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「他者の靴を履く」読書メモ

こちらの本の読書メモです。

すごいざっくり言うと、
「エンパシーは単なる感情の共感、というものではなく、意見の異なる相手を理解する知的能力であり、複雑なスキルである。また、そのエンパシーに振り回されないようにするには、あらゆる支配を否定し、自分自身を生きるといったアナキズムの考えがマッチするのではないか、それがいい」
という本。と僕は読みました。

エンパシーを感情的な共感、ということだけで考えてしまうと、同調圧力や全体主義にもなってしまう可能性すらあるし、思考停止に陥ってしまう危険性もある、と。

エンパシーとは複雑なスキルであり、まず他者の感情はあくまでも他者に属するものであることをわきまえ、他者の経験を想像するときに自分の解釈を押し付けないことが必要である。
それに加えて、他者の生活を彼らが属する集団の歴史的背景などを含めたコンテクストの中で、理解せねばならない。
エンパシーは非常に高度なタスク。

トランプ現象などはうまく感情的なエンパシーを使って勝った選挙でもある。と。あなたたち(主に白人労働者)の気持ちはわかる、リベラルエリートなどに苦しめられている、支配されている、倒すんだ!みたいに。

イギリスのサッチャー元首相などは、シンパシーはあったけど、自分と異なりすぎるひとに対する気持ちは分からなかった。など。

サッチャーは自分のそばにいない人々や自助のためのリソースを持たない人々、彼女のように強い野心を持たずに、穏やかで安定した暮らしを送りたいという庶民の願いがわからなかった。

自分の近しい人に対する思いやりや優しさはすごかったけど、あまりにも価値観が遠い人のことまでは考えられなかったのかもしれないですね。

サッチャーは自身が労働者階級からめちゃくちゃ努力をして、首相にまでなった人なので、「努力すれば夢は叶う」「為せば成る」といったのを実体験してきているので、大して努力をしたくない庶民などには思いを馳せられなかったのかもしれないですね。

結果、新自由主義を突き詰めていって、格差拡大などには繋がっていく。と。

当時は、新自由主義がどういった帰結を迎えるのかなども分からないですし、結果それで豊かになった部分もおおいにあると思うので、致し方ないとも思うのですが、イギリスやアメリカでの新自由主義の発展?とその帰結としての、分断、格差拡大、ブレグジットやトランプ現象、が出ているのに、どこかの某元首相は、「この道しかない」と言って、アメリカ追随の経済成長を目指そうとしていますが、いったいどういうことなんでしょうか。

さて、本書では、エンパシーのことを「他者の靴を履く」という表現をしていますが、いい表現ですね。

一度、他者の靴を履いてみると、その靴が合うのか、合わないのか、もわかりますし、その靴を履いた状態で物事を見ると、相手のことも理解できそうです。また、他者の靴を履き続ける必要もないので、履いてみたけどやっぱり合わなかった、というのももちろんありです。

ニーチェは他者の考えや感情を知的に理解できる人、つまり他者を観察する能力を備えた人を「客観的な人間」と呼んだ。そして「客観的な人間」は「中身のない人間」になり得る可能性があると書いている。

エンパシーの闇の部分の表現です。相手の事を理解でき、客観的になればなるほど自分を見失ってしまう危険性もある、と。共感力だけがすごく高くて中身がなくなってしまう、、、

他者の靴を履いて、自分の靴を見失ってしまったら元も子もない。

そこで、エンパシーとアナキズムを組み合わせると良いのでは?との提案です。

アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりと打ち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれないからだ。アナーキック・エンパシーのすすめ。

あらゆる支配を拒否するアナキズムは自分がしっかりしていないとできません。なので、その自分の強さをしっかり持とう、と。

自分で自分のことはなんとかする「自助」と、
誰からも支配されない「自立」は別物。

某ガースー首相も、最近は「自助」が大事といっていますが、国は面倒は見きれないので自分でなんとかしてくれよ、ということなんでしょう。自助はするけど、国の言うことは聞いてくれよ、ではやってられないですね。

じゃあ自立だ!日本からの独立だ!革命だ!などとなってもさすがにリアリティがありません。ではどうするか?

誰かの引用でこんなことを言っています。

劣位の階級に許されたある程度の自立や自治は、2つの形を取ることになった。国家の手の届かない周辺部で生活するか、国家の中にあっても小規模の財産を保持することで最低限の権利を持って生活するかである。

まず、資本主義が加速している日本では、本流は
①資本主義・能力主義社会で勝ち残るごく一部の超絶エリート
②そこで勝てなくてどんどん貧しくなる大多数の庶民
というのが加速していくのだと思います。

超絶エリートはとりあえず無視して、劣位の階級になってしまった場合はどうするのか、そこでも2つに分かれる、と。

国家の手の届かない周辺部での生活、とは、資本主義社会から基本的には離脱して、自給自足の生活をしていく、もしくは都会でいうならばホームレスとしていく、とかでしょうか。田舎での完全自給自足もありなんでしょうが、それはそれで強い心と意思が必要だと思うので、僕のような中途半端ものには厳しいです。

となると、国家にあっても小規模の財産を保持することで最低限の権利を持って生活する。これがいいですね。

プチブルジョアジーの評価
国家が張る網の目に絡め取られることなく、庶民階級でありながらも自立と自治に近い生き方ができる立場にあるからだ。

プチブルジョアジーを目指す。と。商店などでの自営業者とか、最近だと1人社長といったスタイル、小さい事業持ってたり、不動産持っているような人がそうでしょうか。

最高ですね。

例えば会社が大きくなると、国家の枠組みや、社員との関係性で、いろいろ大変でしょうし(そもそも大きい会社までなるような人は資本主義社会での超絶エリートクラス)、会社員もどうしても会社からの支配は受けてしまう。

あらゆる支配を否定するアナーキーでいられて、社会から外れないためにはプチブルジョアジーを目指すというのはすごくいい落とし所な気がします。

アナーキーな気持ちを持ちながらどう資本主義社会で折り合いをつけて生きていくか、考えたいですね。アナーキック・エンパシー!!

その他メモです。

シュテルイナーのエゴイストは、あらゆる「聖なるもの」亡霊のように実態のない抽象的な観念(祖国、宗教、神など)。を徹底的に否定し、具現し、経験し、体感する自己を誰にも(いかなる観念にも)所有させずに生きる人のことだ。

一見、悪い言葉のエゴイストですが、神や宗教にも頼らず、自分を誰にも所有させない!という強い人とここでは肯定的に言っています。

現代では市場や資本主義のシステムが何よりも強力な「亡霊」となって人間を支配している。
アナキズムは人間をシステムや市場の上に置く、それらの奴隷のポジションに人間を貶める経済などどれだけ繁栄しようと本末転倒なのである。

国のためには自分が犠牲になってもいいのか?
経済成長のためにはその裏側で多くの人が苦しんでもいいのか?

そもそも国家や資本主義は、人をより豊かに、幸せにするために作られたものではなかったのか?

アナーキーでいこう、エゴイストでいこう、そして国や会社に頼らない相互扶助をしていきたい。そう思える本でした。

ビバ!アナーキック・エンパシー!

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