ヴァイオレット・エバーガーデン
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品を鑑賞するために、妻と町の映画館へ行った。この作品は以前、テレビアニメで毎週放送していた。僕は一話ずつ妻とみていたため、その延長で鑑賞に行くという意味合いが強かった。また、先の悲しい放火事件から立ち直る京アニの試金石となるのであろうこの作品の売り上げに貢献するのに、前向きな気持ちもある。
このアニメのストーリーはたいてい「誰かの死に直面する」という泣かせの設定が含まれていたため、僕はその点がいささか食傷気味だった。だから映画に対する期待はやや低かったと言える。
ひるがえって素晴らしい点もある。まず美麗な作画。それから軸となる設定で、僕の気に入っている設定がある。主人公のヴァイオレットが最愛の人「少佐」の死に直面できなかったことで、少佐との「別離」からの逃避をしている点である。死者への依存心が強く、彼女の面前にいる人たちの気持ちに、ついにぶくなってしまう彼女。テレビシリーズで視聴していた時「実は少佐が生きていて再開パターン」という安易な方向に走らなかった点に好感を持っていた。
別離をかみしめて歩みを進めるというハードな描写は、誰もが奇跡の再会を果たす感動物語の主人公になれるわけじゃない、だから人は歩みながら問うのである、という甘くないムードをたたえていて好みだった。
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普通の日記なので、ネタバレも含みます。望まない方は、見たらまた読みに来てね。
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まず、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンも、美麗な作画を堪能できる。背景も美しく、バイオレットちゃんも、神作画がそのまま動いている。
ところで重要なのは、内容だ。
テレビシリーズと変わらず「喪失を消化できない主人公」と「それを見守る周囲」という構成で進む。ところが物語中盤で、いきなり少佐らしき面影の描写がある。雲行きが怪しくなってきた、そう来たか。その描写があるってことは、後は二人が結ばれるのかどうかになってくる。
「別れを抱いて歩みながら問う」という、僕の感じた美点が…
少佐が生きているかもしれない、それを聞いて気色ばむバイオレットちゃんの仕草は、ロボデレ大好きおじさんにとって、矢も楯もたまらない。この場面を見て「そういう嗜癖がある方」へは、悪いこと言わないからテレビシリーズからコツコツ見ろ、と薦める事に決めた。
終盤でようやくまともなセリフのある少佐は、ヴァイオレットを拒む。彼女を傷つけたということに自分自身が傷ついて、なんと彼女と会えないとのたまうフニャチン野郎になっている。「それは誰のせいでもない、戦争のせいである」という裏テーマもわかりやすく表にでてきた。
またしてもそう来たか、だ。リアルだ。少なくとも僕の人生にとっては。誰もが奇跡の再会を果たす感動物語の主人公になれるわけないじゃないか。
ホッジンズ社長の「おおばかやろうーーー!!!!」が響く。傷ついたフニャチン男子は触れるものみな傷つける大馬鹿野郎なんだ。分かるよ…ギルベルト… 。
一連のやり取りでバイオレットちゃんは打ちひしがれ、本当の意味での少佐との別離を受け入れ、悲しみを消化して、そしてふっきれる。最後の手紙を少佐にしたためて別れを告げる。人生の苦いヤツのフルコースだ。
きついけどいい。これだけやってくれたら、二人結ばれないパターンでも受け入れられる。往年の新海誠みたいだと思いながら鑑賞していた。
クライマックス、バイオレットちゃんからの手紙を読んで意を決した少佐、走り出す少佐、転ぶ少佐、「バイオレットーーー」叫ぶ少佐。
そっちパターンでしたか。
背景きれいだな… 。
少佐の声が聞こえてからの、バイオレットちゃんの顔のアップ。周囲のお客さんの、ひそやかにすすり泣く音。
「思いをことばに」というテーマの作品なのに、ふたり再開シーン、嗚咽で何も言えないバイオレットちゃん、たっぷり三分。にくい、やりやがった「本当に大事なことは言葉にならない」のやつ。きっとテレビシリーズの時から構想してたんだ。
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せめて映画館から出るとき少しでも平静を装っていようと考え、いったん僕も涙をぬぐって平静をとりもどす。しかしエンドロールで京アニのスタッフの名前がズラーーーーーーーーーーーと並ぶじゃないですか。
ここでまたやってしまい、スクリーンから出たときはマスクがびしょびしょになっていて、非常にばつの悪い思いをした。
「よかったねえ、結ばれて」と妻は言った。
僕は「ね、良かったね」と素直に同意した。
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