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もし俺がその文章を見せられてこられてきてたとしたら絶対に統合を失調してると思うと思うか?

 この文章の書き手の頭がそれなりにまともであることを示すため、まずはタイトルの元ネタを説明しようと思う。
 元ネタは「かまいたち」というお笑い芸人コンビの持ちネタだ。詳しくは「もし俺が謝ってこられてきてたとしたら絶対に認められると思うか」でググッてみてほしい。百聞は一見にしかず、きっとそのネタが実際に使われている動画だって出てくるだろう。そこから全てを理解してほしい。
 タイトルについての話はこれで終わる。……さて、それで数年前にぼくは、インターネット上である衝撃的なコメントを見つけた。そのコメントは、とある「どちらかといえば長い」ということ以外には何の変哲もない文章に対して向けられた物だった。
 その批判的なコメントはたった一言、
「統失か?」
 とあった。
 統失とは言わずもがな、統合失調症のことである。そして、これまた少しググッてもらえれば分かることかと思うが、統合失調症を患っている人の書く文章には、いくつかの特徴的な要素がある。その特徴のうちの一つが「えらく長い」という物だ。
 しかし当たり前だけれど、誰がどう見ても「長文」の括りに含まれるような長い文章の全てが精神病患者等々の手によって書かれているのかというと、もちろんそんなわけはない。この世に数え切れないほど存在する長文のうち、そのほとんどを書いているのは健常者だ。そんなことは言うまでもなく分かることだ…………とぼくは思っていた。
 なのに、である。なのに、少し長いこと以外には何もおかしな点がない文章に対して、「統失か?」というコメントが付いていた。ぼくはそれを見て衝撃を受けた。どちらかといえば病的なのはそのコメントの方だろう……とすら思ったけれど、それに関しては単なる感情的な悪口だった。
 悪口はどうでもいいけれど、そんな風に衝撃を受けたことで、ぼくはある一つの気付きを得た。それは「統失の文章」の定義が人によって違うということだ。……そういう言い方をするとまだ意味がよく分からない感じになってしまうけれど、とりあえず続きを聞いてほしい。
 統失の書いた文章という物が実在していることを、ぼくは実物を見て知っている。冗談抜きに病的な文章というものは、その気になればインターネットで適当な物が見られるのだ。……そしてそれを見たぼくは、その実物を真剣には読まなかった。書いてある内容がおよそまともな物ではなく、その上長いので、これを読むくらいならYouTubeの広告を飛ばさずに見る方がまだマシだと思って、内容のほとんどを読み飛ばした。……「ぼくは統失の文章を読まなかった。その価値もないと思った」という点が重要だ。
 先に述べたように、どうやら人によって「統失の文章」の定義はブレるらしい。それはつまり言い方を変えると、人によって「読む価値のある文章」の定義はブレるらしい、という意味になる。そういう言い方をするとすごく当たり前のことのように聞こえるものだけれど、しかし、ほとんどの人はそれを(もちろんぼくも)、当たり前と言ってのけられるほどにしっかりとは理解できていないように思う。
 これは今回の話を展開するにあたってすごく重要なことだけれど、統合失調症の人は、その特徴的で正気の沙汰ではない文章を書く時に、「よーし、読む価値もない文章を書いてやるぞ」とは思っていない。本人としては真剣に、意味のある文章、読む価値のある文章を書いていると認識しているはずだ。聞く価値のある話をしていると確信しているはずだ。その点においては、統合失調症の人々は全ての健常者と全く同じである。
 大事なことなのでもう一度言う。精神病だろうとそうでなかろうと、文章を書いて公開する人はみんな、程度の差こそあれ「価値のある文章を書こう」と思って書き、それを公開している。ぼくだってそうだし、誰だってそうだろう。
 ではそれが普通である世の中で、読む価値のある文章……ひいては聞く価値のある話の定義がブレるとは、いったいどういうことなのか? それを示すちょうどいい話があるので、ここでタイトルを回収しようと思う。その話はコンビ芸人「かまいたち」の一人、山内が語った、彼の大学時代の話だ。
 適当にテレビをつけたら映った、タイトルも忘れたその旅番組で、山内は大学の同級生と再開し、こんな昔話をしていた。
 彼は大学時代、卒論の締切を勘違いして、どうしたって提出が間に合わなくなってしまったことがあったのだという。とはいえもちろん提出の意思はあったので、当時の彼は、どうにか期限を情状酌量的に伸ばしてもらえないかと、大学内のしかるべき機関へ相談しに行った。そしてそこで「期限という物は理由があるから定められている物なのであって、他の人たちは皆それを守っている。なのに君にだけそれを「はい、そうですか」と伸ばしてやるわけにはいかない」と至極真っ当な説教を受けたのだという。彼も初めのうちは反省して、その説教を「はい、本当にすみません……。しかしそこをどうにか……」とそこそこ真面目に聞いていたらしいけれど、そのうちに段々と彼は、その説教が延々と続き、無駄に長ったらしいことについて腹を立てていった。
 そしてある時、情状酌量を願う立場でありながら、彼はキレたのだという。
「で、期限は伸ばしてもらえるんですか? もらえないんですか? 伸ばしてもらえるなら説教も聞きますけど、そうじゃないならもういいです」
 そう言われた相手は当然怒髪天となって、山内の倍の勢いでキレ散らかしたらしいが、ともかく最終的には、なんやかんやあって卒論の期限を無事に伸ばしてもらえたらしい。めでたしめでたし。
 ……という話を聞いて、山内の相方の濱家や、山内の同級生は「お前やばすぎるやろ」と感想をコメントしていた。「完全に逆ギレやん」と言っていた。しかし山内のすごいところはそこからだった。
