『進撃の巨人』について語りたくなった

今日は2024年8月17日の土曜日。
進撃の巨人の連載が始まって約15年。アニメが始まって11年。
そして、連載が終わって3年、アニメが終わって約1年が経とうとしている。
完結から時間が経った今も、自分にとって最高の作品であり続けている。

今日は、2024年の1月に開催された進撃の巨人アニメ10周年記念イベント「Attack Fes」のday2の230分にもわたる映像が配信されている。
コメント欄もあるので、みんながまた集まれた実感がありとても嬉しい。
また自分の中の思いを書きたくなってしまったので、駄文で長文になるだろうがかまわず書いていこうと思う。

進撃について、私が好きな理由はいくつかある。
一番大きいのは、作者が描きたいであろう物語が一貫して描かれている、ということだ。言葉にすると当たり前に聞こえるが、実際、商業誌で漫画を書くとなると読者が好きなものを描くという方向にいってしまうことも多いと思う。何も考えずにそういう作品も楽しめばいいのだが、例えば男性向けのハーレムラブコメは、非現実的な状況も多々あるし、読者はこういうのが好きなんだろうと思って描いているのが透けて見えてしまう。
私はあまりそういう作品が得意ではない。進撃はその点、最初から最後まで、諫山先生が描きたい世界を描き切ったんだと思う。

特にそれを感じたのはマーレ編の序盤のことである。
ネタバレになるが、進撃の巨人で最も多くの読者層に読まれたのは、ウォールマリア奪還作戦とそれが終わって海を見に行ったシーンまでだと思う。

それまでの進撃の巨人は、壁内人類が圧倒的な力を持つ巨人を倒す物語、あるいは壁外から巨人を送ってくる謎の勢力に対抗する物語だった。
ここまでは読者は壁内人類に感情移入し、圧倒的な力を持つ敵を破っていく様は快感ですらあった。壁外から無慈悲に巨人が襲ってくるんだから倒すしかないという、絶対的な正義がこちらにあったから、巨人を倒していくことに罪悪感など感じなかった。
巨人の中身が人間であると知ってからは、その快感が減ったように思う。
ここで離れた読者も多いだろう。ただ、まだ"敵"に対しての知識はほとんどなく、目に見える敵はアニ、ライナー、ベルトルト、ジークくらいのものだった。その先にある本当の敵はわからないままだった。
だからこそ、ウォールマリア奪還作戦までは、正義がこちらにあると感じることができた。
作戦を終え、わずかながら生き残った人類はエレンの生家の地下室へと向かう。ここでようやく、本当の敵の存在をはっきりと知ることになる。
それは世界だった。エレンが暮らしてきた島はパラディ島という名前であり、海の向こうにはいくつもの国があった。
そこに住む彼らは、パラディ島に住むエルディア人を心底憎んでいた。

2000年もの間、巨人化することができるエルディア人はその力をもって世界を支配し、蹂躙し続けてきたという。
100年ほど前、エルディア帝国内で内戦が起こり(巨人大戦)、帝国は分裂した。その中で一部のエルディア人はパラディ島に逃避し、3重の壁を築いた。
巨人大戦に勝利したマーレは、巨人になることができるエルディア人を悪魔と呼び、パラディ島に逃避したエルディア人を、悪魔の末裔と呼んだ。

マーレは大陸に残ったエルディア人を迫害し、反抗的な態度を示せば「楽園送り」にしていた。巨人化する薬を注射で打ち込み、パラディ島に放っていた。人間の時の記憶を忘れ、意思もなく、デカい図体でひたすら人を襲うようになってしまった。それが、エレンたちを苦しめた巨人の正体だった。

敵の正体が明らかになっていくとき、正直私は一旦読むのをやめたくなるほどの悲しさを覚えた。すっかり壁内人類に感情移入していたものだから、世界から憎まれていたことを知って、しかもそれが2000年の歴史で積み重なった憎悪であることを知って、どうしようもないやるせなさを覚えた。

アニメ3期のラストシーンで、エレンは言う。
「海の向こうには、自由がある。ずっとそう信じてた。でも違った。海の向こうにいるのは、敵だ。なにもかも、親父の記憶で見たものと同じなんだ。
なあ…向こうにいる敵、全部殺せば、俺たち自由になれるのか?….」

