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2 質問者、人間A。回答者、サキュバスN。

・恩着せがましい

「Nさんは、たとえば僕とご飯に行って、奢るよって言われたらどう思います?」
「え? 丁重に遠慮しとく」
「なぜですか?」
「皆まで言っていいの……? 私の方が経済的に余裕があるからだよ」
「経済的な余裕って断る理由になるんですか?」
「え、逆にならないなんてことがある?」
「男たるもの女には奢るべし、とか」
「あー。私はそれ系の言葉は一つを除いて嫌いだな。時代錯誤というか差別意識の根というか」
「除く一つは何なんです?」
「据え膳食わぬは男の恥だ、ってやつ」
「なるほど」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、実は昔、付き合ってた女の子がいたんですけど」
「おお、興味深い」
「当時の僕は時代錯誤と差別主義と見栄によって、彼女とお茶をする時はいつも奢っていたんです」
「それ以外は奢らなかったと」
「僕はべつに最近貧乏になったわけではないですからね」
「ごめん冗談だよ。それで?」
「それで、ある日彼女に言われたんです。A君に奢られるのは嫌だ、恩着せがましいから……って」
「……なるほど?」
「Nさんも、丁重に断りきれずに僕から奢られたら同じことを思いますか?」
「どうだろうなぁ。奢ったあとの君の態度を実際に見てみないことにはなんともだけど、たぶん普通に恩着せがましい顔をされる分には、そこまで気にはならないんじゃないかな」
「そうなんですか?」
「たぶんね。で、気にならないからには、文句をつけるような物言いをわざわざしたりもしないと思う」
「百円のお菓子で高級ディナーくらいのドヤ顔をされたとしてもですか?」
「彼女にそんな顔してたの……?」
「いやしてませ……………………してないつもりですけども」
「へぇ〜? ……まぁ仮に君がそのレベルの恩着せがましさを持っていたとしても、私は文句は言わないと思うよ。多少の不愉快は正直あるかもしれないけど」
「Nさんってそういう不満を我慢するタイプでしたっけ?」
「いや? でもそのケースだと私はこう返事できるわけでしょ。奢ってもらっちゃって申し訳ないな〜、お礼したいからホテル行こう? A君のしてほしいことなんでもするよ?」
「…………なるほど?」
「で、私はおいしく性欲をいただく。恩着せがましい意識が乗っかったさぞ濃くて味わい深い性欲にありつけるんでしょう、それも誘うきっかけ付きで。そしたら文句を言う気にはならないよ」
「なるほど〜」
「それで? 彼女と別れたのはそれがきっかけだったの?」
「いえ? でもまぁ、仲が冷めてはいたんじゃないですかね。そういうやり取りがあったということはすでに」
「そうかもね。…………さっきからちょっと気になってるんだけどいい?」
「なんですか?」
「薄情なことを聞いたらごめんだけど、……君は彼女からそれを言われて傷ついたの?」
「いえ全然。衝撃的でしたけど、どちらかといえばむしろ嬉しかったです」
「ほう〜。それはまたなんで?」
「恩着せがましさっていうのは、僕の本音が滲み出た結果だと思うんです。だからそれが伝わっていて嬉しかった」
「本音?」
「お金使いたくないよ〜! です」
「わぁ……。そういえば前にお金の話をした時も嬉しさが勝るとか言ってたっけ。本当に重症だね。……その彼女とはどれくらい付き合ってたの?」
「一年ですね」
「彼女さん一年も頑張ったなぁ……」
「本当そう思います……」
「一年溜まった鬱憤を吐き出したらこうやって別れたあとまで偏向的に言いふらされるんだからやってられないよね。ダメだよA君? 他の人に元カノのことをそんな風に話しちゃ」
「大丈夫ですよ。Nさんみたいに、この話を聞いた人は遅かれ早かれ彼女の方に同情するようになりますから。そうなる見込みのない相手には話しません」
「どういう自信なのそれは……」
「……ところで僕は分からないんですけど」
「うん?」
「仮に相手の態度が…………態度だけですよ? 特に見返りを求めるとかではなくただただものすごく恩着せがましかったとして、それで奢られることって不愉快になるものなんですかね……?」
「いや、なるって言われたんでしょ」
「いや、そうなんですけど。分かるんですけど。でも、嫌は嫌だけど、自腹は自腹でそれに匹敵するレベルで嫌じゃないですか……?」
「はぁ、なるほど。君ほどの金の亡者になるとそう考えるのか」
「えぇ考えます。だってほら、たとえば男女の関係に置き換えて考えてみてくださいよ。めちゃくちゃ恩着せがましくてもヤらせてくれる女の子がいたら、慎ましい性格だけどヤらせてくれない女の子よりも、ヤれる方をうっかり好きになっちゃう可能性だってあると思いませんか?」
