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栽培

 鼻をかんだティッシュか、血を拭ったティッシュか分からないが、散乱していた。ただでさえ狭い部屋は男一人が入るともう、独房のようだった。ふと昔の写真を見る。賃貸なのに壁に穴を開けてしまった、と一瞬の後悔をまた経て、写真の中の自分を捉えた。春、空、風、入学式。連鎖するように、今の生活とまるで反対のことを思い出してしまうのは、いい記憶が眠っているということだ。彼なりの適当な解釈を終えて、かび臭い照明から垂れる紐を引いた。
 彼は完全な暗闇が嫌いだった。カーテンから差す街灯と月の明かりを欲していた。性格とは対照的なその性質を彼自身は少し恥じていたが、それでも治ることは無かった。カーテンを開け忘れたことに気がついて体を起こすと、手探りで紐を探して、また照明をつける。
 ぱっと明るくなったところに、影が見えた。急に明瞭になった世界に、慣れない目を一瞬閉じてしまい、後悔する。もう一度目を開けると、そこには黒いパーカーを着た背の高い人間がいた。人間は動かずただ目の前に立っていて、男は時が止まったのだと思った。体が動かない。眼球をやっとの力で引きずって、家に入った人間の腹部から顔へと視線を移す。頭の引き出しから家族、友人、警察官、教師、クラスメイト、それから顔を知っている人間をすべて並べ出したが、目に映る顔はどれにも当てはまらなかった。女か男かも分からない。ただ、笑っていた。助かるかもしれない笑っているのだから。反抗せず言うことを聞けば黙って帰ってくれるかもしれない。助かる。良かった。
 彼は突飛な発想に至った。謝れば良いんだ。自分のした事、同級生を殴って目を見えなくしてしまったけれど、生意気な女を縛って何時間も罵倒してしまったけれど、その女は手首を切りすぎて病院送りになって、それを聞いた時相変わらず気持ちの悪い女だな、と嘲笑してしまったけれど。何だって詫びれば済んだんだ。今日も、そうに違いない。ごめんなさい。彼は言った。自信はあったはずなのに、声はか細く、絞り出したかのようだった。それでも不思議と、静かな深夜の独房にはその弱い謝罪は響いた。目の前の人間は表情を変えず、目を合わせながら腕を振った。何だか分からなかったが、視界の隅に素早く動くものがあった。次の瞬間、男は床に倒れ、投げ出された自分の手を見ていた。頭が熱く、その熱が全身に拡がって溶けていくような感覚に襲われ、ゆっくりと意識を失った。
 鼻の奥がツンとして、苦しい感覚に包まれ咳き込んだ。水を吸ってしまったのだ。理解すると共に、歪んだ視界に入る女の姿を認識した。何だ。女か。殺してやる。俺の家に入って、殴って、水をかけて。俺がお前に何したんだ。気色悪い。てか誰だ。名前と用件を言わないと殺すぞ。罵るための言葉が次々に浮かぶ。口元の水がはけたら、全部言おうと決めた。しかし、それよりも先に目に溜まった水が瞬きで流れた。女の背後の景色にピントが合う。妙に明るい、小さな部屋だった。黒色の壁紙には、まだらに白の模様がついていた。悪趣味なこの部屋は俺の部屋じゃない。とたんに怒りとも違うストレス、男の、日常では感じえなかったものが込み上げた。手足の自由が無いことに気づく。男は金属の硬い台のようなものに寝転んでいた。困惑していると、女が動いた。男を殴った時のあの表情でゆっくりと、でも確かに動いていた。女は黒のロングヘアを揺らし、足を地面に擦りながら男の顔のすぐ近くまで寄ると、一言、「おはよう」とだけ囁いて右横のドアからどこかへ行った。耐えきれず震え出した男は、女の顔と、声と、動きとを頭の中で何度も再生しながら、状況を理解しようと必死に考えた。
 自分の呼吸が荒くなっていることに気がつき、深呼吸をしようと肺に溜まった空気を吐こうとした。自然と俯く姿勢になって、壁にもう一度目がいった。黒い壁は、インクにしてはムラがあり、白のまだら模様も偏っていた。黒色の層ができていて、塗り残したように白が配置された、形容し難い、しかし一度見たなら忘れないような壁であった。
