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不幸そうな人には近寄らない

不幸そうな人には近寄らないようにしています。やむを得ない場合なら、早く離れるようにする。親戚だろうが知り合いだろうが。たぶんこれは世間では、常識では、冷たいと呼ばれる所業です。


「かわいそう」の決めつけは、わたしはしたくない。それが「かわいそう」なのかどうかは本人次第でわたしにはわからない。どんなに「かわいそう」に見えても本人はそうじゃないことだってあるし、「かわいそう」と決めつけたとたんにその人は「かわいそうな自分」になってしまう。「そうなんだ、わたしはかわいそうなんだ」と自分で自分のことをとらえてしまう。


不幸そう、の定義は「かわいそう」の決めつけに似ているけれど否なるもので、じゃあわたしにとって不幸そうな人とはどういう人なのかというと、「わたしがこうなりたくないな、と思う人生を歩んでいる人」だと今は考えています。なんだかいろいろある人生を歩んでいて、しかもそれが楽しくなさそうな人。人生にはいろんなことがおこる。それはそれでしょうがないとしても、それに対してまあだいたい楽しくなさそう、常に悩みが多い、こじらせている、困っているのにそこから動こうとしない、そういう人をわたしは「不幸そうな人」だと思うらしい。


不幸は伝染する、といいます。類は友を呼ぶ。人は周波数、モノのとらえ方、発しているもの、などが似ていないと「なんか違う」とどこかで感じるときは距離を置く。長い時間一緒にいられるということは、自分の気はその人に同調しているということ。不幸そうな人の話を聞いたり共感してあげたりするのは思いやりのある行為だけれど、自分がしんどい思いをしてまでそれをする必要はないのです。なぜならその行為は確実に自分のマインドを削り、自分の気持ちや気分もそこに同調し、自分も「不幸そう」になってしまうから。わたしには「でも、それはそれ」と気持ちを切り替えられる自信がない。よって不幸そうな人にはそもそも近寄らないのです。

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