「人新世の『資本論』」読書メモ

斎藤幸平さんの新刊の読書メモです。
今朝のサンデーモーニングの「風をよむ」にも出てましたね。

「SDGsは『大衆のアヘン』である」
という刺激の強い言葉から始まります。

SDGsを否定しているのではなく、温暖化対策のためにエコバッグを持つ、マイボトルを持つ、そんなものでは全然間に合わないので、そこに逃げ込まずに現実を直視する必要がある。とのことです。

かつてマルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。アヘンに逃げ込むことなく、直視しなければならない現実は、私たち人間が地球のあり方を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということだ。
人類の経済活動が地球に与えた影響があまりにも大きいため、ノーベル科学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世(ひとしんせい)」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした年代という意味である。

そしてこの気候変動の原因を遡ると、資本主義に行き着く。それをどう乗り越えていくのか?マルクスの資本論を参照にしながら読み解いていく本です。

第一章 気候変動と帝国的生活様式

この気候変動の大きな要因は富裕層の帝国的生活様式です。
日本で生活している大多数の人はこの帝国的生活様式に入りますし、かといってその生活を捨てて過去に戻れと言っているわけではなく、まずは現実を認識する。ということです。

この帝国的生活様式とは、先進国による大量生産・大量消費型の生活のことです。この豊かな生活を実現してくれる社会は、その裏では新興国、後進国の地域や社会集団から収奪し、私たちの豊かな代償を押し付ける構造があります。

問題はこのような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである。

なぜ私たちが、あれだけ安くファストファッションを買えているのか?牛丼があれだけ安いのか?何気なく飲んでいるコーヒーや、日々使っている商品を一番下で支えているのは、多くはグローバル・サウスの人々からの収奪の結果です。薄々気づいてはいるけど、見ないフリをしている、気づかないフリをしている、というのが僕も含めた多くの人ではないでしょうか。
そしてこれらの事実は見えないように不可視化されています。

資本主義は、「中核」と「周辺」で構成されている。グローバルサウスという周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。労働力の「不等価交換」によって、先進国の「過剰発展」と周辺国の「過小発展」を引き起こしている、とウォーラステインは考えたのだった。

そしてグローバルに広がっていった資本主義は、もう搾取するものがなくなるところまで広がっていきました。しかし資本蓄積と経済成長を際限なく行う資本主義は、人間の労働力だけではなく「地球環境全体からの収奪」も始め、いまや地球環境が危機的な状況になっています、それは当然の帰結だと著者は言っています。

ファストフードでよく使うパーム油はアジアの熱帯雨林の破壊で作られていたり、アマゾンの開発による森林火災や、大規模農作物を作るための大量の地下水の吸い上げなど、地球環境から収奪し、その転嫁されたものは一番弱い人たちが最初に被害を受け、最近ではそれが私たちにも及ぶようになっています。(オーストラリアやカルフォルニアの山火事、ヨーロッパの熱波、日本でのスーパー台風による被害など)

そして、安価な労働力と、安価な自然を収奪し尽くしつつあるのが現代です。有限である地球を、無限かのように使い尽くしてきた限界が今です。

ここには、資本の力では克服できない限界が存在する。資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。外部を使いつくすと、今までのやり方はうまくいかなくなる。危機が始まるのだ。これが「人新世」の危機の本質である。

という現実をまずには認識した上で、それではどうしていったら良いのか?について進んでいきます。

第二章 気候ケインズ主義の限界

結局地球はひとつしかなくすべてはつながっている。外部化や転嫁が困難になると、最終的に、そのツケは、自分たちのところへと戻ってくる。

マイクロプラスチックが魚を通じて私たちの生活に戻ってきていたり(毎週クレジットカード1枚分のプラスチックを食べている、とか、、、)、山火事や台風、熱波などもです。

もう限界だ!というのは先進国もわかっていて、その中で盛り上がっているのが、「グリーン・ニューディール」という政策です。

グリーン・ニューディールは、再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資を行う。そうやって安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す。好景気が、さらなる投資を生み、持続可能な緑の経済を加速させると期待するのだ。

それ、ええやん。と思う内容です。

ただ、それは無理だと著者は説明します。
緑の経済成長によって、もちろん良くなるが、経済成長は進むため、果たしてそれに地球が耐えられるのか?プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)を超えないだろうか?技術革新で乗り越えられるのか?というものです。技術革新の進歩のスピードでは地球の限界までの時間に間に合わないということです。