 男がその黒色が血であると分かったのは、深呼吸を一度済ませた後だった。殺される。思った瞬間、力が抜ける。呼吸はさっきよりも荒くなっている。頭は殴られたし、何も考えられない気がした。ただ、思考より感情が脳内を巡っていた。痛い。怖い。今は何時だ。ここはどこだ。さっきかけられた液体は、本当に水なのか。頭を振って、液体を払おうと試みる。鉄臭い、黒と黄の汚れたTシャツで頬を拭ってみた。どうせ殺されるのに。
 無意味にガチャガチャと拘束具を鳴らす。全身の力を右腕だけに集中させて、力いっぱいに引っ張った。が、金属の拘束具は簡単に取れるはずがなく、男は更に脱力してしまった。昔から力には自信があった。人を殴っても、自分の体感と人の反応は一致しなくて、軽く目が覚めるくらいの拳をくれてやったつもりでも、相手は泣いて逃げてしまう。あいつの目を潰した時も、指になんだかこりっとした感触があって、うわ、こいつやらかいな、と薄い感想を述べて、へらへらと笑っていた。それなのに、力に頼ってきたのに、ここに来て薄い革と鎖に捕まっている。イライラしてきた。しかし、怒りの感情は今の状況に至っては好都合だった。恐怖で動けなくなるよりは幾分ましだ。男は、思い切り叫んでみたりもした。喚いたという方が合っているが。助けてー、なんて懇願するような叫び声ではなく、あーとか、わーとかいう、意味の無い、大きいだけの声。小さな部屋に声はとどまり、外界に響いている様子はなかった。
 女はいつ戻ってくるのだろう。部屋の天井には黒い飛沫のかかった洋風の照明があって、紐付きの古い照明に見慣れていた男に、人の家に泊まった時の夜を思い出させた。人の家、といっても、彼が泊まったことのある家は一つだけだった。初めての彼女ができて数ヵ月した頃に、家に来ないかと誘われて、一泊したことがあった。期待以上のことはなかったし、今考えてもつまらない女だった。怒りが溜まる。名前はなんだったっけな、みゆだかはなだか。あいつも、詰めて病院に送れば良かった。鼻水と涙にまみれた顔ですすり泣いている姿を想像すると思わずにやけてしまう。よりによって、何で俺がこんな目に。敵を作りながら生きているつもりもなかった。いたとしても、どいつも怯えて塞ぎ込んで、泣きながら閉じこもってんだろ。
 男は、自分を殴った女の顔を思い出していた。二重と一重の目が左右それぞれ、笑った時にえくぼができる、よくある顔。化粧はしていないように見えたが、一つだけ、似合わない赤い口紅をつけていた。世界にある全部の赤を煮詰めたような、熟れた、老いた、赤。もう一度記憶を辿ってみるが、そんな女は知らない。覚えていないのではなく、完全に知らないのだ。殴られた頭がズキンと痛む。ああ、さっき囁かれた時にワッと大声をあげて、鼓膜でも破っておけばよかった。気づけば男の呼吸は落ち着いていた。相手は所詮ゆっくり動く変な女だ。男は拘束具の存在を忘れたかのように楽観的になっていた。犯罪だ、傷害罪だと脅せば解放するだろう。泣けば同情して隙を見せるだろう。俺はもう大人だし、訴訟を起こせば金も入る。目を乾く限界まで開けて、もう涙を貯めておくか。
 ガタン、ギギギギと音がして、ドアが床を引きずりながら開いた。助けてください。咄嗟に思いついた言葉をそのまま口に出した。同時に涙も流したが、その男の渾身の演技に、女は黙っていろというようにドアを勢いよく閉め返事をした。女はドアの奥から顔をのぞかせたその瞬間からずっと、男の目をじっと見ていて、目が合ってしまった男はその狂気を感じ取ると、本能的にさっと目を逸らした。女は果物を持っていた。赤色、黄色しか分からなかったが、この部屋にそぐわない爽やかな良い香りがした。
「この果物はね、」
女は意外にも楽しそうな声を出した。
「うちでつくったの。」
男は目を逸らしたまま、次の言葉を待つ。
「レモンと、いちご。好き?」
男は女の発する単調な文の、その奥にある意味を探ろうとしていた。が、急に疑問を投げかけられ、考えずに、好きです、と口にした。力んだのか、半ば叫んだようだったが、彼はそれを恥じている場合ではなかった。
「良かった。」
