さなコン2024作品応募の執筆備忘録(創作を学ぶには……)
二次審査結果公開となったのと、九頭見 灯火さんのさなコン作品ラジオレビューなどからの反省点をふまえて書き残しておこう。(本記事文面はカジュアルでいく。)拙作の応募版と改稿版は後の作品名リンクよりたどってほしい。SFに強い方から審査前提の作品へレビューを聞けるのは私にとって初の機会なので貴重でとてもありがたいものだった。なまじ過去にふわっと数作書いていた程度の身なので学びあるレビューは嬉しいもの。これが応募の醍醐味かと心揺れた。次はもっと良いものを書こうという気になるのでヘタクソが成長するのは道理だとわかるね。
創作を学ぶには。
美術界隈の一般公募においては、芸大・美大の専門講義科目があり、小下図(エスキース)から完成作品を合評会で現役作家(教員)に見てもらう授業形態がある。小説を創作と呼ぶなら同じく、小説においても応募(コンテスト)があるし応募作家が自作の評価を聞き学ぶ場があっても不思議はない。九頭見さんのようなSFに精通している人のレビューは本当に貴重で大切な場だと言える。それでいうならゲンロン大森望SF創作講座はまさにその芸大・美大が行いう講義モデルを小説版で形にしている。第一線のプロ作家が梗概から実作、講評の場を設けて。その形態は大学の専門授業と何ら変わらない。文学部に大森望研究室があっても不思議ではない。だからSF作品で力をつけたい人は講座料はやる気次第で値打ちがあると言える。(べつにステマじゃないよ)
さなコンはSF作品執筆者にとって近年認知度の高い公募だと私は受け止めている。審査員をなさる先生方の名を見れば、日本SF作家クラブをはじめゲンロン大森望SF創作講座サイトで拝見した作家さんや文学フリマ38を機に知った作家さんがおられるし実力があれば講評ももらえる。とにかく創作で力を付けたい人間には良い機会。ただし講評をもらえるまでが高い壁になっているのは知っておかないとだめ。今回のさなコンから一次通過だとフィードバックはいただけない。そう考えると良い小説を書けるのは日本語ができるからって誰でもできることではないとわかる。因みにフィードバック無しの身からすれば過去にもらえた人間、これからもらえる人間、それはどんな文面でも感謝しておいたほうがいい。一度なくなってしまった一次通過のフィードバックはもう復活はしないだろうから。一次通過フィードバックが無くなった理由は大人の頭で考えればわかるだろう。
書かないと結果もクソもない。
今回10年近く久しぶりに下手クソながら小説?という形になるものを書いた。というか偶然書けた。過去ほぼ読み専に徹していたので、小説読みもやっと今年春頃から復活した。だから作品を応募すると全く考えてなかった。さなコンはフォローしている作家さん絡みで知ってただけ。小説コンテスト経験もゼロ。ではなぜ今回応募に至ったか。それは文章を出力するゆとりができたから。生活環境面で情報量が多いと脳内でノイズが煩い。執筆どころでない。過去漫画の作画と下手ながら小説(感想含め)両方やっていた時期ある。だけどある時から両方で全く筆を取れなくなった。スランプね。受けつけない状態。それで創作の一切を暫く年単位で無期限中断していた。音楽聴くのもかなり減らした。素人趣味作家とはいえよくある問題で回復してきて現在に至ると。
さなコンに応募できたのは、プロットが幾つか作れていたのが前提としてある。執筆面では応募規定の字数10000、書き出し以外は自由、国外からの応募でも可、この三つの要素があったから。字数10000については、この量なら持ってるプロットで書けるかと考えた。書き出しの下り以外は自由に発想して書ける規定なので使えそうなのを当てた。国外からの応募が可能な点は言わずもがなで良い時代になった。時代を反映されているありがたいコンテストだ。規約説明が整っておらずグレーすぎて明瞭さに欠ける点はあれど、さなコンのグローバルスタイルは親切で感謝している。素晴らしい。
