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君たちはどう生きるか

感想!ネタバレあり!




 パンにバターとジャムをたっぷり塗ったところで泣けて泣けてしょうがなかった。
 ものを美味しそうに食べるという宮崎アニメの風物詩というか一種のオハコ。最後の最後までエンターテイメントとしてのアニメをやりきる気概を感じた。
 しかし直後、ジャムを口のまわりにつける不自然な表現。

 この過剰さは、物語の前半で眞人が美味しくないと言い放った「現実の食事」との対比になる。

 「わかるかな、この非現実性がエンタメ表現だよ?」と視聴者に突きつける。
 公開前「駿の説教が二時間」という冗談がTwitterで飛び交っていて、眉をひそめて笑ったりしていただけに、この説教寸前のガードレールギリギリ(事故?)のメタ的なエンタメ?に殴られる。
 エンタメ論なんて主語のでかいテーマを取り扱える人物はそういないが、駿おじいちゃんなら日本国民は黙って聞くしかない。
 これ以上の先生はいない。

 アニメーター宮崎駿の心象風景をエンターテイメントという体裁にして見せてくれた、と僕は解釈している。

 僕が最も大きな感情に襲われたのは以下の遺言じみたメッセージだ。

「たしかに自分の中に悪意は存在するが、作品の中にはそれを混ぜないように慎重に点検した」

 宮崎駿作品視聴者全員(つまりほとんどの全ての日本国民)にむけている。つまり自分にもそれは向けられ、映画館の中で唐突に<宮﨑駿>自身の言葉でそう語りかけられたような感覚におちいった。
 広告を打たなかった理由も色々と語られているとは思うけれど、僕は広告をうつにしてはあまりにもプライベートなやり取りなのだと感じた。
 遺言に広告は要らない。

 自身のクリエイティブが<業界のクリエイティブ>に影響を与えた自覚があると、作品の中で明言している。これまでの宮崎アニメにはない明確な表現だと感じた。いつもみたいに「エンタメの体裁をとっているがわかるやつだけ分かれば良い」というのではなく、あの塔はアニメ業界、もしくはジブリのメタファーであると初見で分かる。
 「維新の時に空から降ってきた」としてあるので、ここでは漠然と<アニメ業界>を指しているという感覚がある。
 現実と彼岸という表現であると同時に、彼岸は宮崎駿自身が生きたクリエイティブ世界(=アニメ業界)をなぞらえているという構造になる。

 美味しそうなバターとジャムたっぷりのトーストも、若かりし実母が無条件でハグしてくれたのもエンタメ表現、つまり虚構。

 義母に異母弟妹が宿った腹をなでさせられる。それが現実。


 宮崎駿の影響力に惹かれてやってきたペリカン達が、クリエイティビティを失ってしまったと嘆くのを、宮崎駿自身が見ている。
 死ねば埋葬する。
 インコ達はそれすら気付かず、やかましくわめくだけ。
 アニメ監督のカミサマの心象風景を、顔面に突きつけられて圧倒された。

 自分の見つけた悪意のない13の素材を後継して欲しいという意志と、結局「後継などない」という孤独な結論があった。
 クリエイティブに後継はない。
 歩んできた人生と、降りてきたビジョンをフィットさせる作業は、誰かが誰かに方法論を説くような質のものではないからだ。

 13の素材。
 積み上げが崩れるかどうか、毎回真剣勝負。
 絶妙なバランスで成立させていく作業に疲れ果て、けれどそれをせずにはおれない業と因果を背負い、後進の存在にクタクタになりながら積み木を積み直す。

 もう一度、繰り返す。
 アニメ監督のカミサマの心象風景を、顔面に突きつけられて圧倒された。

 それに加えて。
 それにも関わらず、というべきか。
 描いたイメージを作品に乗せて伝えたとして、他者に影響を与えることはあっても、現実世界にその影響を持ち越せるほどの影響はほとんど与えられることはない、という哀愁のあるメッセージがあった。

 宮﨑本人からそれを言われてしまうと、クリエイター達が到達する地平の先にそんな虚無があるのかと驚かずにいられない。
 徹頭徹尾、虚構を作ってきたという圧倒的な引け目が支配している。
 それでも<おまもり>を視聴者に渡すことができたなら……!
 否。
 「渡すことができていたのであれば……!」  


 とある名作アニメを見たとしよう。
 監督のメッセージを受け取っても、それを肯定できない時がある。
 そういうこともある。

 では肯定できたとしよう。肯定どころか感動した。肯定し感動しただけで、行動が変わらないことがある。
 そういうこともある。

 では多大なる影響を受けたとしよう。影響どころか、行動を変えた。行動を変えようと、マネしようと真剣に努力しても、実力が伴わないことがある。
 そういうこともある。

 山ほどある。
 誰も宮崎駿になれなかった。


 でも「おまもりを共有できただけでも僕たちはトモダチだ」と言ってくれた。
 視聴者の無理解への絶望、後進に対する苛立ちをすべて手放して「トモダチとしてお別れしよう」祈りのような、遺言のようなエンディングを迎えて涙が後から後から出てきた。

 作品がよかったのか?
 それは分からない。
 宮崎アニメで育ったこの国の人間だけが受け取れるメッセージがある。それは作品の良し悪しではなく、宮崎駿12作品と宮﨑駿1作品の誕生と共にいきた同時代性があって初めて受け取れるメッセージだと思う。
 それなくして100年後に作品単体だけでみても、この心のざわめきは体験できないに違いない。

 涙。

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