無理な理由が下記の2つの罠にあります。

①経済成長の罠
経済成長が順調であればあるほど、経済活動の規模が大きくなる。それに伴って資源消費量が増大するため、二酸化炭素排出量の削減が困難になっていくというジレンマ。100年後に排出量ゼロは技術的に可能だろうが、それでは遅すぎる。
②生産性の罠
資本主義はコストカットのために、労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がれば、より少ない人数で今までと同じ量の生産物を作ることができる。その場合、経済規模が同じままなら失業者が生まれてしまう。だが資本主義のもとでは、失業者たちは生活していくことができないし、失業率が高いことを政治家たちは嫌う。そのため、雇用を守るために、絶えず、経済規模を拡張していくような強い圧力がかかる。こうして、生産性を上げると、経済規模を拡大せざるを得なくなる。
資本主義は「生産性の罠」から抜け出せず、経済成長を諦めることができない。そうすると今度は、気候変動対策をしようにも資源消費量が増大する「経済成長の罠」にはまってしまう。

そのため、著者は技術革新やグリーンニューディールによって気候変動危機を乗り越えようとする「気候ケインズ主義」ではこの危機は乗り越えられないと主張しています。

2019年には1万人を超える科学者たちが「気候変動は、裕福な生活様式の過剰消費と密接に結びついている」ことを訴え、既存の経済メカニズムから抜本的に転換する必要性を唱えたのだ。

もちろんプライベートジェットやスポーツカーを乗り回し大豪邸を何軒も持っているような大富豪は深刻な負荷を環境に与えています。かといって日本に暮らす私たちも世界全体で見ると富裕層の上位に入りますし、帝国的生活様式を享受しているので、これは抜本的に変えていけないと気候変動には立ち向かえないと指摘しています。

グリーン・ニューディールが本当に目指すべきは、破局につながる経済成長ではなく、経済のスケールダウンとスローダウンなのである。

技術革新で乗り越えられないとしたら、その変化に「適応」するしかないのかもしれないですが、それはもう気候変動を止めるのを諦める、ということになってしまうので、まだ他にやれることはないか?それには、「脱成長」という道を選ぶことはできないか(間に合わないかもしれないけど)、とつながってきます。

「緑の経済成長」という現実逃避をやめるなら、多くの厳しい選択が待っている。

第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ

「人新世」の時代にどんな脱成長が必要なのか?で最初に出てくるのがラワースのドーナツ経済です。

政治経済学者のケイト・ラワースのドーナツ経済

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出発点は「地球の生態学的限界の中で、どのレベルまでの経済発展であれば、人類全員の繁栄が可能になるのか」という問いであり、その問いに答えるために用いる概念が「ドーナツ経済」である。

この社会的な土台と環境的な上限の間にできるだけ多くの人々が入るグローバルな経済システムを設計できれば、持続可能で公正な社会を実現することができる。という考えです。

脱成長をして、気候変動に対して公正でできるだけ平等な社会が作れれば良いのですが、資本主義システムのもとではそれは難しいと説明しています。

資本主義とは、価値増殖資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境の負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。

問題はこの資本主義が「際限のない」運動であることです。この際限のない経済成長が、現在の気候変動の危機の根底であり、この資本主義のシステムのままではこの危機は乗り越えられない、と指摘します。

ただ、現在のシステムは経済成長を前提にした制度設計のため、その社会で成長が止まれば悲惨な事態になり、そのしわ寄せはより弱い人に行きます。
なぜ、これほど資本主義が発展しているのに、先進国で暮らす大多数の人々が依然として「貧しい」のだろうか。という疑問が出てきます。

家賃、携帯電話代、交通費と飲み会代を払ったら、給料はあっという間になくなる。必死に、食費、服代や交際費を切り詰める。それでも生活を維持するギリギリの低賃金で、学生ローンや住宅ローンを抱えて、毎日真面目に働いている。これこそ、清貧でなくて何なのか?
いったいあとどれぐらい経済成長すれば、人々は豊かになるのだろうか?経済成長を目指して「痛みを伴う」構造改革や量的緩和を行いながら、労働分配率は低下し、格差は拡大し続けているではないか。そして、経済成長はいつまで自然を犠牲にし続けるのだろうか。

この著者の言葉にはとても共感します。経済成長をすれば幸せになれるという物語を信じて、経済大国までなった日本で、なぜこれだけ大変な人が多いのか、まだ格差は広がりそうで、その先には何があるのか?やはり資本主義のシステムの限界がきているのではないか、というのは強く思います。

今日の日経新聞にも「中間層の経済的余裕、東京は42位」という記事がありました。東京は家賃や物価が高いから経済的余裕は低いという内容です。富裕層は快適だけど、それ以外の人にはますます住みにくい都市になっていくのでしょうし、加速していく気がします。