4期に入ると、途端に視点が逆転する。マーレ編である。
マーレに残ったエルディア人の子孫であるファルコ、ガビが登場する。
彼らは巨人になれるので、巨人になってマーレの戦力となるべく、戦士候補生として精進していた。しばらくこの視点が続くので、読んでいた時は本当に嫌だった。

敵のことを知れば知るほど、敵にも様々な事情があり、特に兵士レベルでは、仕方ないことが多すぎるのだと理解させられる。パラディ島にいるエルディア人は悪魔の末裔であり、マーレで迫害されているエルディア人にとって、島に逃避したエルディア人は裏切り者なのだ。そいつらを全部殺して、人類を救い、名誉マーレ人となること。それがファルコやガビたちを突き動かす動機だった。

そしてレベリオ収容区の襲撃事件が起こる。
ヴィリー・タイバーが世界中の要人を集めてパラディ島のエルディア人を皆殺しにする宣言をする中、地下にいたエレンが巨人化し、彼らを襲う。
このシーンは進撃の巨人1巻でエレン、アルミン、ミカサが超大型巨人を目にしたシーンと同じ構図となっていた。

圧倒的な力を持つ巨人が食べようとしてくるから戦っていたが、気づけば、自分たちがその立場になっていた。

これほど気分の悪いことはない。絶対的な正義なんて存在しなかった。それぞれが信じる正義があるだけだった。

漫画やアニメを読んでいてここまで非情なリアルの世界の真実を突きつけられると、それは読者が減っても当然だと思う。実際、マーレ編になってから売上は落ちたそうだ。ただ、諫山先生は描きたかった物語を描き続けてくれたと思う。巨人はSFだけど、その世界の中では究極にリアルな物語だった。私はそこに惹かれた。他者に迎合するのではなく、自分の信じる道を歩んでいきたい、そう思う。

他にも進撃の魅力はいくらでもある。
個々のキャラクターの深掘りはもちろん、アニメの戦闘シーンの迫力、音響、語るとキリがない。

色々書いたけど、最後に進撃の本質的な部分の一つに触れたい。
進撃の巨人では「役割」「順番」というワードがよく出てくる。
ベルトルトの「誰かがやらなきゃいけないんだ」もそういうニュアンスだし、王政編の中央憲兵のおじさんの話も。


個人の人格とか個性に着目して、この人はこういう人って書くんじゃなくて、あくまで社会的な役割という仮面がいくつかあって、誰がその仮面を被るか、どういう順番で被るかという点に重きを置いている。

初期の104期生(ジャン、コニー等)は裏切り者の個人的な部分にしか目がいってなかったけど、段々と物語が進むにつれ、自分も同じ立場を経験して彼らの社会的な役割を理解していく。 個人に責任を求めるのではなく、社会構造的に確実に存在する役割を誰が背負うかという視点。
リヴァイが、エルヴィンは悪魔になるしかなかったんだ、許してやってくれというシーンがあるけど、これもそういうニュアンスを含んでいる。

その社会的な視点が大事にされてることを示す事実として、進撃の巨人では「仕方がなかった」というワードが多用されている。世の中には自分の力だけではどうしようも無いことが山ほどあって、大きな流れに流されるしかない時もある。

エレンはヒストリアの戴冠式から自分の役割を自覚し最後まで演じ続けた。

ただ、エレンは自分の意思とは反することをずっとやっていたわけでもない。壁の外に人類が生きていると知ってがっかりしたり、地ならしをやってみたかったと言ったりしている。
私は、エレンは狂人に生まれてしまったんだと、そう理解している。母親を殺される前から結構凶暴だし、あの憎しみだけがパワーになっているわけではない。自分たちを憎む敵を皆殺しにする、そういう選択肢は普通の人間はとらないだろうけど、エレンはそれを選んでしまう人間に生まれた。
世界のバグみたいなものだ。バグというか正確には、それをバグと認識する社会があるだけだ。

殺人を肯定するわけじゃないが、中学生が同級生を殺して首を校門の上に置いたあの事件も、たぶんバグなんだと思う。構造的なバグで、確率的に発生するから、どうしようもない。当事者じゃないからこう言えるだけってのはあるけど。
そういうことをしようと思わない人間に生まれて、真っ当に育てられて、とても幸運だなと思う。


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