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競技麻雀が行き着く先はどこ?(前編)※無料記事

【持ち時間をどうするのか】

 先日書いた『若手プロに知ってもらいたいこと・魚谷侑未の九蓮宝燈狙いの是非』を読んだという方とやりとりする中で「競技麻雀の定義」を改めて書かないとなあと、そういう気持ちになった。
 でも、過去の記事を調べてみたら、このテーマは前に書いていた。『麻雀の歴史シリーズ⑥競技麻雀は「競技」なのか』という回に結構くどくどと、私なりの「競技麻雀論」を書いているので、まずはそちらをご覧いただきたい。

 もちろん今回の記事は、予備知識がなくても読めるものにしたいとは思っている。だが、同じことを繰り返して書くつもりはないので、そのあたりはご了承いただきたい。

 まず、現在おこなわれている「競技麻雀」は「かろうじて競技として踏みとどまっている状態」だと私は思っている。
 それは、プレーヤーの皆さんが、今の競技麻雀を「競技だ」と認識しているからだ。もっと言うと「競技にしなければならない」と考えて協力しながらプレーしているから成立している。
 よく言われる「スポーツマンシップにのっとって」という「共通認識」があるからこそ麻雀は「競技」でいられるのだ。

 ところがもし「共通認識」を持っていない人たちと戦う舞台があったらどうなるだろうか。たとえば外国人選手と国際大会をやったらどうなるだろう。

 日本式麻雀の世界選手権がパリとラスベガスで開催されたが、その時、大きな問題はなかった。
 参加した世界中の選手たちの「日本へのリスペクト」が非常に強かったため、参加したすべての人たちが「フェアプレー」を心掛けており、素晴らしい大会になったのである。
 
 でも、2002年に東京の九段下で開催された国際公式ルールでの世界大会では、ちょっとしたトラブルがあった。

 時間打ち切りありの大会だったのだが、ある国の選手がトップ目に立った途端「トイレに行きたい」と言い出した。生理現象だから仕方ないので「時計を止めますのでどうぞ行ってください」と審判員が言うと「それなら行かなくて結構」と言ってプレーを再開させた。
 しかし、その選手のツモ番が回ってきてもじっとして動かない。
 審判員がプレー続行を促したが「何秒以内にツモらなければならないと、ルールに明記されていない」という理由で、その人は遅延行為をしようとした。

 最終的には「審判員の権限で失格にする」と伝えたことで、その選手はプレーを続行させたが、審判員や運営者、日本人選手らは「卑怯だ」と言ってかなり憤っていた。

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 馬場裕一プロは「日本人は正々堂々とやって、大和魂を見せつけようぜ!」と言っていたが、それを聞いていたライアン・モリスというアメリカ人翻訳家は「まあ、悪いのはその選手やけど、国際大会をやるんなら、もっと性悪説に基づいてルール決めないとアカンわ」と言っていた。
 
 私はその時、ザ・日本人とザ・アメリカ人やなーと思ったが、ライアンが言った言葉で私は「競技麻雀」というものを改めて考えるようになった。

 物事の善悪というのは、世界中で共通認識されているものもあれば、国や地域によって違うものもある。
 「時間打ち切りでトップ目なら、じっとしていれば勝つ」という戦略を平気でとろうとする選手もいれば「そんなことできるわけないでしょ」と「常識」で考えてプレーに参加する選手もいる。
 日本の競技麻雀界がこんな風になってしまったら、かなり面倒なことになる。

 もちろん、1つ1つを潰していくことは可能だ。この件だったら「上家の打牌完了後、1秒以上間をあけ、3何秒以内にツモ行為をしなければならない」などと決める必要がある。麻雀には鳴きもあるから、それについても決めなければならない。ツモ行為と鳴きの発声までの秒数は同じで良いかとか、そういう細かいことを全部明文化する必要がある。
 もちろん、これらは面倒くさいだけで、頑張ればできることではある。だが「実行」するのが非常に難しい。
 
 これまでのように、審判員兼運営スタッフが4卓に1人ぐらいいればいいという配置では無理だ。各卓に最低1人は審判兼タイムキーパーが必要となる。その人がつきっきりで試合を裁かねばならないのだが、それは相当な集中力と体力を必要とするだろう。たぶん、選手よりも疲れると思われる。
 
 私の感覚だが、この仕事を誰かにやらせるならギャラは1日あたり5万円が妥当だ。それぐらい払わないと、やりたがる人がいなくて困るだろう。
 仮にどうにか値切って4万円と仮定しても、参加者1人あたり1万円以上の経費がかかる。その分は参加費を高くするしかないだろう。
 そして多分、結局は誰も違反せず「審判員の意味ある? 1万円の参加費アップの意味ある?」という議論になるだろう。
 私はしばらくの間、この議論は堂々巡りをすると思う。

 でも、ちゃんとした「競技」にしたいなら、そういうことも考えていかなければならないのだ。

 今のところ「競技麻雀大会」にそこまでの価値がないから「法の抜け穴」を狙う選手はほとんどいない。だが、超高額賞金の大会が開催されたり、オリンピック級の重要な大会が開かれる際は「勝つためになんでもあり」の選手が出現するものとして考えなければならないのである。

