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七を掛ける

「夜を駆ける」と「YOASOBI」のどっちが曲でどっちが人なのか分からなかったり「ずっと真夜中でいいのに。」とごっちゃになったりしていませんか? 私はしており、秒針を噛んでガンガン砕いています。どうも木ノ子です。


さて、どうでもいい前置きはこのへんにしておいて。


七、という数字は日常の様々なところに潜んでおりますね。七日で1週間、七福神、七草、ラッキーセブン、スリーセブン、虹の七色(これは国によります)。だいたい良い感じの意味合いが多いですね。他には現在の郵便番号の桁数(5桁だった時代にも生きてましたが)、七味唐辛子、七光り、七不思議、七帝戦、北斗七星、セブンイレブン、G7(和音ではない)など。あ、1オクターブに含まれる音も7つ(ドレミファソラシド、の最後のドは最初のドと同じなので除く)ですね。悪い意味だと七つの大罪なんかも。

ちょっと頭の良さそうなことを言うと、7 までの自然数の和(1+2+……+7)は完全数28になります。完全数というのは「自分自身を除く」「正の約数の和に等しくなる」自然数のことで、今回の場合だと28の正の約数は1,2,4,7,14,28の6つなんですが、自分自身つまり28を除いた5つ、すなわち1,2,4,7,14を全部足すと28になるという訳です。一番小さな完全数が6、その次が28、そのまた次はなんと496と大きく飛び、さらに8128と大規模になっていきます。

ちなみに28という数字は4週間、約1ヶ月と等しく、低用量ピルもこの数を基本としているものが多いです。月の公転周期が28日ですね。なお、親知らずを含まない歯の本数が28本、成人の頭蓋骨(乳幼児はもっと多いけどだんだんくっついてきます)も28個から形成されています(舌骨を含まない)。

おっと逸れた。またもどうでもいい話をしてしまった。28はそんなに関係なくて、今日の本題は49の話です。7の2乗、7掛ける7ですね。はいここでタイトルを回収しました。7週間、グレゴリオ暦だと1ヶ月半ぐらいでしょうか。7と7を掛けている割にはあまり日常的に馴染みのない数字じゃないですか? 仏教では「四十九日」という法要がありますが、それくらいな気がする。まあ日本語だと4=死、9=苦、とかいうイメージがあってあんまりこの数字使われないし、組み合わせとなれば尚更か。四十九日は死と大いに関連するので別にいいんでしょう。わからん。ソースはないです。ごめん。

で、その四十九日法要についてですが、

こちらの動画がわかりやすいかと。動画よりも文字の方が自分のペースで理解できるんだが? という方はWikipediaの「中陰法要」でもいいんですけどね。ただまあ、この動画の「四十九日とは?」解説の後のひとことについての話をしたいので、できれば一度ご覧くださいな。最初はなんか再生数の話してるから飛ばしていいし、1.5倍速ぐらいでも聞き取れますので(個人の見解です)。音を出せない場合は字幕だけでも可。


ということで、ここからは↑の動画を見た前提でいきますよ~


私が前回のnoteの一部で紹介したような「後付け」理論が展開されてますね。49日とか50日ぐらいが「立ち直るのにちょうどいい」から、没後は7日ごとの区切りであの世であれがあってこれがあって、という納得のいきそうな説法をするようになった、的な。


いや全然ちょうどよくないが??????(個人の見解です)


そのですね、今日、この記事で触れた人の四十九日なんですよね。

たぶんさっきの「49日ぐらいがちょうどいい」っていうのは基本的に死者の圧倒的多数を占める「往生したおじいちゃんおばあちゃん」を対象としてるんじゃないかなと。若くしてある日突然病気や事故で亡くなった人については、49日程度じゃ受け入れられませんて。個人の見解です。



そして話がまたちょっと変わるんですけど、七日ごとのアレコレの七回目すなわち四十九日で「生まれ変わりが決定する」っていうのも引っかかってまして。


輪廻転生、皆さんは信じます? いえ、思想や信仰は自由ですので、私は肯定も否定も強要もしませんよ。

物質、という視点においては炭素循環だとか質量保存則だとかで説明できなくもないんですけど、そういう話じゃなくて。いつぞやに書いた図(過去記事にあるやつをちょっと鮮明化しました)で言うところの「魂」に相当する部分についてです。