やはり、資本主義に対しては大きく考えるタイミングなのだと思います。

ただ、「脱成長」というと、「停滞」や「衰退」といった否定的なイメージや、資本主義の中での議論になってしまい、じゃあ社会主義や共産主義に戻るのか、といった極端な話になってしまいがちです。そのため、資本主義の行き過ぎた新自由主義を制御し、ゆっくりと長期的に資本主義を持続させるために、成長を抑制していく、という議論になってきますが、筆者はその資本主義に挑もうと記載しています。

資本主義は経済成長が人々の繁栄をもたらすとして、私たちの社会はGDPの増大を目指してきた。だが、万人にとっての繁栄はいまだ訪れていない。
資本主義と脱成長の折衷というのもダメで、やはり資本主義に挑まなくてはならない、というのが新しい脱成長論の立場なのである。
資本主義の矛盾の外部化や転嫁はやめよう。資源の収奪もなくそう。企業利益の優先をやめて、労働者や消費者の幸福に重きを置こう。市場規模も、持続可能な水準まで縮小しよう。(旧来の脱成長派)
これは確かにお手軽な「脱成長資本主義」に違いない。だが、ここでの問題は、利潤追求も市場拡大も、外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も、資本主義の本質だということだ。それを全部やめて減速しろというのは、事実上、資本主義をやめろと言っているのに等しい。

いわゆる近代資本主義が始まったのを産業革命とすると、この300年ぐらいで人類全体の環境は劇的に良くなったと思います。貧困は減り、教育環境も良くなり、戦争での死者も減り、健康状況は改善し、平均寿命も伸びた。その資本主義の果実を一番享受してきたのが、先進国であり、その中には日本もいます。

そしてここまで豊かになってきた一方で、地球環境の限界を少しづつ実感し、さらにこのまま経済成長を続けてもその先に幸せはあるのだろうか?多くの人の犠牲や環境の収奪の上に成り立つ豊かさとは?という疑問が多くの人にあるのが今だと感じます。

こういった疑問に対して正対して、資本主義を乗り越えていくという著者の主張にはとても共感しますし、行動せねばと感じます。まだ30代前半ぐらいでこれだけの本を書けるってほんとすごいな、、、

第四章 「人新世」のマルクス

結構ここまででお腹いっぱいになってきた感があるので、ここからはざっくりいきます。

ここでは地球全体を「コモン」として考えることを推奨しています。
「コモン」は水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分達で民主主義的に管理することを目指すものです。

量から質への転換で相互扶助と平等を目指していく、そのためには「脱成長コミュニズム」が良いのではないか、というものです。

第五章 加速主義という現実逃避

コミュニズムにも様々あります。

例えば、加速主義といった、持続可能な成長を追い求めるものもそうです。
資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては完全に持続可能な経済成長が可能になる、という主張をする人もいます。

また、エコ近代主義もあります。これは、原子力な革新的な技術を徹底的に使って、地球を「管理運用」しようとする主張です。

また一時流行った「ロハス」も消費面だけで持続可能性を目指し、失敗しています。消費者意識のレベルの変化では、成長を目指し続ける商品経済にいとも簡単に飲み込まれてしまう、これをマルクスの概念では「包摂」と言います。私たちの生活は資本によって「包摂」され、無力になっている、との指摘です。

そして「脱成長」というものを考えていく上で大事なもう1つが「潤沢さ」です。

本当に資本主義に挑もうとするなら、「潤沢さ」を資本主義の消費主義とは相容れない形で再定義しなくてはならない。これまで通りの生活を続けるべく、指数関数的な技術発展の可能性にかけるのではなく、生活そのものを変え、そのなかに新しい潤沢さを見出すべきなのである。つまり、経済成長と潤沢さを結びつけるのをやめ、脱成長と潤沢さのペアを真剣に考える必要がある。

資本主義によって、世界はより潤沢になりそうな気はしますが、実際はそうではなく格差が広がって、全員に行き渡るような潤沢さはありません。これは、資本主義こそが潤沢さではなく、希少性を生み出すシステムだからではないだろうか、と言っています。

第六章 欠乏の資本主義 潤沢なコミュニズム

こう問わなくてはいけない。99%の私たちにとって、欠乏をもたらしているのは、資本主義ではないのか、と。資本主義が発展すればするほど、私たちは貧しくなるのではないか、と。

過去に共同管理をしていたような農地から農民を締め出し、「囲い込み」を始めたことで「本源的蓄積」が始まりました。農地を囲い込むのはより高い利潤を生み出すためです。利益の高い羊の放牧地に変える、など。

潤沢であった土地を囲い込み、希少性を持たせることによって、より利潤を追求して、土地を使えなくなった農民は都市に行って賃労働を行うことになります。

私財の増大は、公富の減少によって生じる。
ーローダーデールのパラドックス
水は潤沢に存在していることが、人々にとっては望ましいし、必要でもある。そのような状態では、水は無償である、それこそが「公富」の望ましいあり方である。一方で、なんらかの方法で水の希少性を生み出すことができれば、水を商品化して、価格をつけられるようになる。人々が自由に利用できる無償の「公富」は消える。だが、水をペットボトルに詰めて売ることで、金儲けができるようになり、「私財」は増える。それによって、貨幣で計測される「国富」も増える。

