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グノーシス主義の基礎理解〜光は貴方の中に、けれども… 〜

▼はじめに

グノーシス派についてまずは知ろうと写真の本(タイトル画 ナグハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端 エレーネ・ペイゲルス)を読んでみました。

ナグハマディ写本というのは1945年に発見され、すったもんだあった末に一般にも少しづつ広まってきたグノーシス側の聖書みたいなものです。  
ナグハマディが発見されるまでグノーシス派の主張は正統キリスト教からの批判を通してしか見えなかった、とのこと。  
この本もグノーシスと正統(この本ではカトリック)の主張の違いを主に置いてました。

▼グノーシス派とは

グノーシス派
注、グノーシス派といっても宗派は色々あるとのこと。  
キリスト教の一派と考えるよりも、元々の土着宗教やプラトン等のギリシャ哲学の延長と考えた方が良い。  
その時々でくじ引きで司祭役、聖書の朗読役、など決め、くじ次第では女性や初めて来た人が司祭役をしたりもしたそうです。  
キリストの復活を肉体から精神体へ至る奥義を完成させた、と解釈して、その奥義を使徒たちとマリアに伝えており、その奥義を伝承により受けた自分たちこそ正統である、というような考え方。  
正統派(と今されている)の主のデミウルゴス(創造主)はさらに上の存在であるソフィア(智慧、叡智)を差し置いて自分が唯一の神だと言う傲慢な存在だとする考え方。  
本当に大切なことは自分の中にあり、それを認識することがデミウルゴスでない、さらに上の神と繋がる術、との考え方。  
(追記:本書には書かれていない内容だったと思いますが重要なため記述します。ありとあらゆるこの世界における物質はデミウルゴスが創造したとします。そのためこの世界はありとあらゆるところからデミウルゴスの監視が行き届いている。その中でグノーシス派の一部が信仰を守ために行った手法が「神の名をみだりに口にしない」、どころか、発音困難な造語によって神を信仰する、というスタイルをとりました。)

プラトンとアリストテレス

▼カトリック側の立場  

その時々で役を決めていたら司祭(使徒の後継者を自認)の権威を保てない。 自分達都合のようにも見えますが実際は当時のキリスト教徒はローマから迫害されていて、基盤を造る必要があり、権威は実際問題必要であったと思います。  そういう意味でグノーシス的な各々が各々の内面に目を向けて、各々が各々の真理を言っていたら、基盤を造ることはできなかったとも本では述べています。  また、グノーシスの修行的信仰スタイルは大衆を取り込むのには向かないこともカトリック側が勢力を大きくした要因であるとも。  

▼グノーシス派のその後

カトリック側が正統にされるにあたってグノーシス派は異端とされ、迫害され、埋もれていったものの、地下水として脈々と残り、ニーチェやドフトエフスキー、トルストイ、といった形で吹き出してきた、みたいなことも言ってました。  

ドフトエフスキー、本名はフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 長い


▼最後に


全然関係ないですが、「ねごと」というバンドの「メルシールー」という曲です。

元々この曲のベースとドラムが好きだったんですが、改めて聴くと歌詞がとてもグノーシス主義を表しているように感じられました。

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