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「ブルシットジョブの謎とこれから〜無意味な仕事をどうしたらやめられるか?」メモ

デイビット・グレーバーの「ブルシットジョブ」を翻訳した酒井隆史氏の講義を聞いたのでメモです。

クソどうでもよい仕事であるブルシットジョブについての講義ですが、自分の仕事がブルシットジョブであると思っている人は、思ったよりも多く、さらにそれが進行しているのでは?という点から始まります。

そもそもブルシットジョブ(クソどうでも良い仕事)とは何かを考えるにあたり、似たような言葉のシットジョブとの比較が分かりやすいです。

ブルシットジョブは、条件が良いが、意味はない仕事
シットジョブは、条件は悪いが、意味がある仕事

そして、ブルシットジョブは働いている本人が、自分のやっている仕事に意味はない、と実感している人が多い。と。結構ツラい。。

シットジョブは、ちょっと古いけど3K(きつい、きたない、危険)の仕事なんかで、ゴミ収集や下水関連とか、世の中にとって必要だけど、条件が良くない仕事などで、コロナ禍においてはエッセンシャルワークなどでもフォーカスされています。

それに対して、ブルシットジョブは、コンサルタントやCEOや企業弁護士や短期投資家とかで、その仕事がなくても世の中的には全く必要がないけど、条件などは良い仕事、とのことです。

なぜブルシットジョブが発生するのか、を考えると、その根源には「資本主義」が出てきます。

資本主義は、目的は富を生み出すことで、そのための手段として人間がいます。あくまで目的は富の拡大、利潤追求で、人間の幸福ではない。

経済などは経世済民だから、本当は人のため、世のためなのに、その目的が変わってしまっているのが、現在です。

例えば、古代ギリシアなどでは、目的は良き市民を生産すること、倫理のある市民を作ること、で富はその市民を作るための手段でした。
ただ、古代ギリシアでは奴隷はいたので、奴隷も良い市民を作るための手段として使われてはいました。

今の資本主義は、富を生み出すのが目的なので、人は手段になっていて、言い換えれば、奴隷制の拡大が資本主義である。となります。賃金奴隷制。

非資本主義社会では、価値とは「社会的価値」であり、人間を育てるようなものでしたが、資本主義社会においては、価値は「市場価値」と「社会的価値」に分裂し、「市場価値」だけが評価されるようになっています。

ケアの領域や、家事などのシャドーワークは社会的価値は高いのに、市場価値として評価されず、非生産的なものと見なされます。

そういった負の側面がありつつも、産業革命などを経て人間の暮らしは圧倒的に改善もされているので、資本主義は受け入れられてきましたが、それが新自由主義(ネオリベラリズム)となり、いよいよその限界を感じているのが、今、ということです。

ネオリベラリズムを分類すると大きく3つになります。
①戦闘的ネオリベラリズム(1979年-1989年)
サッチャー・レーガンの時代で、グローバル化が一気に進みます。東西冷戦の末期で共産主義が資本主義に負ける頃です。資本主義が進めばトリクルダウンが起きて、よりみんなが豊かになる。そんな良い未来も感じられた頃です。この時期に、民営化、規制緩和などが進みます。

②規範的ネオリベラリズム(1989年-2008年)
ベルリンの壁が崩壊し、資本主義イデオロギーが勝ち、これがスタンダードになります。世界中にアメリカ的な資本主義が広がり、競争できなければ去れ!というぐらい世界に浸透します。これがリーマンショックで終わります。

③ニューネオリベラリズム・ゾンビネオリベラリズム(2008年-現在)
リーマンショックでネオリベの限界が見えます。トリクルダウンは起きない、豊かな人がもっと豊かになっただけ。競争に負けたら潰れるというルールに反して、一部の会社は「大きすぎて潰せないと」いう理論で政府に救済される。富裕者に対しての社会主義ではないのか?とという感じで限界が見えたにも関わらず、、、また最近は同じような状況です。ゾンビのようになっている。。。

日本でも、アベノミクスで「この道しかない」、となり、岸田内閣の「新しい資本主義」もあれ?という感じなので、まだ格差拡大などが起きていく気がします。

多くの人は、「経済を回す」ということと「社会を回す」ということを同義だと思っていますが、そんなことはなく経済は回らなくても社会は回るのはコロナ禍で分かったものの、やはり経済優先の社会は変わっていません。

何のために働くのか?が倒錯している。と。

より良く生きるために働く。はずが、働くために生きているような社会に。

初期の頃は、トリクルダウンが起きる、みんな豊かになる、という正当性があったはずのネオリベラリズムも、リーマンショックで正当性がなくなったにも関わらず現在も続いています。

正当性がなくなると、精神論を投入するしかなくなり、多くの悪い部分が深まります。略奪の深化、ヒエラルキー/差別の強化、暴力の状態化、剥き出しのイデオロギーの強化、など。

新自由主義の浸透により、格差が拡大して、不満を持つ人がより極端な差別をしたり、より暴力的になったりというのは世界中で見られます。日本でもホームレスの人に対する暴言、差別、障害者ホームでの殺人事件、生活保護への風当たりの強さ、、、など。

そもそも資本主義というのは格差を必要とします。
希少性を作り出し、それによって価値を上げます。欠如が必要で、欠乏を埋めるためにもっともっと、となるので、格差がないと成り立たない。。。


まとめるとこんな図です。
これだと自分が何とか頑張って上の階層に上がるしかないのか?となりますが、そこには多くのブルシットジョブがあり、その世界で走り続けるのはやりたい人は良いでしょうが、やりたくない人にはかなりツライです。

走り続けないと下の階層に落ちてしまうという恐怖感がありながら、ブルシットだと思っている仕事を続けるのは苦痛です。。

最近ではFIREなども言われるのは、こういった状態から抜け出したいというのもあるのでしょうが、それをうまくできる人もごく一部です。

じゃあどうすれば良いのか?というのは酒井氏も明確な答えがあるわけではなく、そんな明確な答えはないような問題だとも思います。

年間500万の生活費がかかる場合に、FIREするには25倍の12,500万が必要とされていますが、それはハードルが高い。。。
となると、最低限月10万でも生きていけるような地方暮らしで半農半X的な暮らしを作り、2,500万を溜められれば、賃労働FIREとも言える状況になります。そこでやりたい仕事をやりつつ、プラスアルファを稼ぎつつ、資本主義の恩恵を受けるような投資もしつつ、、、くつろぎながら暮らす。

というようなものがちょうど良さそうですし、そういったのを目指すような人が増えてくるのではないか、というような気がします。




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