「世界は贈与でできている」読書メモ

あっという間の2021年です。
近内悠太さんの「世界は贈与でできている」すごーーーーくおススメできます。2-3回は読みながら自分に腹落ちさせていく感じでした。

僕たち人類は生まれた時には一人では生きていけず、全員誰か(親も含め)の助けなしにはある程度の年齢までは生きていけません。
さらに、自然や地球から受け取っている様々な恵みなど。

スタートは「私は不当に受け取ってしまった」という被贈与の気持ち。
この被贈与による負い目を感じ、その受け取ってしまったものを誰かに贈らないというような衝動が生まれる、そうするとすごくいろいろなものがカチッとはまりました。

この本を読んで、「私は不当に受け取ってしまっている。。。」と心の底から気付くと、それだけですごい価値だと感じます。

自分の整理も含めてまとめて書きたいと思います。

【助け合い前提で生きる人類】

まず、我々の祖先が2本足で立つようになるところから始まります。
元々4足歩行だったのが、2本足になったのには食べ物を持って移動するためだとか諸説ありますが、2本足の方が生き残れたのでしょう。
一方で、直立歩行するためには骨盤を細める必要があり、狭くなった産道を通って生まれてくることになり、そのため、「頭が大きくなる前の段階」で出産することになりました。

そうなると他の動物とは違う未熟な状態で生まれてくるため、親や仲間に助けてもらわらないと生きられない状態です。子供を育てたり、食料を採ったりする必要があり、ヒトは協力しないと生存できないような環境でした。

そして、進化の過程で強い社会的な絆を結べるものが優遇されていきます。

つまり人類は「他者からの贈与」や「他者への贈与」を前提として生きていくことを運命づけられている、ということになります。

【贈与について】

モノは誰かから送られた瞬間に、この世界にたった1つしかない特別な存在へと変貌します。贈与とは、モノを「モノでないもの」へと変換させる創造的行為に他ならないのです。
だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。

贈与は、「まず受け取ること」から全てスタートします。
そして、それは生まれた瞬間から多くのものを受け取っていた、といつか気付くところから次の贈与に向けて動きます。

子供が、いろいろ受け取ってしまったなどとは思いませんし、そう思わせるのは純粋な贈与ではなくなってしまいますね。大人になってから、「あれは贈与だったのか」と過去時制で気付くところから始まります。

「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていく。
無償の愛は必ず、前史=プレヒストリーがある。贈与以前の贈与。
「私には育ててもらえるだけの根拠も理由もない。にもかかわらず、十全に愛されてしまった」つまり「不当に愛されてしまった」という自覚、気づき、あるいはその感覚が子に「負債」を負わせます。
贈与は贈与を生まなければ無力である。
聖人ならぬ、俗人の僕らには、受け取った贈与に気づき、その負い目を引き受け、その負い目に衝き動かされて、また別の人へと返礼としての贈与をつなぐことしかできない。
つまり、被贈与の気づきこそが全ての始まりなのです。

贈与を受け取ってしまった。

負い目を感じる。

反対給付の義務が生じる(返さなきゃという思い)

無償の愛へ(受け取ってしまった贈与を渡す)

というサイクルなのですが、注意しないといけない点がいくつかあります。

贈与は、本来は計算不可能なもので、受け取り手に知られてはいけないものだ、と著者は言っています。

例えば、「これはあなたへの贈与(プレゼント)だと」と明示して言われると、その贈与に対して反対給付の義務が働いて、返さないといけない、という気持ちになります。これが強くなるとその贈与は「呪い」になっていきます。

また計算可能な贈与は「偽善」となり、これをあげるから、こうして欲しいというようなギブアンドテイクの交換の論理になっていきます。

親が子供を育てる際の無性の愛はまさに贈与ですが、もし、将来は自分の面倒を見てもらおうという気持ちで子育てをしているとそれは贈与ではなく、交換の論理になってしまいます。(子育てする。その変わり面倒みてね)

