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まだ 2019 を📃🔥炊き上げている (10月)

10/21
映画 ジョーカーを見た。

たとえば映画館を出たあと、ちょっと人から軽んじられたと感じる場面があり
「今の惨めすぎて(笑)傷ついてジョーカーになってもおかしくなかった」
みたいな冗談がふっと出るとして、それはアリだけど、それは別に主人公アンソニーに寄り添った見方ができたわけではなくて、あの作品を見てそういう振る舞いが出た時に感じなきゃいけないんじゃないかと思ったのは、そういう自分ならいつでも、ジョーカーではなくて、デニーロ演じるマーレーになりうる ということなんじゃないか、みたいなことだった。

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「わたしジョーカーになってもおかしくなかった」と言えた時点で、もう あの司会者が彼に浴びせようとしたスポットライトを、誰か、自分より辛い思いをしている者を、舞台へ引き上げて当てている、当てている側なのだよね?
その想像力を使わない人間は華麗に司会者席で撃たれなければいけない。
何度も殺されたほうがいいし、そのイメージを持っていたいと思った。

そして、それが「華麗に」殺された理由なんだと思う。
目も当てられないような殺され方をしているキャラクターには、あれが自分かもしれないという想像が遠くなってしまうから。

花開くのは狂気であって笑いではなく、狂気が笑っていることでしかない。
ずんと暗くなりながら、でも(チェロと舞踏なども)良いものを見た、と思った。

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10/13
 ラジオ📻 伊集院さん「ハイッ、ドーモー 瀬戸ジャイアントです〜」 
ピン芸人みたいな名前のブドウだとふざけていた。

10/2
あらイタリア語講座の新しい人 可憐な青年だね、先生も笑顔の可愛らしい面白そうな人だ。
(追記:11月に この青年が、らじおとで伊集院さんが写真集見て「ブルーベリーのパイを齧っている写真いいね、パイが食べたくなるというのじゃなくて、この空間に居たいという感じする」と 可愛さ褒めていたゲストの小関裕太さんだと知ったのだった)

10/2
またつくづく最近は 自分が中学生当時に思ったのと同じくらい( 非実在中学生男子および たまに会う実在中学生というのはほんと良いものだけど、実在・日常的に近い中学生は嫌い、嫌いだな〜 )と思っているし、夫に言い散らしているのだけど( 実在中学生男子だったことある人に失礼すぎるのを許してもらっている )

でもまぁ ハザマみたいに、思ったことなんでも全部言ってしまってるんじゃないかくらいのスケスケ人間だとて、その場の空気にあまりそわない態度で居るような者だからこそ、
自分の本心を自分でつかみ出すのが大変、というような焦りみたいなものがあるんだろうな、とも感じることがある。
しばらくはやっぱり何も言わないのが良いんだろうな…

など 考えて 台所で立ち食い朝めししながら 「そんなにせきたてないでよ!」の声を思い出していた。

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