見出し画像

「自分をいかして生きる」読書メモ

働き方研究家の西村佳哲さんの著書です。

仕事とは何か、生きるとは何か、系の本は好きなのですが、この本もまた面白い本でした。

20代の頃は仕事は与えられたものをしっかりやり、その中で自分が成長したりとか、やりたいと思えるものを探していく、というような感じだったので、特に働くとは、、、生きるとか、、、などは考えもしませんでした。

夜遅くまで働き、数字を達成して、終わった後に同僚と飲みにいき、ハナキンには合コンやクラブに行き二日酔いで週末を過ごす。。シンプルで楽しかったですね。まあ、何も考えていなかったですね。

今時の20代はもっと未来のことや、社会のこと、なんなら起業家であったりと、すごいなと純粋に思ってしまいます。そんな僕も30代前半で会社を辞め、独立し、ほぼ個人規模の法人を作り、なんやかんやしているうちに気づいたら40代に突入。。。

20代当初思っていた40代とは、すでに自分の向かう方向は明確になっていて(なってなかったらやばいでしょ、とか思ってた)、経験も積み、孔子の言うところの不惑で、迷いなどない!その道を進むだけだ!ぐらいになっているのかと思っていました。

まさか「はたらかないで、たらふく食べたい」というような本を読んで感銘を受けたり、明確な夢も持たず、ふわふわと川の流れに身を任せながら過ごすような40代の始まりになるとは思っていませんでした。

まあ、これも悪くないけど。

さて、そんな中での「自分をいかして生きる」です。どう生かせるかな。

人間の一番の大仕事は「自分をいかして生きる」ことなんじゃないか?という著者の想いからのスタートです。

当たり前の話だが、定年まで勤め上げたところで、そこが上がりでもない。死ぬ瞬間まで「自分をどういかして生きてゆくか」という課題から、誰も降りることはできない。
こうしてみると、人間の仕事とは「死ぬまで自分をいかして生きる」ことのように思える。
同じく働くことはできる。ただ働くことは。でもその中に「生」の充実があるか。その仕事を通じて、自分自身が生きている実感を得られているかどうか。

この辺は、仕事をしている人で悩みつつ、共感しつつ、でも、、、という人は多いのではないかと思います。

そんな中で著者は、仕事は成果や報酬などの見えやすい部分だけではなく、その下には、技術や知識といったものがあり、さらにその下には考え方、価値観があり、ベースには「あり方」「存在」といったものがあると言っています。

スクリーンショット 2021-10-09 10.01.22

仕事をお金を稼ぐための手段と割り切るのも一案ですが、仕事を1日3時間だけでいい、などあればアリな気もしますが、人生の中で結構な時間をかけるものであるとするならば、やはりそこと自分のあり方、といったものとは分にくい気もします。

個人的には、お金をうまく資本主義のパワーを借りてある程度うまく稼いで、あり方の上に立つ仕事はぼちぼち稼げれば良い、最悪稼げなくてもいい、ぐらいの気持ちで望みたいです。

なにがしたいということより、それを通じてどんな自分でいたいとか、どう在りたいということの方が、本人の願いの中心に近いんじゃないかと思う。自由の大衆化が進んだ社会で、人間は「なんにでもなれるはずだけど、それがなんだかわからない」という不自由さを抱えている。

これも共感します。どうありたいのか?なんにでもなれるはずなのに、なんか不自由、この葛藤。

「なんのために働くのか」とは「どう生きるのが良い」といった意味や目標を、わかりやすく提示してくれる本や人や職場には引力がある。
しかし、そもそもそれは、誰か他の人間に提示してもらう類のものなんだろうか

いやー、共感!
やりがいの搾取といったことばもありますが、自分でどう生きるかというものを思考停止にしてしまうと、表層的な部分だけで仕事をしてしまうということにもなりかねない気がします。20代などは全然良いけど、いわゆる中年にもなるとこの辺は自分で決めていかないとしんどいだけになりそうです。

