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プロ雀士スーパースター列伝 本田朋広  後編

【子供の霊】

 本田朋広は3人兄弟の末っ子だ。兄が2人いて、それぞれが4つずつ離れているから、長男との差は8つある。
 
 そうか。本田家の長男と私が同世代だから、本田は私世代のオッサンに可愛がってもらえる「ツボ」を心得ているわけだ。

 中学高校時代はよく学校をサボった。すごくグレたわけではないが、無意味に学校をサボって街をブラブラして補導されたこともあった。
 
 どうしても嫌なことがあったとか、そういうわけでもないのに、高校は中退してしまった。

 ずっと甘やかしてきた本田の両親が「さすがにまずい」と思ったのか、本田をお寺に連れて行った。

 「お坊さんが、この子には、遊べんで死んでしもた子供の霊がまとわりついとる、言いよんですわ」
 
 そのお寺、大丈夫なんか?

 「ちゃんとした有名なお寺だそうです。ほんで、その子供の霊が遊ぼう遊ぼう言うて、ほんで僕も遊び惚けてしもうて、学校をやめてしもたっちゅうわけですわ」

 そんなんで本田家の人々は納得したのか。

 「まあ偉いお坊さんがそない言うとんやからということで。ほんで一応は除霊言うんですかね。やってもろてしまいですわ」

 除霊して、それで本田少年は遊び惚けなくなったのだろうか。

 「除霊の効果いうのは分かりませんけど、親に対して、こんなお寺まで連れてこさして、心配してくれとんのやなーと。それまでは、ただ面倒くさいっちゅうか、うっとおしいっていう感情ばかりやったんですけど。よう見たら2人とも年もとってきよるし、もうあんまり心配かけたらアカンて思うようになって、もっぺん勉強して大検(大学入学資格検定)を受けたんです」

 本当にそういう霊がついていたかどうかは分からない。除霊の効果があったのかどうかも分からない。ただ、実際に本田はその頃から真面目になり始めた。大検に合格し、金沢星稜大学にも合格した。
 ちなみに、今は大検は廃止され、高等学校卒業程度認定試験(通称高認)に合格すれば大学受験をすることができる。大検はこの高認よりも合格が難しいものであった。

【自分が遊ぶための店】

 真面目になった本田だったが「遊びを大切にする」ことは忘れていなかった。

 中学時代、少年マガジンに連載されていた「哲也」の影響でクラスで麻雀が流行った。
 以来、麻雀は好きで、いつか自分で麻雀屋をやりたいと思っていた。
 
 大学を卒業して実家に帰って来ると、地元の麻雀荘でアルバイトを始めた。自分の店を出すためのノウハウを得るためであり、開店資金を貯めるためであった。実家暮らしの利点を生かして、コツコツと金を貯めた。500万円ぐらいになったところで、店を出した。

 資金は潤沢と言えなかったので、中古の卓やサイドテーブルを購入してしのいだ。
 だが、店はうまくいき、1、2年で卓などを新調することができた。

 「麻雀はおもしい(富山の方言で面白い、の意)し、こんなおもしいんやったら、自分の店があったら延々と麻雀しとれるわっていう、子供みたいな発想やったんです」

 やっぱり、子供の霊は除霊できていなかったのではないだろうか。
 いや、もしかしたら、子供の霊は本田の本質そのものというか、彼の一部なのではないだろうか。
 お坊さんは除霊したのではなく、本田に「親の気持ちを慮る大人の精神」を植え付けたのではないか。
 あのお寺でそういう措置があったから、人に配慮し優しくできる大人でありつつも、子供のように遊び惚けるピュアな心を持った「ともくん」が出来上がったのではないか。
 本人の話を聞いていて、そう思えてきた。

 しかし「ともくん」の遊び場にすぎない雀荘が、なぜ成功したのか。

 「ただの運ですわ、これは。たまたま、店を出したところに40代から60代のお金と時間に余裕のある、ええお客さんがようけおったんです。別に僕はリサーチもしなかったし、なーんも考えんと、そこに店を出したんですわ」

 そんなこと、あっていいのだろうか。いや、仮にあったとしても、さすがにちゃんと経営しないと、どこかで狂いが生じてしまう。客商売とは、そんなに甘いものではない。

 「それが、僕は経営者というよりも、ただのオーナーに近いんですわ。実際の経営をしてくれる、7つ年上の人がおって、その人が優秀だったんです。麻雀も、最初はその人の方が強かったし、経営についてもリードしてくれてました。僕は正直、店で遊んどっただけです」

【プロ業界への憧れ】

 店はずっと順調で、本田の生活にも余裕があった。
 東京の雀荘の視察という名目で、時々上京している間に、プロ麻雀界とのつながりができた。
 雀荘で働いている若手選手と知り合ったという程度だったが、それが本田の人生には影響を与えたのだった。

 実家ではCSの「MONDOTV」を見ていて、滝沢和典や佐々木寿人に憧れていた。

 「いつか自分も、あの人らと打てたらええなあぐらいで。そんぐらいの憧れみたいなんはありましたけど。まさか自分がプロになるとは思うてませんでした」

 その若手選手が、日本プロ麻雀連盟には北陸支部があって、富山にいても活動ができることを本田に教えた。
 本田は、その若手の勧めもあって、プロ入りを決意した。

 とは言っても、店をやりながら、試合に出るだけのプロ生活だった。
 特に大きく変わったこともなかったのだが、プロ入りから7年目、36歳の時に「第10期麻雀グランプリMAX」で優勝してから、急にプロ雀士としての人生に動きが出てきた。
 グランプリを連覇し、Mリーガーになった。

 東京に出てくるにあたって、店をどうするかという問題があった。
 聞けば、ちょうど1年ほど前に、店を株式会社化したという。
 私はこの件について相談を受けたのだが、それなら株だけ持ったままにしておいて、経営はそのままその人に任せれば良い。社長になってもらって、給与も高く支払えばモメることもないだろう。
 資本主義の社会では、有能とか無能よりも、最初に資金を出したやつが儲けられるようになっている。お前はお前の権利として、その株を持っておけば良い。すぐにMリーグをクビになって、富山へ逆戻りする可能性だってあるのだから。

 そういう話をしたのだが、本田は「ありがとうございます。ようく自分でも考えてみます」と言って電話を切った。

 数日後、本田の出した回答は「やっぱしあの店は、そん人にあげることにしました」というものだった。

 あげる?
 500万円も出資して、10年以上経営してきた黒字のお店を、あげる?
 帳簿を見たわけではないから分からないが、おそらく、色々な付加価値がついて、会社としての価値は500万円から700万円とか、もしかしたら1,000万円とかの価値になっているかもしれない。
 
 それを、あげる?

 お前なあ、ケーキ半分あげる、いう話とちゃうねんぞ。悪いことは言わんから、権利を一部だけでも持っとけってば。

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