女は常に笑っていたが、さらに口角が上がり、きゅっと目を細めた。男はそんな表情を伺いつつも、目を合わせないように注意していた。何だ。何なんだ。女は動かず、そのまま五秒ほどたった。静と動が極端なこの女は、コインを入れると機械的にルーティンをこなす、遊園地の人形のようだ、と男は心の中で形容し、いや、春の遊園地、春を思い出すからと別のことを考えようとした。女は慣れた手つきでレモンの皮を剥き始めた。いや、女の持つ長く鋭い爪は果肉に到達しそうなくらい深く突き立てられていて、剥くと言うより切り裂くに近かった。女は皮を裂き終わると、男の口元にひと房のレモンを近づけ、食べて、とだけ言って男の唇に押しつけた。男は思わず顔を背けたが、反抗的な態度をとってしまったことに不安を覚える。追い打ちをかけるように男は腹が減っていることを初めて認識した。食べても良いかもしれない。そう思った時、頬に何かが触れるのが分かった。冷たいレモンの房だった。女は、男に近づける手の動きを止めていなかったのだ。本来口のあった場所に向かって、男が口を背けたにも関わらず押しつけ続けている。異様だった。房が潰れ、液体が頬を伝う。やがて固く尖ったものが男の頬を突く。爪だろうか、い、痛、痛い痛い痛い。顔を動かして逃げようとするとさらに食い込む。女は押すことを止めない痛い痛い痛い痛い。声が出そうになって口が少し開くと、爪に切られた肉が擦れて痛みが増してしまった。男に機械的、と形容されたその女の異様な性質は、間違いではなかったのかもしれない。人差し指と中指と親指の、長く突き出た爪の部分が全て男の肉の中に収まった時、やっと女は動きを止め、一気に引き抜いた。感情のない、無機質な暴力。男は知らない暴力を体に刻まれ、戦慄していた。血とレモンの果汁が混ざった液体はぬるりと耳の穴に入り込んだ。女は笑っている。
 無力感に苛まれつつ全ての果物を食べ終えた時、男は人生のことを考えていた。やり残したことはたくさんある。けれど、死にたくないかと言われると、そうでもなかった。ただ、このいかれた女に殺される最期は嫌だ、もしそうなら舌を噛み切って死んでやろうか、とぼうっと考えていた。頬がどくどくと鳴っている。
 「レモンもいちごも、植木鉢で育てられるのよ。」
女は言って、残ったヘタや皮をガジガジと食っていた。男は、そうなんだ、と思った。血が乾いて、肌がつっぱるような変な感じがする。
「私は、さいばいしゃなの。」
栽培者。一瞬、漢字に変換できなかった。栽培をする人のことか。まあ、だから何だ。俺を何のために連れてきたのか、早く教えろ。そう言いたくなるのを堪えて、
「なんで俺をこんな風にしてるんですか。」
ときいた。声は依然としてか細く、動かすと増す頬の痛みは、しっかりしろ、と鞭打つようだった。態度に対して小さすぎる勇気を、男は過信してしまっていたのかもしれない。女は、
「それでね、プランター、つまり、植木鉢がもっと欲しいなって。」
と構わず続けた。俺の言葉を徹底的に無視するつもりだ。男は勇気を最大限に出して言ったので、肩透かしを食らったようで少しイライラした。沈黙の後、女は流れるようにこう言った。
「君に、しようかなって。」
男は自然と顔をしかめていた。意味がわからない。彼は女の、一言を溜めて話す癖のために、自分を一体何にしようとしているのか、言葉を思い出す必要があった。そうだ、プランター、植木鉢。意味はいっそうわからない。俺に植木鉢を買ってきて欲しいということか。それとも、何らかの理由で、俺が植木鉢を多量に所持していると勘違いしていて、俺から盗もうとしているのか。
女はなお、男の目を見つめている。
 女はぐるんと向きを変えて突然出ていった。男は女の言ったことについて、そう深刻に考えていなかった。抵抗も反論も質問も、今出来そうな全ての行為はやってはいけない。脱出の方法も思いつかない。ただ無気力になって、女を待つしかなかった。殴られた所が痛む。さっき頬を刺された時に力が入ったのか、手首と足首の拘束された部分も痛かった。