【ネット麻雀なら実現可能】

 日本プロ麻雀連盟の公式戦でAさんが牌をこぼしたとする。この牌はAさんだけに見えた。

 この場合でも、Aさん以外の人にその牌は見せず、元の位置に戻すのがルールである。

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 私は、これは不公平だから、こぼれた牌は全員に見せるべきではないかと言った。実際、試合中に、私以外の3人に見える角度で牌が落ちたことがあった。これ、自分だけが不利だよなーと思ったから、そう言ったのである。
 だが、勝又健志に「そういう議論はすでに済んでいるんです。たとえばですが、僕の下家が盲牌しない人で、全部を見えるようにツモったとします。そしたら僕、それ毎回全員に言うべきなのかと。それはさすがにおかしいですよね? たぶん、自分だけが見ていたいから誰にも言わないケースもありますよね。試合に集中できないから言うのが嫌だなと思う場合もあるし。でも、ルールだから言わなきゃと思ってちゃんと言う人もいるし。収集のつけ方が難しくないですか? たぶんこの後、ツモる際に見せないようにっていうルールも必要になってきます」と言われた。

勝又健志


 確かに、それはそれでおかしい。なるほどなーと言って、私は「まあいいや」とこの話は済んだ。
 
 でも、麻雀がもし本当の競技なのであれば、まず牌をこぼした人にペナルティが与えられなければならないと私は思う。そういう話もした。
 たとえば1牌ごとに千点とか2千点とか。その上でこぼれた牌は全員に見せればどうか。そうしたら、毎回ツモ牌が見える人も気を付けるだろうし。

 しかし、それも勝又に反論された。

 「でも、次のツモ牌の価値って点数化できないですよね。たとえば満貫ツモ条件のオーラスで、次のツモが見たいとなった時、5千点払っても知りたいということがありえるじゃないですか。もちろんすごく高くすることもできますけど、極端な話、他家の手牌とかツモとかも点棒払えば見ることができるって、もう麻雀じゃないですよね」
 
 確かにそうだ。私が思いつくぐらいのことは、みんな既に考えているのである。
 
 勝又は言った。

 「黒木さん、もう無理なんですよこれ。どこからどこまでが三味線にあたるのかとか、色々と議論してきましたけど、もう、本当に競技としてやるなら、ネット麻雀でやるしか解決方法はないっていうのが僕の結論です」

 そうよなあ、俺もそう思うわ。ネット麻雀なら牌はこぼれないし、持ち時間は測ってくれるし。顔や手つきが見えないから三味線もないし。

 私は勝又に同意した。

 ちゃんと競技麻雀をやりたいだけなら、現実的な解決策は、すべてネット麻雀でやることだ。
 インターネットならではの不正行為にだけ気を付ければ良い。その方が労力としてかなり楽である。コストもかからない。

 だが、弱点は「人間同士が顔を合わせて戦っている方が見ていて面白い」ということである。
 もちろん、デジタルネイティブみたいな世代は「いやいや、別にネットで十分おもしろいし」と言うかもしれないが、ネット麻雀などない時代から牌でパチンパチンやってきた世代にとっては、やっぱり物足りないのであろう。
 
 たとえば「鳳凰位決定戦を今年はネットでやります」となったら、視聴者数が激減するのは目に見えているのである。

【プロ競技という逃げ道】

 今現在、プロ雀士たちがやっている「競技麻雀」はひとつの逃げ道だと私は思っている。
 
 性悪説に基づいて「競技」を作ろうとするから難しいのであって、もしこれが性善説で進めていいなら結構簡単なのである。
 要するに、今、競技麻雀大会や巷の雀荘でやっているようなやり方で十分なのである。
 「まあそこまで酷いことするやつはおらんやろ」でやっておいて、万が一インチキするような人がいたら個別に対応するというやり方だ。

 プロ雀士には「性善説」を押し付けることがある程度はできる。
 スポーツマンシップにのっとれない選手がいたら、審判員なりが対処すればいい。
 これならギリギリ「競技」あるいは「競技風」の麻雀が成立する。
 そして実際、今はそうやって成立させているのである。

 50年以上前、巷の賭け麻雀と区別するために作られた「競技麻雀」という言葉が今もずっと残っている。
 それ以上に良いネーミングが見つからないままプロの世界が生まれ、徐々に大きくなり、超一流企業がチームを持って行われる「Mリーグ」が生まれた。当然「Mリーグ」は競技麻雀のリーグだ。 
 文化としての競技麻雀はどんどんメジャーになっているのだが、その中身はまるで半熟卵だ。まだ「競技」になり切っていない「競技風」の、半熟の状態でギリギリ形を保っている。

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 だが、世の中の多くの人が「競技麻雀」に興味を持ち、考え、論じていく中で、徐々に卵の殻がめくられて、中身が見え始めていると、私は思っている。
 
 プロ競技者たちの考え方も昔と変わってきており、その変化によって、当然、競技麻雀の在り方も変化していくものと思われる。

 それが良い方に行くのかどうかは分からないが、私なりに「これでいいのかな」という話があるので、それを次回、書かせていただきたいと思う。

(後編に続く)

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