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三年半

将棋を観るようになって三年半ほど経ちました。

その間 将棋に対する感情はゆるやかに変化していますが、離れることなく観つづけています。本を読んだり映画を観たりするのと同じくらい将棋を観ることが暮らしになじんできました。将棋観戦を知らない毎日ってどんなふうだったかなとおもうくらいには。

とはいえ観るだけですので、棋譜を眺めるだけでは理解が行き届きません。
それでも、棋譜コメントを頼りに局面を追っている間は日々の雑事から離れて没頭しています。時間ごと自分が消えるような感覚を抱きながら、一方であらゆる感情がかき立てられもする。わたしにはまったく関係ないことなのに、まるで自分自身が何かを体験したかのように終局後も胸に残っている。不思議です。
対局と同時進行の棋譜コメントだけでなく、日を経て新聞やウェブに掲載される観戦記も将棋を観つづける上で大きな支えになっています。指し手の意味を深く理解できなくても観戦記者の方々が選んだことばから将棋に向かう心のありようを知り、共感することはできる。

そうやって得たことばが少しずつ積み重なって、日々の観戦の土台になっていく。そんなふうに感じています。


ところでいま、豊島将之八段が白星を積み上げていますね。

A級順位戦プレーオフに王将戦七番勝負。大変ハードな対局日程で心配になりますが、豊島先生、先日の王将戦第5局前夜祭の場で「厳しい日程が続いていますが、昨年10月ぐらいから忙しい状況下で指していて、体が馴染んできたと言いますか」(王将戦中継ブログ「前夜祭(4)」, 2018年3月5日)とおっしゃったそうで。
体が “なれる” のではなく “なじむ” っていうんですから凄みがあります。
我が身のすれっからしぶりを忙しさのせいにして生きてきたわたしには、そんな姿がただまぶしい。黙って豊島先生の対局を観るだけです。

豊島先生を表すことばは棋譜コメントや観戦記でたくさん見てきたけれど、いまの豊島先生から真っ先に思い起こされるのは、将棋を観はじめたころに読んだ観戦記のこの一節。

 豊島将棋を「駒に意志があるかのような将棋」と、畠山鎮七段がテレビ棋戦の解説で言い表したのを思い出す。これは駒の意志を信じきっている指し方なのだろうか。むろん十全な研究の裏付けに支えられているからこそ、こういう指し方ができるのだろう。
(中略)
 その22分の間に筆者は手帳のメモに「步」〔“歩”の旧字体:引用者注〕という文字を書きつけていた。挑戦者の指し方が走っているのではなく「步」いているふうに見えてきたからだ。学生時代に漱石、鷗外、芥川、太宰などを正字の版で読んだ者としてはなじみの文字である。「步行(ある)く」の表記も珍しくない。『新字源』の明記するように、「歩」という「教育漢字は字画を誤った俗字」。
 前日の取材対話でこの人が将棋と将棋に直接関係すること以外の一切の世俗に無関心であることを確信した。この人には俗事も俗字も似合わない。

『日本経済新聞』2014年10月4日付朝刊掲載
▲豊島将之七段−△羽生善治王座
第62期王座戦五番勝負 第2局観戦記
第5譜「駒の意志」|記:柳瀬尚紀

いま読み返すと思わず膝を打つ表現ばかりですが、はじめて読んだときは将棋や棋士のことをよく知らず、それでも強くひきつけられたのが最後の一文でした。

この人には俗事も俗字も似合わない

まるで殺し文句みたいに大胆で、柳瀬さんがこんなふうに書くなんて、豊島先生とはいったいどういう人なのか……と驚きました。

そしてまた、最近の豊島八段を見ていると、〈この人には俗事も俗字も似合わない〉の一文は決して大袈裟ではないとわかります。ぎりぎりの距離感をもって讃えたくなる気持ちがわかる。


将棋を観るようになって三年半ほど経ちました。
時を経て、過去に将棋から得たことばが豊島八段の姿を通して一層あざやかに感じられた、そんなことがうれしいのです。
たった三年半ですが、ことばが思い出されるのを待ってくれていたようで。

つづける楽しみって、たしかにありますね。