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ソロキャンホリック。

 年に数回、3日間休みが取れる日に、人里離れた山の中で1人テントを張る。

 行き先はGoogleマップの等高線と衛星写真で探し出す。
 東西に流れる渓流で、日当たりが良い。標高は500メートル以上で、上流には人家がなく、人里からも5キロメートル以上離れていて、川幅が3メートル以上あり、細い支流が近くにあればなお良し。山登りがしたいわけではないので、林道沿いになる。
 現地までの交通手段は、新聞配達でよく使われている原付バイクのカブ。荷台にキャンプ道具を積載してノロノロと向かう。

 たいてい林道入り口には「熊に注意」の看板があるが、まだ出会ったことはない。
 
 キャンプ地へは昼前につく。ついたら荷物をバイクから下ろし、ビールを川へ沈める。風の通りを考えてタープを張り、木々の間にハンモックを吊る。

 一息ついたら周囲を見て回る。林道の先、ヤブの向こう、支流の上流。
 時折、熊よけに声を上げる。「ホーウ」っという声が山の緑に溶けて消える。

 あたりが”自分の庭”のような感覚になればパトロールは完了。これをしておくだけで、夜、辺りが暗闇に包まれても恐ろしさをさほど感じなくなる。

 川で冷やしていたビールを空け、ハンモックに寝そべる。持参してきた本を読む。

 腹が減ったら、支流へ水を汲みに行き、一人用のアルミ鍋にガスバナーで湯を沸かす。インスタントラーメンを放り込んだら、街で買ってきた握り飯を食う。山での握り飯とインスタントラーメンの組み合わせは至福。
 汁を飲み干したら、枯れた雑草で鍋を拭う。油を吸い込んだ雑草は焚き火用に取っておく。

 夕方まではハンモックで過ごす。うつらうつらと時が流れる。なにかの気配に目を空け耳を澄まし、川の音、蝉の声の中でまた眠りに吸い込まれていく。

 夕刻。カナカナが鳴き始める少し前。川で汗くさい身体を洗った後、釣りに出かける。夕食用にイワナかヤマメを一匹釣る。
 川の中の水の流れを想像し、自分が渓魚ならどこで餌を待ち構えるかをイメージして釣り糸を垂らす。周囲の音が少しずつ遠ざかっていき、釣り糸につけた「目印」に集中する。静まり返った世界で「目印」そのものになる。
 場所を変えつつ糸を垂らしていくと、時折、背筋に視線を感じぞくりとする。魚を狙う私を狙っている何か。(日本では人間を餌にする動物はいないが)食物連鎖の中にいることを実感し、身震いする。
 岩の下がえぐれているポイントを見つけ、少し上の落ち込みから餌を落とし、岩の下に潜るように流す。それまでゆらゆらしていた「目印」が根がかりしたように固まる。イワナか。数秒まって合わせると、ぐっと引き込まれる。かかった。逃れようとする振動が手に伝わる。

 釣り上げたイワナの頭を岩に叩きつける。生きているものを殺す作業は何度やっても恐ろしい。申し訳ないと思いながら、その場で腹を割き、内臓とエラを取り除く。キャンプ地に戻り火をおこして食う。

 街へ降りれば誰かが殺してくれた魚がいくらでも手に入る。今日この一尾を食べなくても自分は生きていける。わざわざ殺す必要はない。ないのだが、かかった瞬間の興奮と獲た物を食うことの達成感は、年に数度のこのキャンプでしか味わえない。

 命が胃袋の中で溶けていく。

 25度の芋焼酎を生でやりながら、小さな焚き火を育む。
 足元から染み出してきた夜がやがて空に行き渡り、そこかしこで星が瞬き始め、この大地が宇宙の中にあることを実感する。そして、自分のちっぽけさに安心する。そうそうそうだった、俺は塵芥(ちりあくた)のようなものだった、と。

 ちびちび芋焼酎をなめていると暗闇の向こうに何かの気配。鹿か狸か、物の怪のたぐいか。クマは昼行性のため心配はない。まあ、襲われることはないだろうと暗闇に小石を投げ込み飲み続ける。夜がふける前に出来上がり、テントに潜りこんで、就寝。

 その後は朝までぐっすり、ということはなく、人里離れた夜の森。何かの足音に目を覚まし、テントを何度もバンバンたたいたり、深夜から暴風雨にみまわれずぶぬれになりながらテントを押さえ夜が明けるのを待ちわびたり、朝方腹が痛くて目を覚まし、薄暗い中トイレに行こうとして足を踏み外し肉離れをおこした瞬間、漏らしたりと、大抵何らかしらのトラブルにみまわれる。イワナのたたりだろうか。

 ぼろ雑巾のようになって朝を迎え、なんとか生き延びたという実感を抱えながらも、次のキャンプ地を目指せるだけの気力は夜の間に使い果たしており、バイクを走らせ逃げ帰るように帰途につく。
 家の風呂に入りもう二度と行くものかと思うのだが、翌日晴れ上がった中で、キャンプ用具を干していると、疲労を忘れうずうずしてくるから不思議だ。

 ビールを片手に塵芥は次の行き先を探し始める。


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