 彼はその話を、あの時の俺は馬鹿だった……という風にはまとめなかった。大学時代を懐かしさと共に振り返るような年齢になった彼は言う。
「まぁ今でも同じこと思ってますけどね。だって結局期限が伸ばしてもらえないんだったら、そいつの説教を聞くメリットなんて俺に何一つとしてないんだから」
 こいつやばぁ……と濱家がドン引きして、そのくだりは幕を閉じた。
 ……さて、ここで一つ考えてみたい。山内の一連の話は、「彼の人間性がおかしい」という結論一つで片付けてしまってもいいものなのだろうか? ……ぼくはそうは思わない。
 たしかに、自分の過失を許してもらおうとする立場の人間が、その過失についての説教に対して実際にキレ返したという点については、相当クレイジーな行動をしているとしか言えないとは思う。けれど、「許してもらえないのであれば、説教を聞くメリットは何一つない」という考え方自体は、そんなに狂ったものだろうか?
 ただ口に出さないだけで、長々とした説教を受けている最中の人の多くが、同じようなことを考えているのではないか? ありがたい、ためになる説教だ、これを次に活かして頑張らなければ……! と考えながら、十分も二十分も真面目に平謝りをしづけるような人間が、世の中にはたしてどの程度いるものか……?
 山内の「行動」はともかく、「思考」は、それほど特別な物ではないように思える。そしてもしそうであるのだとすれば、「長い説教」とは、「聞く価値もない長文」なのだ。
 他人からの長ったらしい説教を、ありがたいと思ったことはない人たち。説教といえばうっとうしい物だと考えているような、べつに珍しくもない大多数の人たち。その人たちにだっていつかは、下の立場の人間に説教をしなければならない時が来るだろう。説教をする側だって、される側のしんどさを経験としては知っているのだから、「自分は今ありがたい話をしてやっているんだ!」とは早々考えないはずだ。そのはずだけれど……。
 いったい、世の中の説教をしている最中の人たちのどのくらいが、「自分は今「統失か?」と思われているかもしれない」なんて考えるだろう? ほとんどの人はそんなことは考えないように思う。すでに言ったように、原則として人間は「価値のある話をしよう」と思って話をするからだ。それは説教をされる側から、する側に回らなければならなくなった時だって例外じゃない。せめて価値のある話をしよう、ここはきちんと説教をしてやらなければいけない、……そう思っているからこそ、自分の話が、相手からは病的な戯言だと思われているかもしれない……なんてことについては、考えもしない。
 けれど実際には多くの人が、多くの説教に対して、大して聞く価値のない物だと感じているように思う。……この世から長ったらしい説教が消えてなくなりはしないことと、その一方でそれは嫌われがちな物だという共通認識が広まっていることが、その何よりの証拠ではないだろうか。
 そこでぼくは思う。話す側と聞く側の間に生じるそのギャップの存在が、頭から抜け落ちてしまった者から順に、「病的・まともではない」の領域に足を踏み入れていくのではないか。大して内容がないのに話が長いと陰口を叩かれる人に、あるいは読み飛ばされる文章を書く人に、それを忘れた瞬間から自分もなっていってしまうのではないか。
 ……この話がブーメランであることは分かっているけれど、分かっていてもどうにもならないことがあるとは理解した上で、上記のギャップの存在について、ぼくは忘れてしまうことだけはしたくない。それが文章を書いて公開したり、人に話をしたりする者に求められる、最低限の心がけであるように思う。
 自分の話を、聞いてもらって当然の物とは思うな。自分の話に、価値があって当然の物とは思うな。……それを忘れた者から順に、まともではなくなっていく。「聞くメリットが一つもない」と思いつつ、それを口には出さずに従順に振る舞っている相手へ向かって、つらつらといつまでも説教を垂れること。それを傍から見た場合の滑稽さを、何らかの発信をしている者はすべて、頻繁に思い出さなければいけない。よほど才能がない限り、誰だって匿名のコメントから「統失か?」と言われる可能性があるのだから。言われなくとも、そう思われる可能性があるのだから。
 ぼくだって文章を読み飛ばすことがある。人の話を聞き流すことがある。それが健常者によって発信されている物だとはっきり認識していても、その上でなおそうすることがある。一度もそれをしたことがない人間なんて、存在するのか……?
 ……ぼくは趣味で小説を書いている。投稿もする。最近書いた物なんか、1作品の文字数が10万文字を超えた大作になった。そしてもちろん、ぼくはそれを面白い物だと思って書いている。……けれど小説を書く時にはいつも、ある画像のことを思い出す。

 ……この画像があながち冗談でもなく、わりと世間の認識の「普通」なのだということを、忘れてはいけない。覚えているだけで改善できることなんて何一つなかったとしても、それならせめて改悪を避けるために、とにかく、忘れることだけはしてはいけない。何かを投稿・公開する時は、いつもそう思う。
 だから同じことを思いながら、ぼくはこのnoteを投稿する。大抵の人は山内の話を聞いて「逆ギレだ」と感じるだろうけど、キレる本人からしてみれば、この世に「逆ギレ」なんて物はない。逆に言えば、これを読んでいる人が「自分は正当な理由があってキレている」と思っている時、他人はそれを見て「逆ギレだ」と思っている可能性だってある。
 そのことが頭の中に入っている人間だけが「まとも」なのだと、ぼくは思う。ただ、ぼくの文章を読み飛ばす人たちの中には、それが抜け落ちている人も多々いるのだろうと思うと、そのことにだけは納得がいかないのだ。

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