とはいえ他人様の作品へ感想を書くばかりが多かったのでプロットがあっても物語を肉付けしていけるかは別問題。だから得意分野で物語を作るほうが作りやすいと考えた。それで選んだのがコーヒーのおはなし。コーヒーが好きだからコーヒーで何か書きたいという長らくの欲求が噛み合わさって完成してしまったのが今回の応募作。けれど思っていたほど創作は単純ではなかった。な~んかしっくりおはなしが終わってない気がする迷走した作品が完成した。字数も遥かに超えて。字数が増えたのは自分の頭に描く事柄が読み手に把握してもらえるか。文章をまともに書けているかという不安から。(創作ブランク10年あるわけなのでね……)その不安解消の気持ちから一心不乱に書いていたら必然的に多すぎた感があった。とにかく説明文がクソほど多かった記憶がある。ただ書き上げないと意味がないので粗さや出来にはこだわらず完成させた。雑なだけの日本の文字言葉が13000字超えていた。
梗概の大切さ。
梗概(キャプション)はといえば、作品を書き上げてから書いた。悪手だと今になってよくわかる。というのもプロットをこれと決めた時点でそれがSF作品になるか否かは全く判別できなかった。「このプロットでいく」と決めたらSF然たる梗概をしっかり作り込んでいれば筋に沿って書くのだからもっと終わりまでカッチリとビジョンを持て書けたのではないかと思う。さらに言えば梗概の理屈も認識していなかった。梗概(キャプション)あとまわしは慣れるまで私のようなヘタクソ人間にはお勧めしない。因みに梗概(キャプション)を実作終わってから書いた理由は、実作前に書いたほうがいいよってことを全く認識してなかったのと、応募は考えていなかったから。応募の段階、実際キャプションを書いてみて「ああこれは最初に書いておくものだわ」と実感しながら書いていた。梗概の大切さにおいては游舷さんのサイトで後日拝見したところやっぱりそうかと納得するばかりだった。基礎をバカにするこなれた感じの者は多い。けれど我らヘタクソどもよ、絶対真に受けるなよ、と知る。知っていても邪魔にはならない。初心者は情報こそが味方になる。
次に実作をWordで書き始める前に、コピー用紙を3枚用意して重ねて半分に折った。それを真中綴じにして小冊子を作る。これで10(12)ページある小さなノート完成。その各ページを字数1000と当てはめて各ページにどんなシーンを書くか箇条書きしておく。これは手書き。多分この段階でこの冊子を梗概(キャプション)として内容をしっかり固めておけばよかったんだと思う。それで実作完成後にキャプション欄に記入するとき文量を整理しなおすとかが好手。でもそうじゃなくて私の場合シーンの大まかな箇条書きのメモだから必ずしも物語としての要素ではなかった。場所、場面、誰とかを説明するかをただ箇条書きにしたメモ冊子。ただこれも使い方次第ではさほど悪くはなくて、10年近く久しぶりに小説を書いた身なので字数の把握とどの辺にどんな内容を書くかは把握しやすいので割と役立った。上手くやれば小冊子で梗概をつくるのはまあまあ悪くないと思う。
実作。
久しぶりなので自分がどれくらいのペースで10000字の作品を書けるかというのが第一に知りたかった。Wordで実作書き始めたのが5月15日。完成したのが5月18日。ネタがあれば特に速筆というペースじゃない。この時点で雑日本語文字列(作品とはよべない)は字数13000超。タイプで無駄に手が疲れた。19日以降(文フリ当日)は他のさなコン応募作を読みたいし、文フリ本(感想対象作品)到着にも備えたかった。作品に時間を割きたくなかったので何としても19日には間に合わせた。だいたい多く書いても推敲で削る。10000字くらいにはすぐ減らせると甘くみていたら無事死亡だった。実際かなりきつかった。どの部分で字数食ってたか、削ったか。
