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シーグラス

10/18 晴れ
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小鳥遊と書いて「たかなし」と読むのであれば、金玉遊と書いて「さおなし」と読むのだと思う。
金玉から見れば、竿というのは抑圧の象徴なのではないだろうか。そこから生まれる思想もきっとある。
そんなことを考える平日の夜、25歳独身男性の一日。

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YouTuberになりたい。そして自分自身しか面白いと思わない企画を全力でやりたい。

  • 変なフルーツをひたすら食レポする

  • 中公新書の売り上げ1~10位当てるまで何もできません

  • 鬼滅キャラが好きなボカロ曲を勝手に決める

  • 東京の坂道を自転車で登って一番”コシ”のある坂を見つける

  • 道祖神10基見つけるまで帰れない自転車旅

  • 東京で一番温度の高いサウナを見つけて入る

  • 本気で未確認生命体探しに行く

ここら辺の企画は3秒で思いついたものだが、マジでやってみたい。こういう動画が世の中に求められている気がする。
そういう形での世直し系YouTuberに私はなりたい。

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少し前に湘南の海に遊びにいった時のことを、ぼんやり思い出した。
無性にシーグラスが探したくなったので、観光がてら湘南に行った。
シーグラスには石言葉がつけられていて、「奇跡」「出会い」「絆」「生命力」がそうらしい。ただのガラス片にしては立派すぎると感じる。

長瀬有花のアルバムを聴きながら浜辺を歩いた。
そしてオレンジ色のシーグラスを見つけてご満悦でいると、足元で何かが跳ねているのが目に入った。
小指ほどの大きさのカタクチイワシだった。
すこしかわいそうになったので、やさしく握って海の方へ放り投げた。
それから、同じようにして数匹を海へ投げ入れたが、キリがないので見て見ぬふりをするようにした。
そんな私の目の前を、小学生低学年ほどの子供が駆けていった。
どうやらイワシを何度も何度も、海へ運んでいるようだった。
顰めっ面をした彼の目尻には、少しだけ涙が浮かんでいた。
その懸命な姿に私は激しく心を打たれた。
目の前の小さい命を見捨てない高潔さこそ、私が失ったもののような気がした。
その後普通にシラス丼を食いにいった。

海水に濡れて涼しい光沢を放っていたシーグラスも、家に着いた頃には乾いて、くすんだ石ころになっていた。
いつかもっとシーグラスを集めて水に濡らして、小豆小僧のようにジャリジャリ洗ってみたい。
シーグラス小僧というお洒落な妖怪の誕生に立ち会えるかもしれない。



勉強用に本を買います。