現在の新自由主義での行き過ぎた資本主義が、医療や教育にも影響を及ぼしているので、生きるも死ぬも全てカネ次第みたいな世界になりかねません。世界が螺旋状に発展していくものだとすると、次は発展させたコミュニズムの時代になっていく気がします。

人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。

使用価値は何も変わらないものを、ブランド化によって「相対的希少性」を作り出します。そのことによって、人は「満たされない」という感覚が生まれ、また欲望が生まれ、それを得るために働くという循環になります。

果たして、この悪循環から逃れる道はないのだろうか。この悪循環は希少性のせいである。だから、資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を創造する必要がある。

必要なのは、脱成長のコミュニズムです。

そのためには、コモンを再建する必要があります。コモンのポイントは、人々が生産手段を自律的、水平的に共同管理する、という点です。例えば、電気はコモンであるべきです。

これは、いわゆる自助・共助・公助がある中で、ここ何十年かで弱くなっていると感じる共助について、時代に合わせてより強いものにしていく、といった感じでしょうか。

第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う

1980年代以降、新自由主義は、社会のあらゆる関係を商品化し、相互扶助の関係性を貨幣・商品関係に置き換えてきたからである。そして、そのことに私たちが慣れきってしまったため、相互扶助のノウハウも思いやりの気持ちも根こそぎにされているのである。
資本の無限の価値増殖を求める生産が、自然本来の循環過程と乖離し、最終的には、人間と自然の関係のうちに「修復不可能な亀裂」を生む。この亀裂を修復する唯一の方法は、自然の循環に合わせた生産が可能になるように、労働の領域を抜本的に変革していくことである。

その脱成長コミュニズムの柱として下記の5つを挙げています。

①使用価値経済への転換「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する。
②労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる。
③画一的な分業の廃止
画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。
④生産過程の民主化
生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。
⑤エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約方のエッセンシャル・ワークの重視を

これらをすることによって、亀裂が入ってしまった人間と自然の関係性を回復していこうとするものです。それが脱成長コミュニズムだ。と。

そして、そういったコミュニズムの萌芽はいくつか現れているとして紹介しています。一度破産したデトロイトや、オーバーツーリズムで問題になったバルセロナ、などを事例とともに紹介しています。いずれも資本主義の波にのまれ、その結果としてそこに住む人たちが一度大変な目にあっている場所です。

それらのコミュニズムの萌芽は、気候変動危機の深まりとともに、より強く出てきそうになっています、最終章でそれを紹介しています。

第八章 気候変動という「梃子(テコ)」

これは、都市の生活や技術を捨てて、農耕共同社会に戻ろうというのではなく、それを理想化するものでもありません。ただ、現在の都市の姿は問題含みで修正が必要なのも間違いない、と指摘しています。

コミュニティの相互扶助も徹底的に解体され、大量のエネルギーと資源を浪費する生活は持続可能でもないからだ。その結果、二酸化炭素排出量の約7割を占めているのは都市である。だから気候危機に立ち向かい、相互扶助を取り戻すためには、都市生活を変えなくてはならない。

そこで紹介しているのが、「フェアレス・シティ」という旗を掲げたバルセロナの気候非常事態宣言などです。他には、南アフリカの食糧主権運動、なども紹介しています。

食料は生きるために当然必要であり、「コモン」であるべきなのですが、資本主義アグリビジネスなどは先進国に食料を輸出し、そこで食料を作るために働いている人たちが飢餓に苦しむといった矛盾が起きてしまいます。そこに対して小規模生産者やNGOたちの市民が立ち上がった運動を紹介しています。

「資本主義の超克」「民主主義の刷新」「社会の脱炭素化」という三位一体のプロジェクトが重要で、それの基礎となるのが信頼相互扶助である。なぜなら、信頼と相互扶助のない社会では、非民主的トップダウンの解決策しか出てこないからだ。
ところが、新自由主義によって、相互扶助や他者への信頼が徹底的に解体された後の時代に私たちはいる。だとしたら、結局は、顔の見える関係であるコミュニティや地方自治体をベースにして信頼関係を回復していくしか道はない。

非常に大きな話で、ここまでくると、大き過ぎて自分一人ではと思ってしまいますが、著者は最後にメッセージを書いています。

ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。(中略)資本主義と気候変動の問題に本気で関心を持ち、熱心なコミットメントをしてくれる人々を3.5%集めるのは、なんだかできそうな気がしてこないだろうか。


















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