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シン・エヴァンゲリオン

 ある時代が終わった。


 エヴァといいつつ、いきなりぼく自身のはなしで申し訳ないけど、少しだけ。


 9歳。ぼくのささやかな抵抗もむなしく、母に全寮制の学園にいれられた。大きくなったら家族で暮らしたいと思っていた。

 14歳。「おかあさんたち、離婚することにしたから」といわれたとき、脳みそに氷水をそそぎこまれたような感覚がした。 
 「そこはいつか僕が帰る場所のはずじゃなかったのか?」
 こころと身体が、いままさに深手を負った、と告げていた。
 翌日、ぼくは盲腸炎にかかり、数日後には手術をしていた。しかし、離婚はそんなことでうやむやになったりするような、親の気の迷いではなかった。
 病院でぼくに付き添っていた父の、所在なげな態度が、もうどうにもならないことをあらわしていた。

 17歳。ばらばらになってしまった血族に対して、いつも怒りとやるせなさを抱えていた。四六時中、母をのろう言葉を心のなかで吐いた。父ではなく母をのろっていたのは、母こそが離婚の決心をした張本人だと、ふたりの態度で分かったからだ。

「ぼくの夢を奪ったのは、母だ」ぼくは14歳いらい、ぬぐってもぬぐえない母への怨恨という深手を負っていた。


 そういう背景で、エヴァに出会ったよ、ということが伝われば。

 「監督不行届」という、安野モヨコ先生のマンガをご存じでしょうか。2005年初版発行。庵野監督との夫婦生活が描かれており、コミカルでおもしろい。監督のファンならおすすめの作品です。単行本あとがき部分にに、庵野監督の文が載っています。
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(前略)嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から避難させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さん本人がそういう生き方をしているから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。(後略)
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 新劇場版が始まった時、庵野監督はエヴァを編みなおすんだな、と思いました。

 取り返しがつかない傷を負い「ひょっとしたらこの不足感を埋め合わせてくれるかもしれない」そういう期待をして、アニメやゲームの世界に没頭したことがあります。「そういう世代」といえば、そうかもしれない。80sにとって(も)、アニメやゲームは身近な存在。傷ついた自分をどこかべつのところに連れていってくれる(かもしれない)存在が魅力的にうつるのは、自然な感情のながれです。

 おかどちがいの期待に胸をふくらませて自分が向かったその先で、気づかないあいだに現実と乖離していることがあります。例えばアニメに夢中になり、完結後のロスを埋めるためにつぎのアニメを探すときの虚無。
 恋愛もまた、そういったことの焼き直しだ、と感じていました(こんなバカバカしいことってあるだろうか、とむなしくなる)。
 アニマ(幻想の母性)が、いつかぼくの期待に応えてくれるはずなんだから、と期待することで、ぼくは自我を守ったことがあります。この期待をよすがにして、いまにみてろと目標を立てる。
 それはゆがんだことなのかもしれませんが、本人はそうでもしないとたまらない。つまりそうして自尊心を守ったのだと思います。
 生命力とも生きぎたなさ、ともつかない力がそうさせるのです。
 期待をすることで、付き合っている相手に<架空請求>をするような恋愛をしました。自分の要求が<架空請求>だと分かっていれば、ぼくは我慢したかもしれない。そしてきっと、内的崩壊をしたんだ、とも思います。

「やったことのケリをつける」庵野監督の言葉だと感じた。

 シン・エヴァンゲリオンはアスカという<幻想>に期待する時代の終わりを告げていた。好きだったよ、とシンジが告げるシーンは、まさしく恋の終わり。

 アスカという日本代表のアニメアイコンに、そういうお別れを告げたことで、アニメに対する<幻想>の終わりを感じた。
 祭は終わった。

「アスカはアスカだ、それだけで十分さ」作中で大人になったケンスケはそういった。

 他者(やゲームやアニメ)に幻想をいだいたり、期待をしていればよかった、あまくて切ない季節は、もう終わり。
 でも、おかげでここまでいきてこられました。「好きだったよ」というほかない。涙なしに見ることはできなかった。

 ぼくは、ぼくが本来受け取るはずだった愛情の分け前を、もらいそびれたままこの年になっちゃったんだ、と信じていた。23歳のとき、母親と対峙して、どうして離婚をしたのか、とまっすぐにきいた。「好きな人ができて付き合っていた」分かった時、「ぼくの分け前なんて、もともと母は、持っていなかったんだ」と気がついた。
 その瞬間はじめて、母を母ではなく、できちゃった結婚するタイプの女の子、として認識した。目からうろこがおちる思いだった。しかし、ぼくの生がはじまる前からずっとそうだったのである。

 怒りは、やるせない思いとともに消えた。「ついてなかったな」という気分は残ったが、それは回答を間違えた答案用紙がかえってきたときの気持ちとほぼ同じだった。

 作中で、はじめてゲンドウの正体と向き合ったときに感じた気持ちとよく似ていた

 シン・エヴァンゲリオンが公開されて、幻想の時代が終わったと感じた。

 実写の宇部新川の駅から手をつないで出てくる二人をみて、きっと今度はうまくいくはずだと思った。

 なぜなら二人は、イマジナリーの世界ではなく、リアリティの世界を見つめているのだ。

 カヲル君は「また会えるよ」といった。
 次にあった時、もっと健やかな心もちで、幻想と関われますように。

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