「は〜なるほど。それは、その二択だったらそういうこともあり得るかもね。男性諸君にはそのくらいであってもらわないと、サキュバスは飢えてしまうし」
「でしょう? だから微妙に腑に落ちないんですよね。相手が金に少しも困ってないというなら分かりますけど、そんな人そうそういないでしょう。もちろん元カノだって経済事情は人並みだったはずです」
「それはそうだね。……でもそうだなぁ、例え話で言うなら、私も男女の話に置き換えて言ってみようかな」
「おお、なんですか?」
「……A君をサディストと見込んで聞くんだけど、性的虐待を受けていた過去を持つ女の子から、A君になら性欲のはけ口にされてもいいよ……って言われたらどうする? どう思う?」
「えっ……? ……………………まぁ困るんじゃないですか?」
「どうして? やった〜セックスしよう! とはならないの?」
「いや、そりゃ内心そうしたい気持ちは山々ですけど。でもどう考えても、その子にとっての性行為は明らかな地雷原じゃないですか。そんな地雷原に踏み入ろうものなら、どこでどんな取り返しのつかない悲劇を生むか分かったものじゃないですよ。だから困ります。なまじヤりたいからこそ困るんです。その内心を悟られること自体、地雷かもしれないんだから」
「ふふ、だよね。私が君の立場でもそうなると思う。どこからどこまでが地雷なのか分からないし、そもそも「されてもいい」って言葉自体が本心なのかどうかすら疑っちゃうよね。家庭環境が悪かった子は自己肯定感が低いことが多いから、そうでもしないと嫌われると思って言ってるのかもしれないし、本当は怖いのに、好意を表現したいあまりに自己犠牲の気持ちで言ってるのかもしれない。……かといって、大切に扱おうと思って申し出を断ったら、それが一番その子を傷つけたり不安にさせちゃったり……なんてこともあるかもしれないし。本当に一瞬のうちに困り果てちゃうよ、何を選んでも不正解な気がして」
「ですよね」
「……まぁ、君から奢るよと言われた時の私の気持ちも、大体そんな物になると思うんだけど」
「え?」
「こっちは君の経済事情も重症なメンタルも知ってるからさ。奢るなんて言われても本心なのかどうかすら分からないし、どれくらいなら負担にならないのかとか、断った方がかえってプライドを傷つけるのかもとか、まぁ考えることは山ほどあるわけだよ。だから彼女さんの苦悩も分かるってわけ」
「な、なるほど……。でもさっき丁重に断るって即答してましたよね?」
「うん。君の性欲と違って、私に奢られたい欲はないからね。何を選んでも不正解ならせめて自分の手を汚したくはないからそう答えるよ」
「なるほど……」
「だからでもA君、頼むからお金で見栄は張らないでね」
「えぇ、まぁ、そのためにこの話をした節もありますから」
「それならよかった」
「…………でもそれはそうと今の話で一つ気になったんですけど」
「なに?」
「Nさんは、もし自分が男で、かつて性的虐待を受けていた女の子からわたしを性欲のはけ口にしていいよと言われたら、それを恩着せがましいと捉えるんですか……?」
「……………………イエスだね。抱いてほしいと言われるなら話は別だけど、はけ口なんて言い方は、いかにもそうだよ」
「じゃあ、何度かその子を抱いたあとで、恩着せがましいから本当は嫌だったと言う時の心境って、どんな物なんでしょう……?」
「それは知らないよ。私は男じゃないし、男ほどの性欲もないんだから。分からないって」
「想像の話じゃないですか」
「それを言うなら君は、ただ女だからって理由でドヤ顔で奢られる人がどんな気持ちなのか想像できるの?」
「……………………僕がもし女の子だったら、まず怖くて男と食事になんか行けませんよ」
「あっ、それは私にも分からない感覚だ」
「サキュバスですもんね」




・漫画で分かる

「性的コンテンツが間違った性知識を蔓延させる原因になっている……みたいな言説があるじゃないですか」
「あ〜、AVのせいで良かれと思ってガシマンする男が出てくるみたいな?」
「そうそう。ああいう言説は疑わしいと僕は思ってるんです」
「ふむ。というと?」
「普通に考えて、AVやエロ漫画はシコるために作られているのであって、性の教科書として作られているわけではないでしょう? だとすれば、シコれるエロさを追求するために、現実から乖離することは当たり前にあり得るわけです。バトル漫画やアクション映画が格好良さを求めて物理法則を無視するみたいに」
「なるほど」
「で、そのこと自体が分かっていれば、コンテンツのせいで間違った知識なんて持ちようがないんですよ。だってほとんどの人にはインターネットの力があるでしょう? ネットが使えるなら、どの描写が現実に即していてどの描写がそうでないのかなんてことは、簡単に調べがつくはずなんです。……ということは、勘違いする人間というのはそれが出来ない……つまり元々致命的に馬鹿であるってことになります。馬鹿が馬鹿であることをコンテンツのせいにされては困りますし、馬鹿は何も見なくたって自力で間違いを起こしますよ」