 次に部屋に入ってきた時、彼女はワゴンを引いていた。金属製で、手術室にあるような。男は嫌な予感がしていたが、ワゴンに整然と並べられた金属製の器具を見つけると、いよいよ覚悟を決めた。腹を切られて内臓を売られるらしい。女の言ったプランターというのは、そういう、闇業者が使う隠語か何かだ。くそ。何で俺が。女が目の前に注射器をかざした。男は驚いて、ヒュッと息を変なふうに吸って空気を呑みこんでしまった。
「意識を保たせる薬。」
自慢げに言われた。意識を保たせる、はあ。麻酔じゃないのか、手術をするのに。男は混乱していた。顔を上げて、訴えかけるように女を見たが、彼女は固定された笑顔のまま、それ以上の説明をしなかった。ちくりと腕が痛んで、5mlの目盛りを指していた薬がぐんぐんと注入されていく。女は注射が上手かった。針を眺めていると急に、男の視界がぐるぐるになった。ぐるぐるぐるしてめがさめ。ぐ。たくさん。ああああ。たくさんたくさんぐるぐるし。して。じんじんじんじんじんみみとめ。みみみめめ。たくさ。ににあついくなっていて。あ。ここはせかいあただった。は。あはははがたがたがたゆ。ゆれのうがゆていて。ぼくぼはまきたりゅうなおれ。あついくなってゆあ。めがまわまわってたくんさめてや。めろ。ゆめをみ。いる。これはゆめだた。これは夢だ。これは夢だ。覚めろ。早く覚めろ。男はいつの間にか開いていた口を閉めようとして、ぱちぱちと音がすると、自分が泡を噴いていたことに気づいた。そんなことより。そうだ、これは夢だ。最近疲れていたしな、カーテンを開けようと思って、その時寝てしまったんだ。何から何まで幻想だ。ああ、ほら、痛くない。なんだか、首から下はふわふわしていて、もう痛み、なんなら感覚もない。よかった。ははは。馬鹿みたいだ。夢の中の女に怖がって。半分寝てる脳の中で、今までに見た女の顔が混ざったから知らない顔みたいに思えたのか。なんだ。夢だと分かったということは、そろそろ覚めるだろ。
 女はメスを取りだした。やめろ。いくら夢でも、自分の臓器なんて見たくない。覚めろ。いつの間にかTシャツは切られ、胴体が露出していた。彼女は右の脇に刃を置いて狙いを定めると、さっと手を動かした。動きに目が追いつかなかったが、なぞられたところから、じわ、と赤い血液の球が生まれた。二つ、三つ繋がって、だらだらと垂れていく。男は意に反して声を上げていた。夢だから痛くない。痛くないのに。彼は体より心が酷く痛んだ。こんなに自分を情けないと思ったことはなかった。女は左脇をもう切り始めている。もう嫌だ。誰か。助けてくれ。男は気がついたように叫び出した。もういい。誰でもいい。殴って悪かった。本当に、後悔してる。女に投げつけた言葉も全て嘘だ。すまなかった。だから。助けて。起こしてくれ。殴って、いいから。
 吠える男をよそに、女はてきぱきと作業を進めていた。最初からプログラムされていたかのように、丁寧かつスムーズに、さっさと肉を切っていた。彼女の力は強く正確に作用し、あっという間に腹は開かれてしまった。しばらく自分の中身を、知らないで生きてきたものを静かに凝視していた男の目からは、やがて、涙が溢れ出した。グロテスク、という言葉で収めるにはあまりにも他人事すぎる。痛みを伴わない暴力もまた、彼は知らなかった。
 「どっちがいいかな」
女は小さく呟いて首をかしげた。
「取り出してっちゃうのもいいけど、蛆虫に手伝ってもらうやり方もあるの」
今度は男に向かって言った。男はショックで気を失ったり死んだりすることは無かったが、言葉を理解できなかった。これが夢である根拠をもう一度、混乱した頭で考えていた。嗚咽と震えが止まらない。
「あっ!そう、蛆!蛆の死骸は肥料になるんだった、確か!」
久しぶりに女、女性が喜んでいる声を聞いて、男は手をぐっと握った。もう女は消えていて、残されたワゴンにあった銀色のトレイの中には、刻まれたものが無造作に置かれていた。気持ち悪い、と思いそうになって、男は慌てて否定した。自分の体を気持ち悪いと思いたくなかった。彼にとって、例えそれが死んだ組織の塊だとしても、夢の中だとしても、自らを否定する行為はすべて悪であった。親孝行をするタイプではないが、与えられた体を大切にしない奴には腹が立つし、容姿を貶す馬鹿は大嫌いだ。昔から男が道徳の教科書と唯一意見が合致していたところだった。俯けば赤色と桃色のものが見える。隙間を埋めるように赤黒いものが満ち、熱を帯びているのがわかる。呼吸すると上下に揺れ、冷たい台にどろ、と垂れて、血溜まりをつくる。彼は視界が曇っているのが救いとさえ思った。俺は、こんな状態でも生きてしまっている。