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いや、なんか図を載せちゃったけど、「意識」や「記憶」の方がニュアンスとしては近いかもしれない。それらに加えて、その人のその人らしさ、考え、スキル、そのへんを統合したものを「魂」と仮称しましょう。図の補足をこんなところでするんじゃあないよ。

ちなみに、私自身としては「前世の記憶」らしきものを認識できていません。今のところ。自分ですすんで一休さんばりに頭をぐるぐるさせても分かりません。まあ人間1回目なのかもしれないもんな。生きるの下手だし。あと仮に前世がトカゲとか魚とかだったとしたら、前世の記憶.zipを解凍しても中身のファイルを開けられるアプリがヒトの脳には搭載されてないんじゃないかな。平安時代の人とかだったら古語ベースだろうから解読難しそうだし。あなや。

……という感じで、n=1の主観から導かれた不安なデータではあるものの、そのまままるっと「強くてニューゲーム」的に(最近の喩えだと異世界転生ラノベ的に)生まれ変わる訳ではなさそうだよなあと思っている。


が、「生まれ変わりはあるけど完全な引き継ぎはない」としたら、それって寂しすぎやせんか。

私としては、その人が生きていた頃のままの「魂」が、なんかふわふわしたところで穏やかに眠るなり、たまに起きてこっちにふらっと遊びに来たり、そんな感じでいてほしい。で、私が死んだらあっちで再会、みたいな。そうなるより先に猫とかに転生してもらってたら困る。見つけられないだろうし。猫になりたい、という曲もあるし私自身過去に「富豪の飼い猫に転生するのが最適解では?」とか言ってましたけど、よく考えると猫ってチョコレート食えないんだよな。ネギとかも。まあネギはいいか……


「魂を込める」という慣用表現があります。私はものづくりの人間なので作品に魂を込める的なイメージがホワンホワンしますが、それに限らず歌に魂を込めたり試合に魂を込めたり、生きていれば魂を込めるシーンというのは少なからずどっかにあるんじゃないでしょうか。大人になって振り返るとさほど大したことなくとも、あの頃は部活の大会に魂を込めてたな、とかそういうのも含め。

その「魂を込めた何か」が生きている誰かに受け取られ、また何かが生み出されることを輪廻転生のひとつのかたちと捉えることもできるのではないか、とさっきの動画の人が言ってた別の動画もあります(※いくつも動画紹介しちゃいましたが回し者じゃないですし信者でもないですよ、科学的に~の動画に関しては私は否定的な立場ですしね)。

その考え方自体は素敵だなと思う一方で、やっぱり私はさっき言ったように、なんかふわふわしたところに留まっててほしいなーとも思うのです。既存の宗教だと何に当てはまるんでしょうね、輪廻の概念がない大きな宗教としてはキリスト教・イスラム教・ユダヤ教あたり存じ上げていますが、その中にも細かい宗派があるでしょうし……まあ別に既存のものにあてはめなくてもいいんですけど。



「現在進行形で生命活動を行っているヒトが知覚可能な世界において、死者は物質として存在しない」という事実は確かなものであるとして、物質以外の要素がどうなっているのか、についての解釈は如何様にもできるんですよね。現在の科学技術では証明が追いついていないだけ。ニュートリノやウイルスが「ない」時代があったように。

という訳で、四十九日は私にとっては全然忌明けでもないし、生まれ変わりが決定する日でもない、という信仰をしています。なんてことをお坊さんに言ったら怒られるのかな。非科学的だからとかそういう理由じゃなくて、なんか寂しいから、って言ったら納得してくれないかな。


って〆の数行に言いたいことを、寄り道しながら3000字以上に引き伸ばしました。こんな開けっぴろげな性格してるくせにストレートな物言いは苦手だからさ、いつもどうでもいい言葉を散りばめがちなんだ。どうか奥まで手を伸ばして、探って、見つけてね。


もし生まれ変わったらなんて二度と言わないで 今君は日陰の中にいるだけ ただそれだけ それだけ   ── amazarashi『光、再考』より




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