「う〜んなるほど、まぁ一理はあるね。……でもそれを言うならさ、たとえばフェイクニュースに騙される人は、ファクトチェックをしっかりして騙されない人よりは、頭が悪いってことになるよね」
「え? まぁそうでしょうね」
「だからといって、フェイクニュースを流すことに罪がないと言えるかな……?」
「……フェイクニュースの意図は人を騙すことにあります。性的コンテンツとは違う」
「でもその意図を読めるのは賢い人だけ、というのは同じでしょ?」
「NさんはAVやエロ漫画の表現規制に賛成なんですか……?」
「まさか。ただ悪影響の側面はあるよねって認めてるだけだよ」
「フェイクニュースが根絶されれば、馬鹿が騙されることはどう考えてもその分だけ減る一方で、性的コンテンツが根絶されても、馬鹿が現実の性行為の中で自発的に問題を起こす可能性はかなり高いと考えられる以上、話はまったく別だと思いますけどね……」
「どうしてそんなに必ず自発的に問題を起こすと思うの?」
「性の知識は、学ばなければ身につかないからです。勘で分かるものじゃない。学ぶことのできない人間は必ず間違えます。馬鹿は知識を学びません」
「なるほど。A君はそれをきちんと学べていると」
「技術はともかく、知識としてはそうです。そしてそれをどうやって学んだのかといえば、エロ漫画で見たことを「これは現実的なのか?」と逐一調べることで学んできたのです。全部がそうとは言いませんけど、性的コンテンツがこの世になければ間違いなく今ほどの知識は身につかなかった。むしろ有益なんですよああいう物は」
「ふふ、なるほど。いいね勉強熱心で。たしかに一理あるよ。……けどまぁちゃぶ台を返すようで申し訳ないけど、サキュバスからするとそもそも、漫画の描写が現実と違っているから迷惑っていう風潮にあまり乗り切れないところがあるんだよね」
「乗り切れない?」
「たとえば間違った避妊の方法として、射精の直前にゴムを付けるっていうのがあるでしょ? 人間はカウパーで妊娠することもあるからそれだと危険すぎるよってことは、そういう描写をしている数少ないリアリティ重視のエロ漫画に出会うか、ネットで自発的に調べるか、あるいは偶然情報を目にするかくらいしか事前には知る方法がない」
「そうですね」
「でもサキュバスは、意思一つで妊娠するかどうかを決められるでしょ? 生入れ中出しで千人に輪姦されたって、こっちがその気にならなければまず妊娠しない。そういう性質の立場からすると、避妊の描写の正しさがどうのこうのっていうのは、なんというか外野の話だなぁって感じるんだよね」
「それはまぁそうかもしれませんけど。サキュバスは言わば例外ですから」
「分かるよ? でも全てにおいてがそうだからさ、いまいち議論に身が入らないんだよね。エロ漫画のせいでこんなことが、AVのせいであんなことがっていくら聞いても、人間は大変だなぁとしか思えなくて」
「そういうものですか」
「そういうものだよ。避妊の話はもちろんそうだし、それ以外にも、たとえば「レイプされて喜ぶ女性はいない」という正しい知識が人間たちの中から抜け落ちたところで、サキュバスはさほど困らないんだよね。迷惑だと分かった上でやる奴はやるから迷惑だし、逆に迷惑をかけない範囲でしてくれるのであれば、それがレイプだろうと、喜ぶ演技に付き合うことくらいはやぶさかでもないから」
「迷惑をかけない範囲のレイプってなんですか」
「忙しくない時に後腐れなく起こるものだよ。ガシマンも同じ。気持ちよくなってるフリくらい全然するけど、忙しい時に無理強いされたり、それをするために例えば監禁しようとするって話になるなら迷惑だなっていうだけ。何事においてもそれがすべて」
「なるほど……」
「だから私としては、その部分だけは世に浸透してほしいんだよね。複雑な性知識を頑張って身につけるより、「暇なサキュバスには何をしてもいい。逆にそれ以外はサキュバスですらダメ」って一つを覚えた方が早いと思うんだ」
「サキュバスって本当に一人残らずがそうなんですか……? 何をされてもいいって」
「いや全然? 乱暴にされるのは嫌いな子とか普通にいるよ」
「ダメじゃないですか」
「でもそんなのは人間と性知識にだって同じことが言えるでしょ。優しくされたって痛いと感じる人には痛いし、正しさを遵守することがわずらわしいという人もいる。嫌がられるかどうかという意味では、これさえ守っておけば間違いないなんて知識はそうそうないんじゃないかな」
「それはまぁそうかもしれませんけど……。しかしそういう問題だけじゃないでしょう、知識が左右するものは」
「まぁそうなんだけどさ。でも創作に寄り添った考え方をするなら、サキュバスへの認識が浸透するような世の中のエロ漫画って、今ある漫画よりもA君好みの物になってると思わない? 君は人間よりサキュバスが好きなタイプでしょ」
