実在の呪い
呪(しゅ)という言い回しは、陰陽師だったか。原作を読んでおらず、十年前に岡野玲子版のマンガを読んだが、スピリチュアルな素地なしには読み難い、異文化だった。
最近は少年ジャンプの、呪術廻戦がアニメ化を果たした。主人公がバトルに呪いを用いる少年漫画。ポスト冨樫と呼ぶべき作家が、満を持して活躍し始めたという印象を抱いている。冨樫王子の系譜は芥見下々が継ぐのだろうか。
僕はジブリアニメのもののけ姫が、呪いを可視化している作品だと思っている。
呪いとは通常そうしたフィクション世界のものである。少なくとも一般にはそのように認識されている。実在するとは思いもよらない。
けれども「呪い」と呼ぶのが妥当だと感じる事象がある。それはあまりに身近で注意を払われておらず、ほとんど日常化している。
◆
「旦那さんを許せなくなった発端を聞いたよ… 。」
帰ってくるなり、妻は力なくそう言った。
仲の良い一回り上のご夫婦の奥さんが、うちの妻と二人になると「日頃の旦那さんの手落ち」について打ち明け話をする。家事をしない、車を勝手に売る、仕事がコロコロ変わってお金がたまらない、など。
地元の違う妻にとって、気を許せる間柄を育んだ、貴重な相手だ。
夫婦ぐるみの付き合い。僕たち二人は旦那さんとも仲が良く、敬意の念もある。だから奥さんが話して聞かせてくれる旦那さんの「手落ち」について、聞いている身としてはやや心苦しくもあった。
僕の妻は、打ち明け話を一人じゃ抱えきれず、いつも僕に話すのだ。
このご夫婦の様子で、最近よく見られる場面がある、そう妻は説明した。「旦那さんが譲歩してあゆみ寄る姿勢を見せても、奥さんがそれを袖にする」という。それについて妻の言葉を借りるなら「全部つじつまが合う」そういうエピソードを聞いたというのだ。
どのみちすでにこれまで聞いてきた出来事を奥さんは未消化でいる。普段旦那さんにあたりがきつい、という点に変わりはないと思うが。そう思って黙っていた。
核心を聞いたという妻は、しおれたほうれん草のような様子で話を始めた。
僕はどういうことになるかわかっていたので、なるべく聞かないようにしていた。彼女はそれにかまわず話し始めたので、仕方なく手を止めて彼女のほうに向いた。
「U君(次男)が生まれて九ヶ月の時にね、おっぱい飲まなくなっちゃったんだって。それで奥さんが旦那さんに相談したら『子育てはお前がやれ』って言ったんだって。それ以来、この人は頼っても力になってくれない人だと思ったんだって。」
それをやってはもうお手上げ、という内容。僕は言葉なく聞いていた。
「それで後になってね、『あんたあの時、子育てはお前がやれって言ったよね』ていう話をしたんだって。そしたら旦那さんが『俺はそんなこと言っていない』って言ったんだって。それで一層許せなくなったって。だから、普段優しくされても、なんか興ざめなんだって。これで浮気があったら心置きなく別れるのにって言ってた。」
妻は(どうしたら問題が解決して二人は仲良くなれるのかな)というムードで、両眉の尻を下げて僕の顔を見ていた。
…それはもう、ほぼ解決しない。
別れることを検討するような致命的な恨みを抱えて、何十年と付き合っていく夫婦がある。
適切な言葉がしばらく思い浮かばなかった。沈黙の後、第一声で口をついて出たのは
「呪いなんて、もらってくるもんじゃないよ」
妻はひどいことを言われた、という表情で「どうして呪いなんて言い方するの」と僕に聞いた。僕もどうしてだろう、と考えた。僕が抱いたイメージは呪いというよりほかなかった。「それ、もうどうしようもないよ」と続けた。なんでそんな風に断定できるの、と妻の態度が固くなった。
僕は増えなくていい問題が増えたのを感じながら、どう伝えればいいのか迷った。
奥さんは苦しくて苦しくて、誰かに共感してもらわなければやっていられないのだろう。
「まず、抱えた恨みを手放して許すかどうかは本人の問題よ。奥さんの負の感情に気が付いた旦那さんが生活の中で下手にでて譲歩しても、許さないんでしょ。それが奥さん自身の望むことなんだから、どうにかしたいっていう気持ちは持っちゃダメだよ。」
「そんな風には思っていない」と、妻は完全にスイッチが入った。
「誰かにどうしたらよいのか相談するレベルならまだしも、ただ漫然と共感を求めて他者に垂れ流すようになったら、それはもう… 無理だよ。」
