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若手プロに知ってもらいたいこと③ 打牌批判とどう向き合うか(文・黒木真生)

 本当に次こそ「近代史」を書くために頭の中で「書き出しをどうしようかな。旅打ちの1シーンからかな」とか考えていたのですが、さすがに避けて通れない話題が出てきたので、申し訳ないのですが、もう1回だけ「若手プロシリーズ」にお付き合いください。

 これ「若手プロシリーズ」にしなくてもいいのですが、でもやっぱり、業界内部の問題なんですよ。

 だって、ファンの皆さんは何を言うのも自由だし、見たくないものを「見ない」と言っても良いからです。
 また、人としてどうかとは思いますが、他人が好きなものを「あなたそんなもの好きなの? バカじゃないの?」と言うのも、まあ自由です。
 だから私がこのテーマを書くとしたら、業界内に向けてかなと。それ以外の観点で書くと、あまり良い結果にならないような気もします。

【打牌への批判は有りか無しか】

 冒頭で話してしまいましたが、打牌に限らず、批判でも罵詈雑言でも、とにかく何でも「有り」ですよ。
 人前に出る仕事を請けた時点で、それらは覚悟しておく必要があります。
 ジャングルに行ってから「蚊に刺された、聞いてない」とか「ヘビ怖い、聞いてない」って言っても意味ないでしょう。
 世の中とはそういうものです。

 ある週刊誌の編集長に聞いたことがあるのですが、子供を殺された親がインタビューに答えただけで、結構な数の批判がくるそうです。その結果、その被害者の親が自殺してしまうケースもあると言います。
 信じられないぐらい恐ろしい話ですが、そういう攻撃性を持った人が一定数存在しているのは事実です。
 
 だから、麻雀プロが試合で取った選択に「これはないわ」とか言われることぐらい、まあ普通なんですよ。

 紳士的に、ちゃんとした言葉遣いで、麻雀の戦術論の向上のために、あるプロ雀士の一打が「これは違うんじゃないか」と問題になることは、非常に健全です。

 それもある意味で「批判」だし、もっと感情的な「バカ」とか「へたくそ」という罵詈雑言も「批判」というカテゴリーに入れられるのかもしれません。
 一言で「批判」と言ってもピンキリですが、プロ雀士の心構えとしては「何でもこい」としておくしかありません。
 今はMリーグが始まって数年ですが、本当に目標とするところに届く頃には「批判」の数も現在の比ではなくなっていると思います。
 表に出る人は、かなりの覚悟が必要になってくるでしょう。
 皆さんが入ってきた麻雀界は、私が入ってきた頃よりもキラキラしていて夢があるかもしれません。お金もがっぽり稼げる世界になっていくのかもしれません。でも、物事にはそれに釣り合うように「リスク」もつきまといます。「良いとこどり」はできないと思っておいてください。

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【素人に負けてしまう玄人】

 ただ、麻雀の世界における「批判」は、他の競技よりも、選手にとってキツく感じるのかもしれません。
 それは、ある意味で「正論」だったり「敗北」だったりするからです。

 2008年のプロ野球クライマックスシリーズで、藤川球児投手がタイロン・ウッズ選手にストレートを投げ続け、ホームランを打たれて負けた試合がありました。
 これに対して、野球マニアの中には批判する人も多くいました。「何で変化球を投げないのか」と。
 確かに、配球のセオリーで言えば変化球が正解だったかもしれません。
 もちろん、藤川も矢野捕手もそんなこと百も承知でストレートを投げ込みました。そしてホームランを打たれ、岡田監督は「球児、お前で終われて良かったよ」と言ってグラウンドを去ったのです。

 これ、批判する人も正論だし、真っすぐを投げた、あるいは投げさせた人も間違ってはいないと思います。
 こんなことに、正解なんてないんです。
 
 川藤幸三さんじゃありませんが「男と男が勝負しとるんやから、ごちゃごちゃ抜かすな!」というのが唯一の正解だと私は思います。

 「いや、そんなこと言ってると野球の技術的発達が」なんて言っても、川藤さんは「やかましい! そんなことより、飯くおうや」とおっしゃるでしょう。

 野球ならそれで成立するのかもしれません。
 でも、麻雀はそういうわけにはいかないんです。

 なぜなら、麻雀の場合、ファンの方が強いということが平気でありえるからです。
 批判している人の方が圧倒的に正しい場合もありえます。
 
 もちろん、プロ雀士たちは強いですよ。でも、それよりも強い素人さんはゴロゴロいます。
 それぐらい、誰もが分かっていることです。
 だから「批判」の説得力が強すぎるんです。

 じゃあ、批判された通りにプロが反省して正せば良いじゃないかと思われるかもしれませんが、タチの悪いことに、その「批判」が大間違いである可能性もあるんです。
 そしてそれが、誰にも分からないというから始末に負えません。
 さらにややこしくなるのは、批判している人が「俺の方が強い、俺の方が正しい」と勘違いしているケースもたくさんあります。
 その判定を誰にもできないんです。

 もちろん、野球だってサッカーだって、何だって「真理」には至っていない部分が多くあると思います。
 だから同じなのですが、じゃあ最終的に「どっちが勝つかやってみよう」という決着のつけ方が麻雀ではできません。
 
 「矢野、フォークのサイン出せ」と批判していた人も「じゃあ用具貸してあげるから球児にサイン出して受けて」と言われたら、その人は大怪我して終わりですよね。
 でも、麻雀においては、ファンが「はい」と言ってフォークのサイン出して、三振にとって「やったー」ということが可能になってしまうんです。

 どうですか? 麻雀プロになんかなったことを後悔し始めていますか?
 簡単に、手軽になれる。でも、なってからが大変というのは、こういう意味なんです。

【議論に参加すべきか否か】

 じゃあ、どうするべきか。無責任かもしれませんが、好きなようにすれば良いと思います。

 球児対ウッズを受けて。

 「配球はこうあるべき」と、野球理論をつきつめるファンの人たちにプロとして付き合って、共に野球理論を高めて行きたいと思うなら、そうすれば良いと思います。

 「いや、自分は違う次元で戦いたいです。いちいち言葉にするのではなく、ストレートの凄みでファンに気持ちを伝えます」というような選手になっても良いと思います。

 私の世代の感覚では、後者を「プロ」と呼んできました。
 
 でも、今は時代が違うんでしょうね。YouTubeやTwitterで超一流の選手がファンにメッセージを発したりしています。ダルビッシュ投手なんて、そんな企業秘密みたいなこと言うの? っていうぐらい、すごく専門的な話をファンに対して公開しています。

 だから若い麻雀ファンたちが、同じようなことを求めるのも自然なのだと思います。

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