「それもそうなんですけど……。けど、エロ漫画の発展という視点で考えるなら、人間独特の機微がエロ漫画から消えてしまうとなると、それはそれでどうなんだろうって話にもなりません……?」
「シコることに特化したコンテンツに、そんな機微があるの?」
「あるんですよそれが。僕はそういうこともエロ漫画から学んでるんです。だからこそ、それが間違った知識の温床呼ばわりされることは看過できない」
「ほうほう。具体的にはどんな機微を見たんだろう?」
「Nさんは、セックスした相手から「この前抱いた○○ちゃんとはまた違った良さがあるな〜」って言われたらどう思います?」
「え? べつになんとも思わないけど。私のことも気に入ってくれてるなら何よりだなぁくらい?」
「やっぱりサキュバスはそうなんですね。でも、人間はそうはならない……らしいんです」
「ほう」
「あるエロ漫画にそういう描写があったんですよ。二人のヒロイン……ここではXちゃんとYちゃんと呼びますが、主人公はその二人のヒロインと肉体関係を持つんです。ただし最初しばらくの間はXちゃんとだけエッチしていて、その現場を目撃したYちゃんが中盤から参戦することになります」
「ふむふむ」
「で、初めてYちゃんにフェラされた時に、主人公が言うわけです。Xちゃんとはまた違った刺激があって気持ちいい、みたいなことを。するとYちゃんが怒るんですよ。ねぇそういうことを他の子と比べるなんて失礼だよ、って」
「へぇ〜」
「僕はそれを見てびっくりしました。優劣をつけたなら怒るのも分かりますけど、どちらも違ってどちらも良い的な評価をしたわけじゃないですか。けどそれでも失礼に当たるんだな、不愉快なんだなって、そうやって女性の……人間女性の感覚を学んだんです」
「なるほどぉ〜。いや、確かにそれは興味深くはあるね。…………でも人間女性って本当にそうなの? 軽く怒ってるヒロインが可愛いからそう描いたわけではなく?」
「さぁどうでしょう。調べて出てくることでもないですし、明確に確かめたことはありません。けどなんとなく想像は現実に一致しませんか? サキュバスは違いますけど、自分と特別な関係性にある人間女性は、性技を比較するどころか、そもそも何を比べてすらいなくても、他の女性の話を持ち出しただけで不機嫌になることがあるじゃないですか」
「あぁ、それは確かにそういうイメージがあるかも。一緒に歩いてる時に他の子を見てたら怒るとか」
「そうそうそう。そういう文脈に、言われてみればさっきの話は合うんですよ。でもそれは読んでみるまで気づけないことだった」
「なるほど。面白いね」
「でしょう? まだ他にもありますよ。主人公の男が同じクラスのミステリアスな女子に思いを馳せていて、少しずつ話すようになって行き、ある日いよいよ映画に誘おうと決心するって話なんですけど。誘う直前に別件で先輩男子の家にお招きされて行ってみると、そこでその意中の子が性奴隷みたいに扱われていて、先輩連中から輪姦されていたって展開になるんです。しかもその子と先輩連中の関係は常習的なものであることが態度を見て察せると」
「ほうほう」
「で、どうも見た感じそれはレイプではなさそうなんですよ。女の子は抵抗してないどころかむしろ手慣れてる様子で。まぁそうは言ってもなぜそんなことが起こっているのかは分からないし、実は脅されているとか本人も自分をコントロールできてないとかで内心はボロボロになってるのかもしれないけど、でもパッと見はよく分からないんです。だから主人公は困惑します。そしてなんとなく悟るわけです。自分が思いを馳せて、彼女と少しお喋りできただけで喜んでいた日にも、彼女はこうしてこのヤリ部屋で輪姦されていたんだって」
「うんうん」
「そして彼の気も知らない先輩が、せっかくだからこいつにも奉仕してやれって、その女の子を差し向けるんですよ。結果、それが主人公と彼女の初めてになりました。……するとその事の最中にですね、主人公が内心でキレ始めるんですよ。俺、お前のことが好きだったのに、こんなのあんまりじゃないか……って」
「ほう……?」
「それで結局その日から二人は一言も口を利かなくなってしまうんです。……これっておかしくないですか? 神様に向かってあんまりじゃないかって言うなら分かるんですよ。なんで俺の好きな子をこんな目に遭わせるんだって。でも主人公の内心は明らかに女の子へ向けてそれを言ってたんです。こんなことさせられて本当はつらくて仕方ないんじゃないかと心配するでもなく、ヤれたことに正直喜んでしまっている自分を恥じるでもなく、先輩たちに嫉妬や憎悪を向けるでもなく、女の子に向けて「あんまりだ」と言うんですよ。……意味不明じゃないですか?」
「意味不明だね」
「でもさっきも言った通り、エロ漫画はシコるために描かれているはずなんです。読者の大半が感情移入できないことを描いて、困惑でちんちんを萎えさせることは本意じゃないはずでしょう。ということは、一定数の男にはその主人公の気持ちが少なからず分かるということが推測できるんですよ」
