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環境への優越権

最近色々な身の回り品を揃えて、人生の決定権に手を伸ばしているのを実感する。人生の、というのが大袈裟ならば、社会に於ける立ち振る舞いの、と換言してもよろしいものであるが、其のイニシアティブを実感してきた。

大学の先生が言っていたことを思い出す。「今求められるのは、クリエイティブな人材だ。選択肢は与えたから、自分で決定しなさい。」私は生来の気分屋なので、状況に応じて気分をコロコロと変える人間であった。詰まり此の状態の私では、「環境」に風を動かす力があった訳だ。小学校、中学校、少なくとも高校までは、私は凧になって、風を掴めば良かったのだ。この状態の私には、風を掴むか逃がすかの自由は存在しているが、風の有無に関しての自由は存在しない。

所が、社会にいざ近づくと、入り乱れる乱気流が発生しているのだ。凧のままでいては、生きるのには骨が折れ、何時墜落するとも分からない。だから、凧の飛ぶ社会の外の送風機と関係を認識せねばならぬ。左様して自分に都合のいいコースに通れるよう設置したり、また別の送風機は切ったり、と生きやすいようにするのだ。

私が斯く発言出来るのは、そもそも余裕が有るからである。余裕が無ければ、風を止めようと試みる時間も、送風機を目視する間さえ無い。私の環境に感謝します、幸せモンです。

そして如何にか、背水の陣にて働き生きる皆様が、ゆとりを持てるようであって欲しい(各々の居る社会的でも、各々の持つ認識的であっても構わないが、兎も角生きやすい様であって欲しい。)。

自分が快いと思えるような環境を作れるよう、労苦を物ともせずに進んで征くぞ、と宣言したいものだがどうやら私は左様程器用ではないようだ。果たして今から勉強をしようか、と力が漲る訳でもなく、増して毎日筋トレしようと言われても全くやりたくもない。どちらも私が内心、押しつけがましいいと尊敬せぬ意識の高い皆様が推奨しているものだが、私は生来の根無し草なので、思いつくままに生きてゆくのだろう。だがせめて送風機への視力を持ち続けておきたいものだ。

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