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❝ 歌の女神様である「都はるみ」(010)❞

 ❝ 私は60歳を少々過ぎて時間に余裕ができましたのでBingAIに勧められた「note」の投稿を始めることにしました。
2014年頃から都はるみさんの歌唱に魅せられてきた私は2017年10月頃から2020年8月頃までほぼ毎日のように都はるみさんに関する文章をブログに書き溜めてきました。

今回、2023年4月16日から「note」に文章の投稿を始めるにあたって都はるみさんに関する500回ぐらいのブログと時事のブログをあわせた3200回更新分の文章を修正編集した内容と新たな時事の文章を投稿していこうと思います。



生涯現役歌手を決定づけた十周年記念リサイタル

2017年11月12日

 

 昭和49年(1974年)10月11日にNHKホールで行われた都はるみ十周年記念リサイタルを演出した藤田敏雄は美空ひばりや越路吹雪のように「ピアニッシモ」、つまり弱音で歌いこなすのがプロ歌手の至極の歌唱であると考え、十四番まで詩がある「戦友」を「都はるみ姫」に「ピアニッシモ」で歌うことによって新境地を切り開く事ができると考え、「戦友」の歌唱を10周年記念リサイタルの中心に据えていた。

 そして、詩が長すぎてなかなか覚えきれない「戦友」を他の曲に変えて欲しいと言う「都はるみ姫」様に対して、藤田にそれならば演出を降りると言われて、負けん気の強い「都はるみ姫」は長い詩を必死に覚えた。

 完璧を求める藤田の非常に厳しい練習の明け暮れのうちに公演当日を迎え、「都はるみ姫」は緊張するなか戦時下の悲惨で壮絶な状況におかれた人々の万感迫りくる「戦友」を一字一句違うことなく見事に歌い、2時間の公演を万雷の喝采の中に終えた。

 幕が下り藤田が舞台に姿を見せると、「都はるみ姫」は「先生…」と絶句して舞台の上に座り込んで号泣したという。

 天才歌手「都はるみ姫」の稀な可能性を知っていた才能ある演出家、藤田の厳格な演出による10周年記念リサイタルの成功は「都はるみ姫」の歌手としての最大の試練であったが、この試練を乗り越えた「都はるみ姫」にとって、歌はそれまでの彼女と「親友」という関係から「戦友」となり、この十周年記念リサイタルの大成功は国民的大歌手として生涯現役を貫く覚悟を決めた歌手「都はるみ姫」のターニングポイントであったと言えます。

 そうして新境地が開かれ翌年「都はるみ姫」が自ら製作に加わった「北の宿から」はその年の紅白で歌われたことがきっかけで、ヒットに火が付きロングのミリオンヒットとなり、ついに昭和51年(1976年)の第18回日本レコード大賞の大賞を獲得し、第27回NHK紅白歌合戦のオオトリでこの歌を歌唱して、日本一の演歌歌手の栄冠に輝き、「都はるみ姫」の27年の人生の最高到達点となった。

 その後4年間の運気の若干の低迷を見て、昭和55年(1980年)「大阪しぐれ」でまたもミリオンヒットとなり、第22回日本レコード大賞最優秀歌唱賞となり日本歌謡史上初となる日本レコード大賞の新人賞、最優秀歌唱賞、大賞の三冠を達成した。

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