「たしかに」
「だから僕はそこで、理屈は分からないけれども、どうも男の中にはこういうシチュエーションでそういうことを思う奴が一定数いるらしい……ということを学んだんです」
「はぁ〜なるほど。いや面白いね。理解はしきれないけど、なんか身近なはずなのに知らない世界を見てるみたいだ」
「そうでしょうそうでしょう。エロ漫画にはそういう魅力もあるわけですよ。いろんなことが学べるんです。間違った知識の温床だなんてとんでもない」
「なるほどねぇ。君の熱意とその訳はなんとなく伝わったよ」
「よかった。何よりです」
「他にはもっとないの?」
「他ですか。そうですね、夏祭りの隅っこの人気がない場所でエッチするっていう、そこだけ箇条書きにしたら定番っぽい展開の漫画があったんですけど」
「うんうん」
「愛し合ってセックスするというより、女の子がひたすら主人公に奉仕するって作風だったんです。で、主人公はそれに気を良くしてどんどん調子に乗っていくと」
「それで?」
「それで、彼は祭りも佳境になっていよいよ打ち上げられた花火を見ながら、木の陰で彼女にフェラをさせてたんです。……花火を見ながら彼女にはフェラをさせたんですよ? 彼女はフェラをしながらでは、どうしたって花火なんか見えないのに、自分だけは夜空に広がる景色を楽しんで」
「ほう」
「僕はそれを見るまで、人の尊厳を踏みにじる方法には暴力だとか、相手のしたくないことを強制するだとか、人格否定の暴言を吐きつけるといったことしかないのだと思ってました。要するにあからさまに加害的なことが相手の尊厳を破壊すると思っていたんです。けどお互い合意の上のフェラチオが、シチュエーションによってはこんなにひどいこととして映るんだって。裸で土下座させて服従の言葉を言わせるよりも、打ち上げ花火を見ながらちんぽをしゃぶらせていた方が、よほど相手の尊厳を蔑ろにしていると感じたんです。これは読まなければ気づかない発見でした。それにフェラで気持ちよくなれるのは男性側だけであることを思えば、その絵の構図は比喩表現としても成立していると言える気がするんです」
「へぇ〜! なるほどね、いや面白いよ本当に。人間の尊厳ってそういうものなのか」
「そういうものじゃないですか……? サキュバスは同じシチュエーションでも、何も不服に思わないものですか?」
「どうだろう。私はそもそも、A君もよく知ってる通り、いわゆる尊厳破壊のプレイに付き合わされてもべつに嫌な気持ちしないからなぁ」
「いやそれに関しては毎度どうも……」
「いえいえ。……まぁでも君の話を聞いてて私も分かったよ。確かにエロ漫画の中には、後世にも残していかなきゃいけない機微があるのかもね。特に二番目の男の子の話が響いたな。人間男性の気持ちが分からないようだとサキュバスとしても支障が出るし、考えさせられたよ」
「おお、そうでしょうそうでしょう? エロ漫画って思ってるより良い物でしょう? いや〜よかった分かってくれて」
「ふふふ。まぁでもそんなに心配しなくても、良さが伝わろうと伝わらなかろうと、エロ漫画やAVが今以上に規制されることはないと思うけどね。それどころかむしろ、今後はもっと自由になっていくんじゃないかな」
「え、なんでですか? 予言……?」
「いやいや。だってサキュバスにとって、そういう物の衰退は、人間の性欲の多様性の衰退だからさ。漫画やAVの真似事を要求されてこそ私たちはグルメになれるというものなんだよ。なのにそれを規制だなんて、サキュバスは誰もそれを許さないよ。……で、そのサキュバスの人間界における人口は、きっと今後も増加する一方でしょ?」
「あ、そうか。そうすれば多数決で少しずつ……」
「そういうこと。だから安心しなって」
「たしかに……! 人間界の未来は明るいですね!」



・いつもそう

「ネットを見てると、エッチな漫画の広告が当たり前のように視界に入ってくることがあるじゃないですか」
「あるね」
「そういう物のうち、一昔前に見た「男の人っていつもそうですよね!」ってやつが忘れられないんです」
「あぁ、「女の子のことをなんだと思ってるんですか!?」のやつね。たしかにA君はああいうシチュ好きそうだなぁ。弱みを握って尊厳を踏みにじって……」
「あ、いや、そこではなく」
「え、どこ?」
「興奮したから覚えてるという話ではなくてですね。苦い記憶として残ってるという話をしたいんです」
「えぇ、なんで苦くなるの」
「僕はあの広告を見た日からずっと、今日に至るまでも、考えさせられてるんですよ。……実際のところ自分は、女性のことをなんだと思っているんだろう……って」
「あー……」
「Nさんも知ってる通り、僕の性癖って終わってるじゃないですか」
「そう評する人もいるだろうけど、性癖に貴賎なしだと私は思うよ」
