その在り方と拠り所は実在する
前回の記事を書きながら
うっすら湧き上がってきた
感情があって
↑の書記のなかに
これが
氣になってしまった
∴
では いったい
どんな自分だったら
想い出してもらえるのか?
∴
その捉え方になると
それを基準にして
「生きていく」
になってしまう
のでは
∴
「想い出してもらうために」
生きる
というのは
どうなんだろう
(そのような人がいらっしゃっても
否定なし、自由)
∴
なんとなく
その考えかたは
今のわたしにとって
肌が合わないというか
ある宗教観によれば
それは当然なことかもしれないが
∴
「ただ生きる」っていうのに
「想われるために」
生きる、
なにかがしっくりこない、
∴
これはどうだろう
「ただ生きる」っていうのに
「御役に立つために」
生きる、
、、
どちらかとゆうと
しっくりきてしまう、、
∴
命の活用法みたいなものなのか
これは
人それぞれ
個性や役割みたいなものが
含まれているのか?
∴
よくわからないので
言葉にもできず
もやもやしたまま
∴
そのようなときは
無理に
ハッキリさせない
これもひとつの勇氣
位置を定めずとも
探りながら
進めばいい
∴
ひとつ自分に分かっているのは
御役に立つ
という信念なければ
わたしはすぐに堕落する
サボり
楽なほうへと流される
いわば
じぶんの中に言霊として
建てている
在り方であり
拠り所のようなもの
なのかと
∴
なにに重きを置き
なにを建てているのか
それズレなければ
この世はなかなかおもしろい
弥栄
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