先行する贈与に対する返礼は「恩に報いる」「忠義を尽くす」などと呼ばれ、未来の利益のための先行投資であれば「媚を売る」「権力におもねる」となり、同じ振る舞いであっても全く異なる行為となります。
これらは自己利益を見込んでいる。
未来の利益の回収を予定している贈与は贈与ではなく「渡す」「受け取る」の間に時間差があるただの交換であり、打算に基づく行為です。

健全な贈与の流れとしては、親子関係を例にとると、
親:私は多くの贈与を受け取ってしまっていた、という気づきがあり、そも負い目に衝き動かされるようにして、自分の子供に無償の愛を注ぐ。

子:無償の愛を受けている最中は、気づかないが、大人などになってどこかで気づいて、その負い目を次の子供に無償の愛を注ぐことで解消する、、、

というグッドサイクルなのですが、この「被贈与感」がなかったり、「交換の論理」に縛られていると、、

「なんで勉強しないの!月謝を払っているのは誰だと思っているの!」

という「交換の論理」(勉強すること⇆月謝を払う)ということになってしまいますし、交換するものをほとんど持っていない子供は、できるだけ親にとって良い子でいようとする。とのことです。

子供に交換の論理を押し付けてしまっている、そのため何の交換できるものを持っていない子供が精一杯良い子でいようとする、という構図は切なすぎます。

自分も多くのものを受け取ってしまっている、という健全な負い目からスタートする無償の愛にしっかり結びついていきたいものですね。

この被贈与の負い目交換の論理は気をつけないといけないと感じました。

事例で出しているのが、ある保育園の話です。
子供の帰り時間になっても遅刻してくる親が多くてこまっていた保育園は、遅刻を減らすために、遅刻すると料金が追加されるようにしました。そうすると遅刻が減るどころか増えた、というエピソードです。

これは、「無償で子供を預かってくれている(遅刻分)」から、早く行かないと、という被贈与の負い目があったものが、「遅刻分の料金を払えば良い」と遅刻を買えることになった(交換の論理になった)ためです。

他の事例で、最近の若者は献血はコスパが悪い。という話です。
ボランティアや社会活動に参加する若者が多くなっているのは喜ばしいことですが、なぜボランティアに参加するの?というアンケートで、高齢者の方は「社会が良くなるのが嬉しい」という回答が多かったのに対して、20代などは「ありがとうと言われるのが嬉しい」「相手の喜んでいる顔が見たい」という回答が多かったとのことです。

一見、良くあるコメントだし、特段問題もないようなのですが、これは「ボランティアをする⇆ありがとうと言われる」という交換の論理になってしまっています、そのため、献血のように自分の血が誰に使われているのかも分からないようなものはコスパが悪い、というようになってしまう、とのことです。

助けてあげる。で、あなたは私に何をしてくれるの?
これがギブ&テイクの論理を生きる人間のドグマです。
割りに合うか合わないかでの判断です。

資本主義、市場経済が当たり前の世界に生きている私たちは、この交換の論理に慣れきってしまっています。大昔のムラ社会のようなウェットすぎる暮らし比べ、気持ち的にもかなり楽でしょうし、この交換の論理で社会が発展してきたのも事実です。一方で、どこまでを交換の論理で考えるのかという線引きは非常に重要だと感じます。この本はそんな時の指針にもなります。

周囲に贈与的な人がおらず、また自分自身が贈与主体でない場合、僕らは簡単に孤立してしまう。僕らが仕事を失うことを恐れるのは、経済的な理由だけではありません。仕事を失うことが、そのまま他者とのつながりの喪失を意味するがゆえに恐れるのです。仕事を失い、かつ頼れる家族や友人知人などがいない場合、僕らは簡単に孤立する。
ギブアンドテイクやウィンウィンの論理は、「交換するものを持たない、あるいは交換することができなくなったとき、その繋がりを解消する」ことを要求する。
交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。

最近の日本でも新自由主義が行き渡り、自己責任論などが強くなっていて、富む者と貧困に苦しむ人の格差も拡大していますし、まだ拡大しそうです。
本の中でも、行き詰まって「誰にも迷惑をかけられない」「死にます」といった人のエピソードが書かれていますが、迷惑をかけられないから死ぬ、というものがあまりにも交換の論理に浸かりすぎている現状を物語っています。