「ありがとう。でもやっぱり思うんです、女の子の尊厳を踏みにじる他のエロ漫画を読んでいる時や、痛いと泣き叫ぶヒロインを見て勃起している時に、あの広告を思い出すんです。自分は女性のことをなんだと思っているのかと……」
「……それでその問いに答えが見つからないの?」
「まぁ、そうです。でもなんとなく、答えとまでは言えませんけど、一つだけ確からしいと思える考えがあるんです」
「ほう」
「少なくとも僕は、女性だけではなく全ての他人のことを、自分と同じように自尊心と権利を持つ存在だとは、心の底からは認められないんです」
「ははぁ」
「極端に言えば、やっぱり他人のことってどうでもいいんですよ。なんだと思ってるんですか? って台詞は、私たちだってあなたと同じ人権と心を持つ人間なんですよ、だからあなたが自分自身にするのと同程度に人間としてふさわしい扱いをしてください……って意味が込められているわけでしょう? でも僕にはそういった全ての他人を、我が身可愛さと同じ強さで大切にすることはできないんです。他人にも心と権利があることが頭では分かっていても、ダメなんです」
「んー、それはべつに普通のことなんじゃないの? 人間なんて見るからに弱々しい生き物なんだから、そりゃ自分のことを大切にするだけで精いっぱいでしょ。他まで気が回らないのは仕方ないことだよ」
「でも、それにも度合いってものがあるじゃないですか」
「けどあの漫画ってゾンビサバイバル的な世界観じゃなかったっけ……? そんな極限状態なら度合い的にも致し方ない気がするけど」
「いや、けど例えば僕がお金持ちで、今日食べる物にも困ってる女の子がなんでもするからお金を貸してくださいって来たとして、その子にあんまりすぎる仕打ちをして「女の子のことをなんだと思ってるんですか」って言われたらどうです……? 極限状態には程遠くても、僕のような人間にはそういうことが全然あり得る話じゃないですか」
「いや缶ジュースの一本すらケチるような人が何言ってるの」
「仮にの話ですって」
「あり得ない仮定の話はするだけ無駄だよ。その世界線の君は今とはまったく違う人生を歩んでるんだから、思想や感性だって違っているかもしれないでしょ」
「じゃあべつに僕自身じゃなくてもいいですよ。そういう悪い金持ちって確率的に実在してるはずでしょう? そういう人たちに関してどう思うかって話じゃないですか」
「……う〜ん、まぁでもちゃんとお金を貸してくれるなら持ちつ持たれつじゃない?」
「あー、Nさんはサキュバスだからそう思うんですね……。慰み物にされることが苦じゃないから」
「あ〜そういうこと言う? 男の人っていつもそうですよね、サキュバスのことをなんだと思ってるんですか」
「……それ、もっとそれらしい状況で冗談抜きに言われたらトラウマになる気がしますね。今はギリギリ冗談だと分かりますけど」
「たしかに。修羅場と化したラブホの一室でショックを受けるA君の顔が容易に想像できる」
「いや本当に……。しかもあの漫画は結局合意の上でのイチャラブセックスに行き着くんでしょう……? 正直、それを知った時はつまらないなと感じたんです。イチャラブに対してそう思ってしまう僕のような人間は、あの広告でキャッキャ楽しんでる場合ではないんですよね。マジで」
「……まぁでもそこはお互い様だよ。私も同じこと考えてたもん」
「同じ……?」
「あの広告を見た時にさ、想像したんだ。たとえば、もしA君が真剣に落ち込んでる時に、もう〜元気出しなよ〜エッチさせてあげるからさ〜みたいなことを私が言ったとするでしょ? その時に、サキュバスっていつもそうですよね、人間のことをなんだと思ってるんですか……って言われたら、トラウマになるかもしれないって」
「あー……。ないとは言いきれない状況なのが怖いですね」
「でしょ? だからいつも心の片隅にあの広告があるの。メメントモリって感じで」
「なるほど、確かに同じですね」
「うんうん。でもね、そんな私たちにも一つだけ前向きに考えられることがあるんだよ」
「ほう?」
「要するにA君は、あの広告の先の展開みたいに合意の上のセックスが成立して、それを面白いと思えれば安心できるんでしょ? だとしたら私たちが合意の上でセックスすればハッピーエンドじゃない。あれだけ濃い性欲を出しておいて私とのセックスを楽しんでないとは言わせないよ」
「あー、なるほど?」
「弱みにつけこんで体を要求してきた男とも最終的にイチャラブになれればハッピーエンド、どうしようもないサディストのA君ともサキュバスの余裕を持った私がイチャラブするからハッピーエンド。そういうことでしょ」
「なるほど……。一理あるかもしれない」
「ね! だから私たちが仲良くできてるうちはそんなに悲観しなくてもいいんだよ。お互いにお互いが居てよかったねぇ」
