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ゴミを書く

落ち着かないときは文章を書きたくなる時がある。特に書きたい考えがあるわけでもないけど書きたくなる。ふつう表現したい考えがあってその手段として文章は作られるけど、それが逆転する。そういった類の文章は表現される考えが無いために論理が整っていなく、内容が右往左往したりして取り留めがない。つまり、ゴミだ。でもこのゴミを書いているときは何故か心のざわつきが落ち着いて、書き終わった後はスッキリする。無駄なものを出してスッキリするという点で排泄物と喩えることもできる。

 noteで文章を書いている人たちの一部は本当にすごい。彼らは公開したい興味が自分の内にあって、その分野に関する知識を備えていてかつそれらを組み立てる強靭な論理的思考を持っている。文章は過不足がなく情報が上手く圧縮されていて、あらゆる批判にも耐えるように設計されている。こういった文章こそ時間を消費して読む価値があるもので、これに対してゴミは読む価値が全くない。なにしろゴミには書かれる考え、つまり内容がないのでそれを読むというのは白紙の本を眺めているのと同じだからだ。

 ではこのゴミたちには価値がないのか、私は読む価値はないが書く価値はあると思う。さっき排泄物に喩えたように、ゴミは出したあとスッキリする。考えでごちゃごちゃになった脳内を外部メモリーに保存することで整理する。そういった役割がゴミを作りにはある。だから文章を書いている途中に批判的になって「なんだこの酷い文章は」となって止めてしまうのは勿体ない。酷い文章には読ませる価値はないが書き切る価値はあるはずだからだ。そして書いた後にタグの数を最小限にしてひっそりと放流しよう。そうすれば名作を検索で邪魔することなく、また偶然にゴミが名作だった場合におすすめ機能に拾われる(はずだ)し、アーカイブとして数年後に見られるからだ。

以上、4月3日の日記・ゴミでした。



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