マルクスの迷宮

思想家としてマルクスほどよく分からない人物はそういない。
まずマルクス主義というものが学問なのか運動なのか謎だし、実はマルクス自身が「私はマルクス主義ではない」と言ったように、「マルクス主義」はマルクス本人の思想とは大きく道を違えている。

とりあえず言えるのは、「マルクス主義的意識」などとふんわり用いられたときの「マルクス主義」は「唯物史観」の簡略版か、酷いときには「文明が発展していくとやがて共産主義社会が到来する」というだけの直線的歴史観を指しているということだ。
(後者は殆ど「弁証法的」と区別がつかない。)

唯物史観についての「下部構造が上部構造を規定する」という言い回しはマルクス本人のものではないが、下部構造(経済、物質の領域)が上部構造(政治や法、精神の領域)を規定する、つまりあるべき姿を決める、と考えると実際のマルクスの主張と一致する。下部構造が大きく発展し上部構造(例えば資本主義)と合致しなくなると、その捻れを正すように革命が起きるというのがマルクスの唯物史観(史的唯物論)だった。

簡略版と言ったものは「奴隷制→封建制→資本主義→社会主義」のような段階を一つずつ踏んで社会が発展する、という程度に退化しており、そのまま受け止めた結果「まだ資本主義の段階にないから一旦プロレタリア(無産市民)がブルジョワ(有産市民)の為に革命を起こそう」など一見奇妙な結論へ至るマルクス主義者もいたという。

当のマルクスは晩年になると唯物史観を殆ど脱却し、それは「西ヨーロッパ諸国に限られる」と明言している。(尤もマルクスは第一に祖国ドイツの革命を考えていたようで、元々どの程度世界的な革命に情熱があったのか私には分からない。)にもかかわらず「マルクス主義的○○」は亡霊の如く現代を彷徨っている。

もう一つは革命運動としてのマルクス主義だが、これは歴史を振り返るとマルクスに限らない特徴でもある。
例えばフランス革命にもルソーなどが思想的基盤を与えたが、「ルソー主義」の革命運動など現代には存在しない。それはその思想に込められた(または読み取られた)理想が既に実現してしまったからだ。マルクスの資本主義への問題意識が生き続けるが故に、マルクス主義も生き続けている。

しかしマルクス主義以外は? という疑問もある。
この点で興味深かったのは近刊の岡本裕一朗『戦争と哲学』で、マルクス達は社会主義を元々主導していたプルードンなどを猛批判し「こうして、マルクスたちは自分たちの対抗者を次々と潰していったので、20世紀になると、マルクスの理論だけが正しいというイメージができあがってしまいました」と述べているのだ。
これが実情なのか私には検証し難いが、実際我々にとって「社会主義」「共産主義」はマルクス主義の色彩があまりにも濃くなってしまっている。マルクス主義のイデオロギー性は当時のまま色褪せず、資本主義への他のオルタナティブを圧倒しているように見える。
例えば斎藤幸平『人新世の「資本論」』が是が非でもマルクスの中に答えを探そうとするのは、イデオロギーでなくて何なのだろうか。これこそ「自分たちの対抗者を次々と潰していった」姿の単なる再演に思えてならない。

ただ一方でマルクスは、「アソシエーション社会」というものを考えてはいたようだが深くは語らず、結果として「マルクス主義には、どんな社会を作っていくかという発想がありません」(前掲『戦争と哲学』)という状況になった。(アソシエーションの知名度の無さはマルクス思想全開の『人新世の「資本論」』ですら認めている。)そこでレーニンは禁止した私有財産を国有にしてしまった訳だが、その決定はやがてソビエト連邦の崩壊へと至る。この点を好意的に見れば、革命運動としてのマルクス主義の失敗は偶然的なものなのかもしれない。

唯物史観の方はというとサルトルまでは似たような歴史観が生き残っていたが、レヴィ゠ストロースの批判を皮切りに構造主義の荒波に呑まれて消えてしまったようだ。西洋の「文明人」社会が「進んで」いて他の「未開人」社会が「遅れている」という差別思想はここで漸く姿を消した。
ただ何故か「マルクス主義的」を隠れ蓑にした唯物史観の残党がいるのは上述の通りである。

こうして振り返ると、個人的にマルクス主義への悪印象は革命思想としてのイデオロギー性、そして唯物史観の亡霊であることが分かる。後者は論外として、前者の取り除かれたマルクス主義などあり得るのだろうか。「マルクス主義」とは呼ばれぬ社会主義的政策がそれではないのか。
マルクス主義という言葉の呪縛はどうにも窮まっているように思われる。

(個人的には技術的な生産性向上と福祉国家を支持しているが、前者について踏み込む政治家は残念なことに少ない。)

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