「……ん? でもサキュバスがこれみよがしにセックスを持ちかけてくるのは、生きていくためのことですよね? 男の性欲は生きるための物ではないですし、情状酌量の余地に違いがありすぎませんか? 万が一道徳的な一線を超えてしまった時の、Nさんと僕の罪の重さは同じではないのでは」
「いや、だったとして何なのよ。君の性癖を受け入れた上でイチャラブするんだから万が一の罪なんて発生しようがないでしょ」
「本当にそうなんでしょうか。結局、合意の上のセックスが善とされるのは、そこに思いやりが発生するからなんじゃないですか? 合意の上だろうと思いやりの欠如した仕打ちが行われるようなら、作品自体が全体を通して読者に問いかけてくるはずです。この男は女のことをなんだと思っているのか……って。お互いの罪の重さが同じならまだしも、男の側だけ業が深いというのでは」
「あ〜またそうやって卑屈になる! A君っていつもそうですよね、さっき私がいい感じにまとめた話のことをなんだと思ってるんですか!?」



・マルチバースから

「醤油がテーブルの上に突然現れることってありません?」
「えっ? なに……?」
「醤油がね、たとえば刺身が食卓にあって、でも醤油が出てないなぁって時があるじゃないですか。けどそこで台所に醤油を取りに行くとどこを探しても見当たらなくて、誰だ決まった場所に醤油を片付けることもできないアホンダラは……と思って「醤油はどこに行った?」と家族に聞くと、もうテーブルに出てるって言われるんです。それでもう一度食卓の上を見ると、確かに醤油差しが立ってるんですよ」
「……それは君と入れ違いで誰かが醤油を持ってきたとかじゃないの?」
「それが刺身を出したのと同じ時に醤油も出したと言うんです。しかも同じようなことが何度も起こるんですよ。箸やコップの数が席を立つ前と後で変わっていたり、爪楊枝入れが醤油と同じように急に消えたり現れたり……。その全てが入れ違いというのは無理があるでしょう」
「なるほど。じゃあそれはシンプルに、A君の注意力不足なんじゃないかな。単に初めからあった物を見逃してるんだよ。まさか本気で醤油やその他の物が消えたり現れたりしてるとは思ってないでしょ?」
「いや、思います。そうとしか考えられない」
「……どうして?」
「昔ね、運送系の倉庫でバイトしてたことがあったんですよ。二ヶ月で辞めたんですけど」
「二ヶ月! 偉業じゃん」
「そうでもないんです。で、そこで働いていた時にも起こったんですよ、消えたり現れたりが」
「ふむ」
「今日運び出す荷物と、後日運び出す荷物の両方が入った大きな冷凍庫がありましてね。冷凍庫なわけですから、素早く作業してさっさと扉を閉めないといけないわけです。溶けちゃうので」
「うん」
「ところが言ったように、出すべき荷物とそうでない荷物がごちゃ混ぜに置かれているせいで、作業としては微妙にややこしいんですよ。なおかつ一つでも間違えるとそこそこ大事になると」
「あー、まぁそうだよね。日にちや時間が指定されているんだろうし」
「まさにそうなんです。……そうなんですけど、なぜか時々その冷凍庫の中から、僕が見た時には存在しなかった「今日出さなければいけない荷物」が出てくるんです。Nさんは……というかこの話を聞いた人は、単なる僕の見落としだと思うでしょうけど……」
「まぁそりゃあね……」
「でも僕は、前日に一度そういうミスをしたことを「今日は気をつけてね」とその日改めて注意されていたから、特に気をつけて荷物を見ていたんですよ。注意されたその日の作業ですよ? もう冷凍庫の中身を多少溶かそうとも伝票をガン見する心持ちで臨むじゃないですか。だって気をつけた結果作業が遅くなりすぎるっていうならジレンマにもなりますけど、見落としの方が改善しないとなったら、事ですから。それが分からないほど僕も馬鹿じゃないんです」
「でも見落とした、と」
「そうなんです。そういうことになったんです。……あのですね、冷静に考えてほしいんですけど、ガン見して見落とすなら、僕はそれ以上何をどう気をつければいいんですか? それ以上注意のしようがないでしょう。間違い探しをするつもりでじっくりと見てるんですよ? 間違い探しみたいにややこしいわけでもない物を……ただの伝票をですよ。見落とすなんておかしいじゃないですか。理屈が通らない。国境でパスポートを確かめるような難しいことをしているわけではないはずなんだから」
「ふむ……。まぁたしかに、普通に考えて二度目は見逃さない気はするよね。注意されてから日が空いて気が緩んで……っていうなら分かるけど、その日のうちに特に気をつけるつもりでやってなお見落とすっていうのは、ちょっと変かも」
「でしょう? だからその時気づいたんです。僕は世界線を移動してるって」
「世界線? なんで急に……?」
