と良好な関係ができれば、どの程度、他人に貢献できれば、人生に意味があると言えるのか、その基準は自分で設定するしかない。
人生は物語だ。
その人が目撃、遭遇、体験したこと、その人が表現したことでできている、その人だけのものだ。人生でなにが起きたとしても、良いことも悪いことも、自分で選んだことも、外から与えられたこともすべてが物語の一部となる。
この瞬間そのものを豊かにするべく努力をすること。ージョン・デューイ

おすすめの本「世界は贈与でできている」メモです。


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