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4日で二人の祖母を見送るということ

「家のおばあちゃん、もう危ないかも」

母からの連絡を受けた翌日、12月17日。実家の祖母が亡くなりました。

祖母は小学生の時に尼崎から空襲で焼け出されて兵庫の田舎へ疎開。祖父と結婚してから慣れない農作業で脚を悪くしながらも3人の子供を育て、僕たち孫の面倒も見てくれました。

戦争を生きた世代として、相当辛かったこともあったと思います。それらをすべて飲みこみ、いつも明るく前向きに僕たちを励ましてくれました。家族で一番メンタルが強い人だと思います。僕がいまでもしんどい状況で前を向いていられるのは、祖母の生き抜く力を感じていたからかもしれません。

急ぎ兵庫の実家に帰ると、葬儀には金沢や東京から僕の従兄弟が何十年ぶりに集結していました。すっかりオッサンになった僕たちの顔を見たら、祖母はなんて言うのかなって思いを馳せました。

喪主挨拶の折、僕の父が祭壇の方を向いて「おかあちゃん、ありがとう」って声をかけました。僕も高校生まで知らなかったんですけど、父は幼くして母親を亡くし、父が5歳のときに祖母が嫁いできたそうなんですね。

父の一番古い記憶は、結婚前の祖父と祖母が自宅で挨拶を交わしている光景を「なにやってるんだろう?」って眺めていた記憶だそうです。それから65年、我が家をずっと支えてくれた祖母に、父からの数え切れない感謝が込められた言葉だったのかなと思います。

お骨上げを待っているとき、雪が降り出した

葬儀の翌日、午後の新幹線で横浜に帰ろうとしたら、今度は在宅介護が続いていた母方の祖母の容態が急変しました。

母の実家と僕の実家は車で10分しか離れていません。訪問看護士から連絡を受けて、僕は母を乗せて母の実家に向かいました。

しばらくして母から「おばあちゃん、亡くなったんや」と言われました。

母方の祖父が亡くなったあと、祖母は独り暮らしで5年以上も在宅介護が続いていました。いつ亡くなってもおかしくない状況でしたが、まさか実家の祖母の葬儀が終わってから僕が横浜に帰るまでのジャストなタイミングで亡くなるなんて。

母方の祖父と祖母はずっと二人で暮らしていたので、僕が遊びに行くとすごく喜んで迎えてくれました。僕も母の実家に泊まるのが大好きで、いまでも幼い僕と祖父母が三人で一緒に寝る場面を思い出します。

結局、横浜に戻るのを延期して、そのままお坊さんを迎えたり葬儀屋との打ち合わせに付き添って一日が終わりました。母も連日の段取りで疲れていたので、今夜は僕が一人で母の実家に泊まって、線香とロウソクの番をすることにしました。

いま40年ぶりにあの日の光景が再現しています。遺影の祖父、静かに眠る祖母、それを眺める僕の三人。

神様がプレゼントしてくれたかもしれない貴重な最期の時間。今夜はゆっくり祖父母と話をしようと思います。


火葬場にある桜の木。季節外れの花がわずかに咲いていた。

4日で二人の祖母を見送って「順番」という言葉をしみじみ実感するようになりました。

僕の長男は高2なので、長男から見た僕は、あの頃の僕が見た父と同じ意味を持ちます。あと10〜15年すれば僕もあの頃の祖父になります。

父との想い出、祖父との想い出を次の世代へつなげられるように、日々を過ごしていこうと思いました。

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