『きもちわるいから君がすき』に見る対比の演出

今最もアツい(主観)百合漫画である『きもちわるいから君がすき』第1巻、ここに対比が印象的な回があったのでその話をしたい。

なお掲載画像は全て著作権法第32条による引用を意図している。

対比とは

辞書的に言えば対比は「二つのものを並べて互いの違いを際立たせること」で、最も基本的なものとしては視覚的な対比がある。

漫画で特に分かりやすいのは左右での対比だろう。漫画の読み方的としてほぼ同時に出現する形になり、読み手に比較をさせやすい。

ガオシ『間宮さんといっしょ 第3話』裏サンデー 2021/09/05 p.23
せうかなめ (原作 竹町, キャラクター原案 トマリ)『スパイ教室 01』
KADOKAWA honto版ver.001 2020/12/23 p.84

時間差(漫画で言えば主に上下)があると方向性が生まれて違った印象になるが、これもまた対比と言える。アニメで言えば連続するカットで対比させたり、また視覚以外の要素(音声など)を使うこともできる。

東條チカ (原作 カルロ・ゼン, キャラクター原案 篠月しのぶ)『幼女戦記 1』
KADOKAWA honto版 2016/12/10 p.102

こうした対比はある種の強調表現ということになる。ただ視覚的な効果を求める、例えば大小や明暗の違いを強調するといった場合もあるだろうが、もう少し内容で言えば、勤勉な性格ということを強調するために怠惰なキャラクターを隣に配置しようだとか、そういう概念的なものも対比となる。

更に言えば対比は互いの特徴を強調するだけではなく、背後にある構造、つまり対立構造を提示する機能も持つことがある。「勤勉な人物(主人公)が成功する」という物語を書くとき、対比させられる怠惰な人物はただ主人公の勤勉さを強調できれば良いのだろうか。

いや「勤勉と怠惰」という対立構造(そして勤勉の優位というテーマ)を物語の奥に設定するならば、怠惰な人物はやがて失敗する運命でなければならない。この怠惰な人物が最終的にどこかに消えてしまったり、あるいは急に主人公に同調し出したりすると対立構造は曖昧になり、対比の効果はその場だけのものになってしまう。

この例は童話「アリとキリギリス」が有名であるため理想的な流れが分かりやすいが、「直情的な人物と冷静な人物」だったりするとその奥にどういう対立構造があるか、どういうテーマを設定するのかは難しくなってくる。

『きもすき』より

本題の『きもちわるいから君がすき』第1巻6話目。

まず文脈として、メインキャラクターの飾磨司御影依子は司が比較的まともな慕情を依子に持っているのに対して、

そこそこ理性のある司(1コマ目の右、2コマ目)。
西畑けい『きもちわるいから君がすき 第1巻』芳文社 honto版 2023/01/15 p.14

依子はストーカー気質で自己卑下をやや拗らせているのが事前に提示されている。

「私を見捨てるその日」に言及する依子。
同 p.27
ストーカーとして自覚ある依子(左)。
同 p.38

6話目(p.59-70)では冬の日に雪遊びを楽しんだ司と依子は雪だるまを作って帰るが、この雪だるまというモチーフ(「物語に何度も登場するもの」と理解して良い)の扱いから二人の立場の違いがはっきりと示されることとなる。

それに先立ってもう一人のメインキャラクター西宮透の見解も述べられているが、これは透の立場(表面的なニヒリズムと内々の羨望)を併せて示すと同時に、雪だるまというモチーフの基本的な意味を設定する働きもしている。

透による見解。
同 p.67

「明日には溶けてしまう」という儚い存在であり、また「青春」の刹那的な楽しさを象徴するということが透の言葉により読者の共通認識となる。司と依子はそれに対しどういう態度を取るのか?

第一に司は家で雪合戦をしたがる妹達を窘め、「今度積もった時」の話をする。「何度でも一緒に作ってあげる」という言葉は司の未来志向をはっきりと示している。「青春」的な瞬間がこの先いくらでもあることを確信しているのだ。

同 p.69

一方の依子は密かに雪だるまを持ち帰っており、保存を試みる。演出から雪だるまというモチーフが司との関係性と結びつけられているのは明らかで、つまり「青春」的なものは依子にとって今にしかなく、それを繋ぎとめること、現状維持に全力を注いでいる。

同 p.70 (リーダー基準の為ページ表記とズレている)

これらの描写は数ページに渡るので単純な視覚的対比ではなく概念的なものが、雪だるまというモチーフが軸になることにより、読者の頭の中で二人の思考が対比される。

そして更に重要なのは、対比がこの場面、この話数でのみ意味を持つのではないという点だ。「文脈」について触れたように、二人の対比はこれまでの言動を整理するものでもあり、そして今後の展開(思想の違いから生じるある種の確執)を匂わせるものでもある。つまり物語の背後にある構造、進もうとする司と留まろうとする依子の思想的対立を示しているのだ。

司と依子を対比させる演出はそもそも1話目の冒頭、家庭環境の違いを示す形で既に現れている。しかし家庭環境と人格形成が密接な関係にあるとは言え、それだけで物語の構造を規定するほどの意味合いを持ちはしない。寂しい家庭で育ったからこそ人との絆を大切にしたい、逆に愛された経験がないので愛するということも分からない、など様々な展開が可能だろう。

こうして考えると6話目の対比は物語の流れにより強く結びついており、別段の重要性がある。有り体に言えば、より深い意味を持っている。後の展開もこの思想的な対立構造を掘り下げて行き、それが巻末の事件へと収束する訳である。

また、少し余談となるが、この対立構造が対称に見えることも興味深い。依子のストーカー行動が秘密裏に行われる都合上、普段の印象としては依子の方が情報的に優位に見えるのだが、司にも確かに秘密にしている感情がある(例えばp.73やp.79)。対比に着目することで別角度の読み方が浮かび上がって来る、と言い切るのは大袈裟だろうか。

結び

これは別に考察ではなく教科書的な読解なのだが、では何故書こうと思ったかと言えば、対比とは何か、モチーフをどう用いるか、物語の構造/テーマをどう提示するか、といった点が体系的に語られることがあまりないように思われたからだ。特に四コマ漫画でこうした理知的な(要するに頭を使うような。演劇で言う古典主義。⇔感覚的)演出はなかなか見られないような気がする。まぁそもそも背後に何らかの構造を強く意識した四コマ漫画自体がそう多くはないかもしれないが。

何にせよ対比という演出自体はよく行われるものなので、よく出来た例は読み手にも書き手にも時に参考になるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?