英雄の条件

『天元突破グレンラガン』(以下ネタバレ注意)という勢いの塊のような作品があり、間違いなく名作なのだが、同時にその結末はどうしても納得行かないものでもあった。

グレンラガンは「螺旋力」による文字通り無尽蔵のエネルギーで突き進む、「リアリティと共感」で言う感覚的リアリティが強力に駆動する物語だ。どんな困難、神の如き敵であっても気合で打倒する物語であればこそ、最終話において何故ヒロイン・ニアは消えなければならなかったのか?

文字通り「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」終わり方では何がいけなかったのか。ギミーが正にそう問うたとき、主人公シモンは「無理に蘇らせたって、後に続く連中の邪魔になるだけだろ」だと説く。
しかしニアだけは違ったはずだ。「どっちも守る! 女も、宇宙も、どっちもな」(第26話)と宣言したニアだけは。

一つ注目されるのが、円満に家庭を築いているダヤッカの存在である。第20話でキタンに言った「今の俺は、死んだ男(カミナ)よりも生まれてきた子供の方が大事なんだ」という言葉には、はっきりとシモン達との立場の違いが表れている。
この二人は最終決戦でも対照的な帰結を見せる。キタンは起死回生の作戦を成功させる為に犠牲となる一方、ダヤッカは無事に生還する。所帯を持った男が英雄的に散る訳にはいかないのだ。

そこで「英雄の条件」である。
『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』において、電脳(電子化された脳)ウイルスを用いた「英雄」のプロデュースを目論んだゴーダは「童貞だったという因子」を発症の条件として示唆する。「民衆の為の英雄に殉教する覚悟を求めるなら、それは欠かせない要素だ」。
(この後の「かく言う私も童貞でね」というカミングアウトは一時期ネットミームとして流通した。)
所帯を持たないという意味ではグレンラガンと共通した英雄観が見て取れる。或いは『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』における「無頼」なども近いイメージだろうか。

グレンラガンは「男の物語」と自称する通り「男らしさ」をはっきり押し出しているが、にもかかわらず伴侶の存在が否定されるのはやや奇妙でもある。
この手の「男らしさ」は男性性研究において「ヘゲモニックな男性性」として分析されており、それは女性に対する支配(いわゆる家父長制)と不可分なはずだからだ。対象なき支配というものがあり得るだろうか?

ここで参考になる、というか言ってしまえばある程度答でもある記事がある。

「一人で立っている人」「一人でも生きていける程強い男」は確かにシモンの、そしてシモンの「アニキ」たるカミナの生き様に一致する。良かった、「ヘゲモニックな男性性」とは違うのだ――そう結論して良いだろうか。

ここで思い起こされるのが前半の敵となる螺旋王ロージェノムである。その王座では常に女性を侍らせ、これぞ悪の親玉という様態。そう、ロージェノムもまた「男らしさ」を帯び、そして悪なのだ。
一方の主人公側は当然正義でなくてはならない。「男らしさ」があっても正義でなくては英雄、そして主人公の資格はない。

正義である為にシモンは「男らしさ」を修正しただろうか。
否、シモンは「ヘゲモニックな男性性」を部分的にしか引き受けなかったと言うよりも、その事態はむしろニアの抹消によって巧妙に回避されたのではないか?

そもそもニアの登場も、シモンを英雄たらしめる効果があった。そして最後には英雄でいさせ続ける為に消える。
よく言われる「サービスシーン」的な描写や性役割的な発言は全く自覚されており、批判に当たるようなものでもない。しかしニアのこの運命にこそは、男性性の呪縛が覗いているのではないか。

ジェンダー批評のような内容になってしまったが、物語に無前提な「~すべき」は存在しない。精々「面白くするには」かくあるべし、といった条件付きの経験知があるに過ぎない。
だからこれは完全に、自分を納得させる為の話だ。キャラクターの幸福よりも優先すべき美学など存在しないと信じたあの日の自分を。


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