① 序盤図書喫茶の情景描写。500~600ほど削除。
② 序盤オガワが日記発見描写
③ カナエの化学道具他備
④ オガワのアパート
② ③④で300ほど削除
⑤ 内容の地の文、オガワとカナエ会話。2000ほど削除。
まだコーヒーで書きたいことがありすぎて削って内容をまとめるのに難しくなったので字数超えすぎは本当に良くない。作中での適切な言いまわし、言葉選びも苦労する。梗概が書き始めに必要なのは、効率悪い仕事をあとで減らすためにあるというのがよく分かる。……わかってなかった。
推敲一回目。ぶった切って削りまくり字数10000で書き上げ。作品を紙に出力して読んでみる。短編とはいえ作品執筆は久しぶりなのでこれは絶対やってよかった。ここでまた日本語の妙をできる限り直す(小説作法云々はここでもまだ無視でよい)そうするとまあ出てくる出てくる奇妙な日本語表現が。自分の国語に死を感じた。日ごろ文を書かない海外在住民は恥ずべきところだ。推敲二回目。チェックを入れ直して完成なん、だけ、ど……、後半に行くにつれ書いていた時から感じていた疑問と違和感、これらが何か気づけなかったし判別ならなかった。疑問:自分の作品はSFなのか。違和感:物語の齟齬。どうもピントこない、程度の感覚。
推敲三目以降は何度推敲したかは覚えていない。出来が出来なので頻度は少ないと思う。内容に関して未来から過去のコーヒー問題に触れている、カナエの疑似コーヒーもまあまあ化学でSF感。日記の意味のわからなさについては何か答え合わせを作ったけど処理は不十分だけど……。だいたいこれで内容字数8000~9000くらい。終盤どうしても作中でコーヒーを淹れたいという執着があった。この執着がくせ者だった。それとコーヒーのアロマにオガワの気持ちをどっかに被せるという気持ちだけはあって思考は浅く停止していたらしい。書いてはいるけど書いているだけの状態。作中世界でのリアリティを定着させることには気づいてなかった。今見ると「違う、そうじゃないだろオガワ……」と分かる。けど書き終わった直後は気づけなかった。巷で言われる当りまえの小説作法云々(文末,視点、心理描写とセリフの区別)それら触れてはいないまま。)それからpixivアカウント作って5月19日に投稿。もうね、いろいろ本当に雑過ぎますね、今こうしてふりかえると。
作品への客観的目線。
のちに九頭見さんが5月23日ラジオレビューで着地点としてその違和感を指摘、というかとても親切ににおわせる感じで言及してくださった。(九頭見さんの存在は今回のさなコンがきっかけで知りました)九頭見さんほどの方であれば、こう書いてきているなら最後はこう行けばいいとか、俺ならこう着地する的なビジョンを書いた本人の私より明確に持って読んでくださっていたんだと思う。あえて語られなかった所作からそれがとても伝わり恐縮だった。とても、本当にありがたい。それで自分に何が書けてないか、何を書いたほうが良かった、何を書かないほうが良かったのかが見えてきた。まだ細かい作法とか思い出せてはいなかったけど。レビューラジオを聴いたのはリアルタイムではなく、実はだいぶ後日。書きあがってからずっと違和感があった部分。それは、こういう部分じゃないかな?と気づいたのは良かった。私はふざけていたわけではなく本当に真面目に無自覚だった。ゴッホのひまわりにカマボコが乗っていても気づかないのと同じくらい。10年のブランクとはそういうもんだ。自覚した。