 女は意外と早く帰ってきた。青色のバケツを持って。中身は予想がついていた。うごめく何かがバケツの側面に陰を作っていて、男の顔を歪ませた。死んだら覚める夢。これを男は何回かみたことがあった。…蛆程度では。いっそ、女の言った「取り出してっちゃう」やり方のほうが、一瞬で。男はそうして、自分の死を、解放を望んだ。女は手際良く、男の体に淀んだ影を落としているバケツを、ざらざらと音を立てながら傾けている。男は歯を食いしばり、吐くような不快感に耐えながら目を瞑った。次に目を開けた時はきっと。すすで黒ずんだ天井に、古い照明から垂れた紐と、そして、画鋲で捕らえられた写真の中の春。見えて、夢のことをすっかり忘れてしまう。

 男は弱かった。窮地に陥ったときは行いを懺悔し、余裕を持ったときは誰かを傷つけるアイデアを生んでいる、そんな、見せかけの強さ、プライドだけを持った人間であった。しかし、ただ言われた仕事をして帰ってきて、おかえりと言ってくれる相手もいない、六畳の床に倒れて酒を飲む空虚なサラリーマンや、挨拶を返さない近所の青年を叱り、園児に笑いかけるのが趣味で、切り詰めた生活の中で年金が頼りのけちな婆さんなどという、つまらない人間の類ではなかった。彼は罪を幾度となく犯したが、その一つ一つに理由があり、やり方があり、感情があり、しかし一貫するものもあって、もし彼を主人公に映画を作ったなら、見応え、テンポ、迫力、すべてが良い出来になるというくらい、おもしろい、人間だ。牧田 竜、といった。昔はただの、春が好きな少年だった。彼は、キャラクターやアーティスト、俳優、ゲームなどにおいて、好きな存在、いわゆる「推し」はいなかった。ただ、純粋に、ひたすらに、春が好きなのである。
 男の瞼の裏には、春の風景が焼きついている。今、腹を虫に食われているときでさえ、春が目に映る。ここ数年、彼が道を、人が通るはずの道を踏み外したときから、思い出すことをやめていた。心の奥底に罪の意識があったのだろうか、幸福な思い出と季節は邪魔であった。しかし今の彼は冬眠している熊のようだ、深く眠って、春を待つ、暴力的で悲しい、雄の生き物。

 しばらくして、死んでしまった。あんなに力に飢え、腐った脳で屑の生活をしていた、あのおもしろい男は、眠るように死んでしまった。女はずっと見守っている。男の死と冬眠とその終わりと、春の訪れを見守っている。女はただの狂った、男と全く関係のない赤の他人だったが、文字通り栽培者であった。植物の栽培が趣味で、いろんな植木鉢を持っている。本当に、たまたま入ってみた家に、ちょうど良さげな若者がいたから連れてきたまでで、男の罪深き人生や感情などは知る由もない。彼女の日常に、運悪く巻き込まれてしまったのが牧田だっただけだ。女は、したいことをするのだから、仕方がない。見たいように男を見ている。男が死ぬことによって蛆が生きるなら、なんて美しい自然のサイクルなのだろう!女は感嘆すると、男の死体、腹を開かれ虫の蠢く将来の植木鉢に、ちゅ、とキスをした。無防備かつ無惨な姿で目を瞑った男を愛おしく思った。

 温室に、やわらかい日差しが差し込んでいる。男の嫌った暗闇のない、心地よい春の朝、女は花に水をあげる。育てているのはマーガレットで、健気にしゃんと立ち、残酷な冬を否定するように太陽を向いていた。土には肥料となる粉砕された蛆が混ぜられていて、調達した大きな植木鉢も相まって完璧な栽培だ。春を知らせる花の香りが彼女の鼻をくすぐり、命を祝福した。
女は伸びをして、とびきりの笑顔を咲かせ。
「おはよう!」

 男はまだ目覚めない。


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