東京

5/7 雨
 東京に引っ越してきてから一ヶ月半が経った。杉並区の高円寺というところに住んでいて、そこでリモートワークをしながら、まったりと独り暮らしをしている。前に日記を書いた頃はアカデミアにいたことを思うと、なかなかに急速な生活の変化だ。

 あの頃は、動物の共感という自信の研究テーマから「あらゆる動物種に通底している道徳の基盤を解明するんだ」とか、そのようなことを意気込んでいた。
 かつての人生の目標はもう叶うべくもないが、不満は感じていない。研究を続けていたら全てが破綻していただろうし、今が十分にハッピーだから。

 新しい目標もいくつかできたので、それらの堅実な達成を目指してコツコツ勉強などを進めていければと思う。
 高尚な目標を掲げて、それに至るまでのナラティブを駆動し自分を突き動かすのは、私には向いていなかったようだ。
 「大金持ちになりたい」とか「ドチャクソモテたい」とか、卑近な願いのために努力していきたい。

 東京というのは不思議な都市で、街によって関西以上に色彩が異なっている。
 私の住んでいる高円寺は、古着屋が軒を連ね、銭湯や古本屋、喫茶店が密集している街だ。若者も多く、「サブカルの街」と呼ばれるにふさわしい装いをしている。
 しかし、そこから電車で都心に5分ほど進むと、新宿のような繁華街があったり、反対に電車で進むと、吉祥寺のような成熟した街があったりする。
 関西でいうところの、京都・神戸・梅田・難波・天王寺といった色の異なる街が、地続きでギュッとくっついている。それが現時点の東京への、私のイメージだ。

 街によって人の類型が変わるように見えるのも、面白い。
 渋谷をぶらつくと、ベンチャーの社長風の金髪の中年男性が、若い女性社員を連れてダハダハ笑いながら闊歩しているのを見かけた。新宿ではぴっちりとしたスーツの男性が足早に横断歩道を渡っているし、高円寺では夜になると路傍で中年男性が寝ているし、ネコとフクロウを散歩させている中年男性もいる。
 中年男性一つとっても、なかなか交わることのない種類の人間が、街ごとに棲み分けをしているように思う。

 昔の日記を読み返す機会があったのだが、2017年ごろの私は東京を「スキゾフレニアの街」と形容していた。クソ尖った表現だと思った。
 たぶん本の読みすぎで、そういう気取ったような言い方をしたがっていた時期なんだろう。大二病というやつかもしれない。
 今の私が格好良く東京を表現するとしたら。なんだろう。いい言葉がパッと出てこない。
 高円寺に限れば、街並みが京都の四条界隈に似ているので「現代の小京都」みたいな感じだろうか? 
 みうらじゅんは高円寺のことを「日本のインド」と表現していた。そちらの方が筋のいい比喩だろう。と、言っておく。みうらじゅんについてよく知らないが、権威にあやかっておく。

 まあ、どこに住もうがどんな目標を立てようが、何を達成したかというのが重要だ。
 最近コナンの映画を見に行ったのだが、映画館に向かう際、後ろにいたカップルが、

「東京ってなんでもあるよね」
「じゃあ、東京にないものってなんだろう」
「うーん、夢がない」

 というやりとりをしていた。
 別に東京に夢はあるだろ、と頭の中でカップルの会話に乱入した。カップルの会話というだけでも乱入しがいがあるのに(マジでぐちゃぐちゃにしてやりたい)、夢の話ときたらなおさら突っ込みたくなる。車を運転している時のガードレールくらいには突っ込みたい。

 夢はそこら辺に転がっているもので、結局はそれを見つける目ん玉を養うことが大切なのだ。
 実際、私はコナンの映画を観た後、灰原哀のような天ク美(天才クール美少女の略、フォロワーが提唱していた)と俄然イチャイチャしたくなった。

 天ク美とイチャイチャする、というのが当分の目標だ。
 大阪に帰省した際、友達にタロット占いをしてもらったら6月にチャンスがあるようなので、これからが楽しみだ。本当に。
 ついでに私は占いは信じるし楽しめる派だ。もし占いがウソだとしたら、灰原哀の存在もウソになってしまう。そんなことが許せるのか? 私は絶対に許せない。

 ともあれ、東京は信じるに値する虚構で満ちている。
 この街でのこれからの生活が、心の底から楽しみだ。


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