日記の処理をああするなら日記を書いた人間を最後の結末で放置してはダメだったし失われたコーヒーの扱いも他にもあったろうし。オガワの心情を被せる先はどこ(誰)だったのか。それはオガワの過去ではないだろうと改めて思う。そのほうがカナエの将来の夢も映えただろうと。オガワに過去を色々調べさせたのに私がオガワの労力を無駄にしてどうするんだということに行き着いてああこれダメだという気持ちになる。遡ればオガワはコーヒー見つけても淹れない選択肢があったって良かったかもしれないとか。いろいろ……。今思えば終盤の選択肢をなぜもっと気づけなかったのかと思うばかり。違和感の原因を後で気づいて修正が難しくなる前の予防策として梗概があるので、最初にちゃんと作っておく代物であるとまたしてもここで悔い。……わかってなかったね自分、今回。梗概の字数も実作10000に対して目安の数だろうから、その数の範囲で最低限物語の筋を練っておくことの大切さも理解できた。
レビューと感想の違い。
自分の作品へレビューをもらうのがいかに意味のあることで大切で有難いかわかるさなコン2024応募だった。
Xでも、同人誌感想記事でも、文学フリマエージェント勧誘記事でも、度々触れているが、レビューと感想は別物だと私は捉えている。日本だとレビュー(和製英語になってしまったから?)は英語の感覚とは違うように使われている気がする。ひょっとして偉い作家先生も混ざって使っておられるときがあるんじゃないだろうか?相手によって感想もレビュー扱いされるので伝わりづらいときがあるが私は別ものだと考えている。何が違うかなんだけど、感想だと極論、学びを得ることが少ない。そこが残念な点。学びを得た嬉しさとは別の嬉しさだ。(ただし感想を書く場合はクソほど学べるけど)もらう感想に学びが少ない理由は、作品に対して具体的に何をどうすれば今より良くなる指摘や意見、作品の出来を講評・合評もしくはレビューの時ほど明示してもらえないからだ。つまり作品の評価から遠い。注意、評価をイチャモンと捉えるなかれ。創作において作品として精度上げたいなら講評(評価)・レビューをもらえる環境に作品を置くのがいちばん得策。未熟とか完成度が惜しい場合などは特に。あるいは近場で講評ができる人間に頼むのも良いし、創作仲間どうしで講評し合えるのも理想。私の「もらえる環境に置く」にあたるのは今回さなコンだった。応募を通じてpixivに作品保存できたのは良かった。
あとはもう己がどこまで客観的目線で自分の作品を読み込んで精度を上げられるかが課題になる。そこは絵も同じ。これができれば漫画を書くのにも活かせる部分はある。だから作品に対して感想をもらうこととレビューは違う。と、個人的に私は分けて考えている。講評(レビュー)に感想が混ざることはあっても感想に講評(レビュー)が混ざることはない。感想は作家の世界に浸って好き放題味わい、心揺れてられる方向性の違うもの……と。ただ、人によってその基準は違うのだろうし他人さまは好き勝手すればいいとも思う。たとえもらった感想であってもそこから何かを学べるかはその人次第だ。
改稿作業。
■ここからやっと具体的に実際作品をどう考えてどう書き直したかを書いておく。
応募版「初めてのアロマを」
改稿版「初めてのアロマを改稿版」
二つがどう違うのか、直したかの記録になる。決して拙作が名作なわけではない。完成度が高くなったかというとそうでもないと思う。推敲は終わりがないから。
まず紙に出力。
必要に応じて何度も紙に出力。これは絶対。画像にあるように改稿は2~3回。シャーペン色芯(赤)で。一回目改稿は全本文直したい箇所に通し番号を打っていき余白に改稿事項を書いておく。次に応募版Wordをコピーして改稿版Wordを作ったら余白に書いた赤改稿事項を改稿版へ埋めて本文を直していく。通しで一旦読む。二回目の改稿はほぼ助詞・文末の推敲。1ページ毎にA-Zを使う。これも同じく余白に推敲事項を書いて次にWordで埋め直す。通しで一旦読む。3回目でだいたい最後くらいになるので本文直に色芯で書き込んで終わり。また読む。ここでの注意事項は一回目の改稿でかなりよく作品を読み込むこと。