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【超短編小説】エレベーター


 少し。ほんの、少しだけ。
 玄関の扉を慎重に、慎重に開けて、忍び足で外に出て、また慎重に、慎重に閉める。
 目の前に広がる、見慣れた街の夜の景色を見ながら、ドアの横の壁にもたれ掛かる。
 深夜のできたての空気に、肺が満たされた。
 
 気密性の高いマンションの部屋の空気は、酷く淀んでいる。
 私を蝕むその濁った空気は、澱のようにそこここに蓄積して、どんなに換気しても頑として出ていってはくれない。こびりついているのだろう。
 夕食の匂いと、ゴミ箱に捨てたオムツの匂いと、捨てるのをサボった三角コーナーの生ゴミの匂いが、家中にうっすらと漂っている。そんな部屋から、昨日も今日も一日中、出ることが出来なかった。

 何度も、何度も深呼吸をして、肺に残った淀んだ空気を追い払う。
 家の中では、子どもが寝てる。早く戻らないと。
 そう思いながらも、目がいくのは廊下の突き当たりにあるエレベーターだ。

 もし、子どもが眼を覚ましたら。
 きっと烈火のように泣くだろう。
 パニックになって、もし吐いたりして、それが喉に詰まったら。
 ママ、ママ、ママ、ママと四六時中くっついてくる小さなあの子の所に、可愛いあの子の所に、戻らないと。
 戻らないと。おもちゃがあちこちに散乱しているあの部屋の中に。
 洗濯機の中に洗濯物が詰まった、あの部屋の中に。
 飛び散った歯みがき粉で洗面台が汚れている、あの家の中に。
 私の可愛い子どもがすやすやと眠っている、あの、部屋の中に。
 戻らないと。戻らないと。戻らないと。
   サンダルの踵を引きずる、だらしない足音響く。
  そしてエレベーターの扉が、目の前で静かに開いた。
 
(終わり)(フィクションです)

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