漫画家のいがらしみきおが、社是として事務所に掲げていた言葉を思い出す。
一、なんでもやる
一、とにかくやる
一、ほっといてくれ(笑)
なにをやりたいのかわからない、といったわからなさを抱えている人がいるんじゃないかと思う。僕自身、今も時々抱えることはある。

素敵な社是だ、、、

将来的にどこへいくか、なにになるかはわからなくても、今この瞬間瞬間の本心に従っていけば、おのずといくべきところに向かうだろうという、成り行きや流れに対する信頼が基本を成している。

無為自然ですね。今の時代、頭だけで考えるのではなく、自分がどう感じるのか、といった身体的な考えというのが足りていない感じがするので、こういったことは大事にしたいですね。大きな流れに委ねる、というような。

たとえば自分に無理を強いている人は、他人にも無理を強いる傾向があるように思えるし、人の話を聴けない人には、日頃から自分の声にも耳を傾けていないんじゃないかという印象を受ける。

なんか分かる気しますね、人に優しく、自分にも優しく、ですね。
人の声にも自分の声にも耳を傾ける。

自己肯定感を十分に持てずにいる人は、本人に対して本人がそうであるように他人にも肯定感を抱きにくく、評価的な態度を取りやすい。つい粗探しをしたり、疑いを持ったり。

確かに。

表現したいことがある人のまわりには、必ず小さなマーケットがある。
ービル・アトキンソン
仕事は、自分の課題と社会の課題が重なるところにある。

良い言葉なのでメモ。

労働や働くことをよしとする考え方は、共産主義においても資本主義においても機能した。それは都市化・数量化・産業化の流れに沿ってひろがった近代以降の価値観であって、それ以前の社会には、実はあまり見かけられないという。

この辺から最近好きなアナキズム、あらゆる支配を拒否する、相互扶助、といったものに繋がりそうな、、、余暇のようにそれ自体が目的となるような仕事は良いですが、賃労働でいやいややらざるを得ない、という働き方をしている場合は、どうやってそこから脱却するのかを考えたいですね。

働きたい!は素晴らしいことですが、働かなければならない、という状態にはできるだけ自分を置きたくないですし、そうならないものかと思います。

仕事への初々しさや意欲があれば、働く意味や価値はたちどころに生まれる。しかし本人のそれはもう希薄になっていて、それでも気持ちよく意欲的に働くために施されるメンテナンスとして、オフィスデザインや自己啓発的な社員研修、カウンセリングルームにおける傾聴などの仕事が重ねられているとしたら、それはなんというか日常化した応急処置のようだ。

自発的に働きたい中で生み出されるエネルギーはすごいものだと思うし、そうありたいとも思います。一方で、上記のようなごまかしを散りばめながら働かせようとする何か、があるのであればそこからは離脱したいですね。

今の資本主義的な社会には、その実態として高度に整った植民地のような側面があり、わたしたち人間には奴隷的な側面があると思う。
奴隷は減ったかもしれないが、奴隷的な人間は増えた。制度はなくなったかもしれないが、それは各人の思考や習慣として内面化された。

資本主義自体が拡大再生産、無限の成長を目指すようなものであるので、そこに対して私たちは自分のためにも立ち向かわないといけない気がします。資本主義の奴隷にはならない。

そのために人とのつながり、自然とのつながり、そういったものがより大事になっていくのだと思います。

関係資産は、仕事や働くことを通じて育むこともできる。互いに「いる」ことが成されるなら。逆にいうと、人間同志としての関係性を育めないような仕事や働き方には、どこか問題があるんじゃないか。
「○○したいけど難しい」という人がある。
「難しい」に力が入っている。
「難しいけど○○したい」という人がいる。
「したい」に力が入っている。

素敵なコピー。

そして著者は最後にこう締め括っています。

やらされてやるような労働は、したくないし、してほしくもない。どんな難しさがあろうと、ひとりひとりが自分を突き動かしている力、この世界に生まれてきた力を働きに変えて、つまり「自分の仕事」をすることで、社会が豊かさを得る。
そんな風景を本当に見たいし、自分もその一旦で働き、生きてゆきたい。

難しいけど、嫌なことはせず、くつろぎながら生きてゆきたい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?