内容の齟齬修復や表現したいことの強さ弱さとか物語の中で突っ込んで書く書かない文とか人物像や心理描写で過不足はどうかとか作中でのリアリティなど大きく直すべき箇所は時間を惜しまず考え直しておく。だってそれが改稿なので……。そうすると妙な箇所がぼろぼろ見えてきて我ながらこれでよく応募できたと怖くなってきた。九頭見さんはよくぞ読んで良い箇所を見つけてくださったと思う。執筆して作品完成した時点で改稿しているときの目線でいることが本来は理想。力のある作家さんというのは往々にしてそれができるので物語が最終まで整っているのが本当によく分かる。作中改稿で直したのが以下。
日記とエドガワレイの処理。
「見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。」
これが共通書き出し。日記があるので作中日記は外せない要素となる。私の場合日記を書いたのはバリスタのエドガワレイなのでこの人物の処理は同時に日記の処理と被る。エドガワが生きた時代はコーヒーが農産物の麻薬にとって代わられ失われていくのでその背景をもっと明確にするため、後の麻薬と高価なコーヒーを隠す箇所に繋げたいので「一般的にとても買える代物じゃなかった」から「一般人には失われた飲み物」と改めた。前者だと頑張って買う奴がいそうなのでその要素を排除。
拙作内で二度目に登場したテーマ文込みの日記説明の箇所。オガワが意味のわからない筆跡から店主(エドガワレイ)が麻薬を摂取したと推測しているシーン。オガワは大会のこと、喫茶店店長麻薬中毒事件のことをアパートで調べ上げて理解していたのでその描写を加えた。ただ、店主は持っていた麻薬は手放さなかったので、持ち続ける意思から本を集めて隠していく日記の内容説明を加筆修正。コーヒーを隠す方法も明確に具体的なナッツ缶を使って書き改めた。後にオガワがコーヒーを淹れる淹れないになった場合、カナエにコーヒーと教えてはいけないから。それがコーヒーだと教えるとカナエが後日コーヒーを漁って麻薬を見つけかねないので危険だから。
オガワの処理。
終盤オガワは2092年までの日記を自宅アパートで読んで図書喫茶にコーヒーも麻薬も隠されている事実を知ってる前提がある。だから偶然見つかった偽ナッツ缶がコーヒーだとカナエに明かしてしまうと将来的に彼女が他のコーヒーの缶を探すくらいの想像はする。そうなると麻薬も見つかる可能性がある。カナエへの庇護心があれば偽ナッツ缶の中身はコーヒーとは明かせないなので、豆を潰すシーンでの台詞と仕草の描写を改めた。応募版で作者ながらのちに一番違和感を持った箇所がそこだった。(応募当時違和感がありながらもそれが何かまったく判らなかったのもこの部分。)だからカナエにコーヒーをブラックで飲ませるのも子供の味覚には不味さを覚えさせるほうがオガワにとっては得策で近い将来的に幼い彼女が自発的にコーヒー缶を漁って麻薬まで見つけてしまう可能性を潰せるから。砂糖とミルクも却下するべきと改めた。
ヤク中になった友人が逮捕され決勝を棄権するエドガワの心理。友人からもらったとおぼしき麻薬を隠し持ち続け日記を置いたエドガワの心理。オガワが終盤それらへ思いを巡らせる。
タサキホマレが違法薬物所持違反で、日本国内にて摘発・逮捕された事件から国際大会でのエドガワレイ棄権までを書いた箇所の改変は……。情報を書きすぎたので削った。エドガワが日記に残さなかった真意は最後のコーヒーであることを明かさずコーヒーを飲むシーンでオガワがあれこれ思い巡らせる気持ちとかぶせたほうがしっくりくるかと考えたので「~かもしれない」下りを削除し改めた。ふるい故人の心のうちなんて実際何を思って行動をとっていたかなんてわからない。ということにした。
コーヒーの処理。
