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そば

 「そばはよくわからない」と後輩のNは言った。いわく、食べている途中は「そばを」食べていることを忘れるらしい。食べる前の皿に盛られているそばを見たときの感動と、食べた後「なんだかうまかった」という感動は味わえるのだが、食べている途中の感動というものがすっぽりと抜け落ちているのがそばだ、というのだ。
 ほかのてんぷらや、ちょっとした小鉢に気が散って、そばそのものの味も結局よく分からないという。
 Nは続けて「よく味わっても、さほどおいしいもんでもないんですよ」と言った。


 とは言え、仕事はお互い味覚が武器である。「お前、味音痴なんじゃない?」という話には落ちない。 

 人は香りに慣れてしまう。二口目から鼻がそばの香りに慣れてしまうという事はある。
 そういう場合は、ワサビを箸の先につけてそのまま味わい、いっぺんリセットしたら、またそばがうまいと感じる。そう言ってみたものの、彼は浮かない表情をしている。

 ものの味わい方は人それぞれだ。考えてみれば、彼は食べるのが遅い。

 彼は一度味わおうと決意したら、ゆっくりと咀嚼し、吟味し、イメージし、味わいつくそうとする。

 例えば寿司を食うたびに、アッという間に二貫食べる僕を横目に、彼は目をつぶり、一貫目をもぐもぐと味わっている。
 ラーメンを食べるときなど、僕は彼のどんぶりの中の増えるわかめのごとくになっている麺を見て、いつも「人は色々だ」と思うのである。

 つまり、彼はそばの「スピード感」についていけないと言っているのだった。僕はNとそばを食したことはないが、彼のざるの上で乾いているそばの姿が想像できる。


 なるほど。

 江戸っ子はそばをのどで食えという。

 「要するにそばを食う、という体験そのものと相性が悪いってことか」というと、ようやく納得した表情をしてこう言った。
 「そう、味わい方にも種類があるっていう気持ちでいかなきゃいけないんだろうけど、そこまでしてそばを選ばなくてもいいんだよね」
 もっともである。
 「そばは食事じゃなくて、体験か」
 「そう、体験」
 そう言って、ふたりで午後の仕事にとりかかった。

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