甘えると頼るの違い。
甘えるは、本当は自分でできることを他人に頼むこと。
頼るは自分ではできないことを他人に頼むこと。

この社会をより良くしていくにはどうしたら良いのか?
これを遡ると、「私は不当に受け取ってしまった」という被贈与が全てのスタートになり、本当にしっくりきます。

誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会。
贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。

名言ですねー

まずは、被贈与に気付くところから全てスタートしますので、そのためには知性が必要で、求心的思考で過去を推理して被贈与を感じることや、歴史を学ぶこと、などいろいろ事例を踏まえて書いています。

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差出人の祈りなき贈与は交換となり、受取人の想像力なき贈与は気づかれることなく、この世界からこぼれ落ちていく。

まずは「私は不当に受け取ってしまった」という被贈与がスタートですが、それをしっかり思えるようにするために「アンサングヒーローが支える日常」という章があります。

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私たちのいる世界は、上の図で言うと、左のような「安定なつり合い」が取れているのではなく右のような「不安定な上のつり合い」なのではないか?それを名も無きヒーローたちが支えてきたのではないか?ということです。

電気が当たり前に繋がる、電車が遅延なく来る、食料もいつでも買えるような社会、これらは当たり前なのではなく、不安定な上に、なんとかつり合いが取れているようなものではないのか、という視点です。

この世界が安定つり合い(くぼみに置かれたボール)だと思っている人は、少なくとも「感謝」という感情を失う。

先日、水不足で計画断水をするという住民説明会で怒鳴っている人たちがテレビで見ましたが、水道を出れば安心・安全な水が出るということが当たり前になっちゃっているのでしょうね。

歴史を学びながら、もしその世界に自分が生まれ落ちていたら、この目には何が映るのか、どう行動するか、何を考えるかを意識的に考えるようにすることです。そこに生きる一人の生身の人間としての自分を考えるのです。
歴史を学ぶというのは、そこには何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。  この世界の壊れやすさ。この文明の偶然性。
これに気付くために僕らは歴史を学ぶのです。

学ぶことによって、被贈与を感じることから全ては始まりますが、では、贈与をできないような人は負い目を感じたままなのか、という問いに対しても素敵な回答がありました。

贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。
「宛先としてただそこに存在する」という贈与の次元があるのです。
僕らは、ただ存在するだけで他者に贈与することができる。
受け取っているというということを自覚していなくても、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を、強力に、全面的に肯定する。
この世に生まれてきた意味は、与えることによって、与えられる。
いや、与えることによって、こちらが与えられてしまう。

子供に対する無性の愛などが一番分かりやすいですね。
見返りを求めるのではなく、むしろ与えることで生命力をもらっている。与えることによって、こちらが与えられてしまう、という、、、

本書では、多くの事例が出ていて、テルマエロマエや小松左京のSF、介護現場でのエピソード、映画ペイフォワード、などの話を元に分かりやすく説明してくれています。

ギブアンドテイク、ウィンウィンの中からは「仕事のやりがい」「生きる意味」「生まれてきた意味は」は出てきません。これらは贈与の宛先から逆向きに返ってくるものだからです。
不当に受け取ってしまった。だから、このパスを次に繋げなければならない。誤配を受け取ってしまった。だから、これを正しい持ち主に手渡さなければならない。
あくまでも、その自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「仕事のやりがい」や「生きる意味」が偶然返ってくるのです。

どう生きるか?使命とは?志とは?意義のある人生とは?どう生きたいのか?幸福とは?幸せな人生とは?幸福論などを見ると、利他性や繋がり、感謝があると幸せを感じやすいなどがあります。

それらの全ての大元が、この「受け取ってしまった」という被贈与から始まるような気がします。

この贈与を「受け取ってしまっていた」というところに気付くことの重要性、そして心の底からそう思える人が増えれば、自ずとこの世界は素晴らしい未来に向かっていくと感じられるような本でした。




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