前述してあるけどコーヒーだとオガワがカナエに宣言してしまうと、後日カナエによってコーヒーを漁るついでに焚書される。麻薬も発見される恐れがあるのでコーヒーとしてオガワに淹れさせないことに改めた。ただの「焦げナッツ濾し汁」を飲ませたことにする。ただ手段として考えたのが、コーヒーと明かさず淹れる案かオガワねこばば案の二択で、出てきてしまって豆の香りが缶から漏れていたら好奇心は止まらないだろうし淹れてしまうよね。という考えから前者案を採用。だからカナエはたとえ飲んだとしてもそれがコーヒーだとは知らないまま。ブラックで飲ませれば確実に子供には美味しくないだろうからその後ナッツもどきコーヒー缶を探したりしないとオガワ目線で考えたて改めた。ただし香りだけは良い香りとカナエは感じているのでその描写は残したかった。実際コーヒーアロマは好きだけど飲むのはいまいちという人間は多いので。
終盤の改稿で完成。
紙に出力して改稿するとよく分かるけど改変した箇所は後半に集中しているのがよく分かる。他はとにかく文の雑さが目立つ、それは今もまだ残っているけど。直せば良くなるところはもっとあるだろうが本作はこのくらいで終わって次の作品へ還元できればと思う。作中の矛盾点や改良する箇所に気づいてそれを改める為にあれこれ考え直すのは作品構築においてとても学びがあった。自分で創った物語を自分で追求しつくさないとそれは見えてこない。できれば見えてくるようになりたい。まだ、足りないから。だからそこそこな作品が書けないうちは作品を客観的に見て熟考する作業はよい訓練になるのでやったほうがいい。応募前に本当はやりましょうなんだけどな。復習としてやっておいても次があるならに活かせるという話で。次回はもうちょっと丁寧に作れるとことをねがいたい。
ほかに
あった誤算としては段落が字数に含まれることを失念していたのでWordで書いて字数10000表示でも実作欄に入れたら字数10000を余裕で超えたこと。これは平仮名を漢字に直すとか言葉の言い換えで処理した。つまり初歩的なこと。改稿作にしても段落無視でフル字数量。ぎゅう詰めにした感じはかわらない。
難しいと感じたことは文章のリズム。読んでいて心地よくはなってない。これも長年書いてないことによる感覚の復帰の鈍さからだろうか。それと心理描写にするか台詞にするか地の文に埋めるかなど。
ダメなことばかり書いていると気も沈むので良いことも書いておくと、これだけ長い期間創作で小説を書いてなかったにも関わらず拙作へ面白いと言ってもらえたのは何よりの救いで本当に嬉しい。それと執筆活動を長く続けておられる作家さんらがいる中、無評価に終わっても不思議じゃないのにハートやブックマークを頂けたのも嬉しくて感謝が尽きない。
オチ
がないとここまで読ませておいてつまらないだろうから書いておこう。今回初応募さなコン2024で私は規約違反やらかしちゃた。規約をちゃんと理解できたのが違反事項に触れた後だった。おそらくこんな人間は絶対多いとみている。応募期限前のタグ付け後の字数変更とタグ付け変更。タグの付け方がようわからんくて何度か操作した。本文締め切りまえに6文字ほどいじった自覚がある。あれ多分だめ。応募要項の説明書きがとても曖昧でわかりづらかった。毎年規約の改変があるらしく悩ましいね。さなコンが今後も続いていくコンテストなら、紛らわしく曖昧な規約文は明確に書き分けておいた方が運営サイドにも応募サイドに良好なコンテストになるとは感じた。そうあるからこその規約遵守にも説得力があるし運営サイドの思惑を疑われることもないと思う。応募者側としては運営さん関係者の方々の労力は偉大なものだしコンテスト機会があることに有難さをもっと感じようと個人的には思う。理解不足とはいえ違反には反省だ。次回応募するときは同じミスはしないようにということで。コンテストさなコン2024、初チャレンジそれなりに楽しめた。えへへ