「本当に物が消えたり現れたりしていたら、僕以外の人だって驚いたり困ったりするでしょう? でもそうなっていないということは、他人にとって物は動いていなくて、僕にとってだけ物が動いている……。……つまり、動いているのは物ではなく、僕自身の方なんじゃないかと考えられるわけです。僕は醤油が出てなかった世界線から出ていた世界線へ、荷物がなかった世界線からあった世界線へ、瞬きをした拍子にでも移動してるんですよ。制御できず、気づく間もなく勝手に」
「……それは冗談抜きに本気でそう思ってるの?」
「いや、半信半疑です。物が消えたり現れたりすることと同じくらい、世界線の移動も信じ難いことですからね。だけど目の前にある物を意識的に探してなお見つけられないことも、同じくらい信じ難い。全てが信じ難いんです。だから全てが半信半疑なんですよ」
「なるほど……」
「それに、もっと昔に遡るとですね、ポケットの入口よりも大きい物がポケットの中に入っていたこともあったんです。入っていたって固形物がですよ、柔らかくもないやつが」
「え、それは物理的にありえなくない?」
「それがそのポケットというのはリュックサックの外ポケットで、リュックの表面の一番広くて平たい部分がカンガルーのポケットみたいになってたんですよ。しかもそのポケットというのは真ん中を蓋代わりにボタンで留める物なので、ボタンが留まった状態の口は底辺よりも狭いんです」
「……それで?」
「出先で財布がなくなったって大騒ぎになったことがあって、消えた財布がそのポケットの中から発見されたんですよ。ボタンが留まった状態のポケットですよ? たまたまボタンが外れてしまって、そこに財布が滑り込んでしまったということならあり得るでしょう。けど、その偶然のあとにさらにボタンが留まるなんてことがあり得ますか? ガチって音が鳴るような金属製のボタンですよ? ワイシャツのように穴の中に通すタイプではなく、凹凸を合致させるタイプのボタンです。リュックの中身をギチギチに詰めていたわけでもなく、外面なんて押せばへこむような状態だったわけです。そこに付いている固めのボタンが、偶然で開いて、偶然で財布がすべり込んで、偶然で閉じるなんて、あり得ないでしょう」
「それは確かに、君の言う通りのことが本当に起こったなら奇妙だ。あり得ないことだと私も思う」
「でしょう? でもそのあり得ないことが起こるんです。だったら世界線の移動だって起こりかねないって話になるじゃないですか」
「…………まぁ確かにそうだね。もし君の語ったことが単なる記憶違いの類だったのだとしても、君の視点から見た「あり得なさ」は変わらないのだものね」
「そうなんですよそこなんです。結局、ぼくがただの頭のおかしい奴だったとしても、ぼくの生活に難があることには変わりないんです」
「うんうん」
「それでですね、世の真人間たちは僕みたいなダメ人間を見ると、職種には向き不向きがあるんだから色々な仕事を試してみればいい、挑戦することが大事だって言うんです。でもどうです? 世界線を移動してしまう人間に向いてる仕事って何なんですか? それってつまり「見落とし」が問題にならない仕事ってことじゃないですか。そんな仕事存在しないでしょう」
「まぁたしかに、それはそうかも」
「でも働かないことにはやっぱり、生きていけないわけでしょう? 僕の親はサキュバスじゃないから僕よりずっと早く死にますし。人間だから」
「うん」
「でも、じゃあ、結局、出来る仕事って何なのって話じゃないですか。人生が切羽詰まり次第楽に死ねれば話は早いんですけどそれも簡単じゃないですし、そうすると僕はいったい、今後の方針として、どうするべきなんですかね……?」
「……もしかしてだけど、まずは病院に行くべきなんじゃない? 断定的なことは言えないけど、なんとなく」
「病院に行って、仮に注意欠陥とかの病名が付いたとして、それで何か変わりますか……? 世界線の移動が止まったり、見落としが問題にならない仕事が現れたり、楽に死ねる方法が見つかったりしますか?」
「詳しくないし分からないけど、何か変わるかどうかを確かめるためにもまずは診断を受けてみるっていうのが一つの手なんじゃないかな」
「……そう言われると確かにそうですね」
「うん。……不安なら一緒に行ってあげようか?」
「お願いしたいところですけど、でも、それって今すぐじゃないとダメですか……? 病院に行く分の時間を使って、僕はまだ、今まで通りの生活を謳歌することも出来るわけですよね。親はまだ生きているわけですし。いつかは行かなければいけないのだとしても、そのいつかって今すぐなんですかね……? 今すぐ行くことでむしろ取り返しのつかない損をするってことはないですか? 何か引き返せなくなるとか……」
「それは……どうだろう。分からないよ」
「僕も分かりません。分からなくて今日に至ります。でも、それでその今日っていうのはどう見ても、かなり幸せでしょう?」
「……それは、そうだねって言っていいの?」
「…………分かりませんね、それも」

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