「そんなことないよ、どうしたらいいのかなぁ、っていうんだよ?」と、奥さんの擁護にまわる。妻から見て、僕が奥さんを攻撃しているように見えるのは承知している。そうじゃないんだ。
「そりゃあ夫婦間がそうとなってしまっては、どうしたらいいのかな、改善したいな、という気持ちにだって、なろうさ。でも、受けた傷の責任を、相手に取らせたいと希望している限り、絶対にその恨みを手放さないよ。旦那さんと何か事あるごとに、そういった過去の恨みをタンスから引っ張り出して攻撃の道具にしたいという誘惑に、誰が打ち勝たなきゃいけないのかわかる?最初に言ったように、抱えた恨みを手放して許すかどうかは、相手じゃなくて本人の問題なんだよ。奥さんが「相手に責任を取らせる」という甘い誘惑を蹴って、二人でもう一度絆を構築しようと決意しないと、その関係が改善するのは無理なの。」
僕は一気に力を使い果たして、まっすぐ座っているのもつらくなった。
「それから、もう、旦那さんだってさんざん奥さんに邪険にされてきたんだから、たがいに傷ついているっていう状況が出来上がっちゃってるじゃん。だから旦那さんも同じレベルの決意をしなきゃいけない。関係を修復しようとすれば、精神的にある程度無防備になって見せなきゃいけないでしょ。そこを攻撃されたらたまったもんじゃない。関係が悪くなるというのは、愛情の循環が断ち切れて、そういう攻撃の循環になっているってことなんだよ。二人が同時に、攻撃をやめる、つまり無防備になる決意しなきゃいけない。だから二人同時の絆を再構築する決意がいる、それはもう」
ため息と共に、奇跡、と言った。
「なのに君は、どうにかしてあげたいという気分になって、しょんぼりして帰って来たんでしょうが。それはやっちゃダメよ。そういう希望は他者が持っちゃダメ。その希望は誰のタメにもならない。」
「そんなことないよ、別に解決しようなんて思ってない」と、相変わらず態度を硬化させている妻はいった。僕は、そんなことある、と言い自分の表情を両手で覆って隠した。
「どうしてそんなに断定的にいえるの?」と妻は聞いてくる。
僕は顔を覆ったまま、自分がどうしてこんなに断定的な表現を使うのか考えた。「どうしてそんなに元気なくなっちゃったの。」と続けて妻が言う。
言われる通り、僕はもう、うなだれていた。妻の優しい感情で、話の潮目が変わるのを感じた。
慕っている二人の仲が悪いと聞いて、ショックだった。出来れば仲直りしてほしい、と心の底では思っていると自覚した。彼女が希望している通り、僕も希望しているのだ。本当は。
「まず、離婚は息子ですら止められない。経験上知っている。あと女性の抱えた恨みは、男性側が許しを乞うために何年もかけて下手に出ても、癒せない。これは過去の恋愛経験で分かる」と、顔を覆ったまま答えた。「でも、何か動きたい、どうにかしたいって思うなら、できることはするよ」と言って、顔を覆っていた手を降ろした。
そんな精神のストレージをくうような面倒は背負いたくないんだ、本当は。でも、肚の底で感じたので、仕方ないなと思う。
僕の発言を受けて、「別にどうにかしたいなんて思ってないけどね」と言う妻の表情は見違えるように明るくなった。
「なんか気分が軽くなったんでしょ」と聞くと、妻は「うん、なんか元気になった」と言った。
さっきまでしょんぼりしてたよね、と確認をして
「恨みの感情っていうのは、人をうなだれさせるじゃん。なんか知らないけど、よくわかったでしょ。あなたが元気になったのは、あなたの食らった恨みを僕がきちんと正面から受け止めた、と君が実感したからでしょ。」というと、「そうだねえ」と妻は明るい表情である。
「言葉にするのは難しいようなことだけど、体感的に分かったでしょ。最初に言ったけど、呪いだよ。もしも二人がかりでも消化できないような、でかい呪いを拾ってきたら、別れなきゃいけないような問題になるんだから、一番最初に言ったけど、呪いみたいなもんには簡単に手を出すんじゃないよ。」
妻は「なるほどお」と、のんきな声を出した。僕は食らいたての他人の恨みを、絶賛咀嚼中で、おそらく顔色が悪かったことだろうと思う。
◆
結婚生活を守るのに、こうした精神的な問題にまで明るくないといけないものだろうか。僕は知らない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?