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「一人ぼっちの人がいたら、すすんで声をかけます」

私は大学生になってから、なぜか分かりませんが友達を作るのがとても上手くなりました。大好きな友達に囲まれて、サークルの先輩からは「誰とでも仲良くなれるよね」と言われる。入学したてはまだ #HSP という言葉も知らず、特に何かを意識して友達作りに必死だったという訳でもありませんでした。

友達の多くは、現在所属しているサークルでできました。「放送研究会」というサークルで、先輩たちのあたたかい雰囲気に惹かれて入ることを決めました。

サークル柄、集まるのはどちらかというと控えめで、私にとっては気の合う人たちと出会えました。

どんな集団にも必ずいる、周りと打ち解けるのに少し時間の掛かる人。

私も大学生になる前までは長らく、周りから見たら少々取っつきにくい人に見えていたと思います。けれどその時は違いました。

私の周りにはもうすっかり仲良くなっていつも隣で授業を受ける友達が何人もいて、もちろんサークルでもどんどん友達が増えました。

それまでは新しい環境に慣れることができず、クラス替えの度に「浮いている自分」しか意識できなかった高校までとは違い、人と仲良くなる方法を知った私は、それまでとは異なる視点で自分の周りの人間関係を観察できるようになりました。

自分に友達がいると、まだ周りと距離を取りがちな人のことがよく見えます。

「声を掛けてみよう、1人でいるから」

1人でいるから。ここで私は、小中高と周りと馴染めないでいた自分に構ってくれようとしていた人たちの気持ちが分かったような気がしました。

哀れみに近い感情。

それに気付いた私はすぐに自分自身に嫌悪感を抱きました。同時に思い出すのは、小学校の時に毎朝クラスみんなで復唱していた『なかよし宣言』の一節。

「一人ぼっちの人がいたら、すすんで声をかけます」

大人は私たち子どもが互いに仲良くなれるように、色々な決まりを教えてくれます。

仲間はずれを作ってはいけません。一人ぼっちにしてはいけません。

それはなぜですか?

かわいそうだから。寂しそうだから。

保育園の先生は、小学校の先生は、こんな説明をしてくれます。

ですがこの「かわいそう」という感覚がそのまま声を掛けた相手に伝わってしまった時、その子がどう感じるか考えたことはあるのでしょうか。

一人でいる自分に声を掛けてくれたこの人は、自分のことを一人ぼっちで「かわいそう」だと思っている。

多くの場合がその人の善意であることはもちろん分かっています。分かったうえで、声を掛けてもらった子はもっと寂しくなってしまうのです。

私への純粋な興味よりも、「かわいそう」に見えた自分への哀れみの方が強かったのではないかと、私はいつも敏感に受け取っていました。

声を掛けるきっかけが「かわいそうだから」というのは、これから仲良くなって友達になろうという人の態度ではないようにも思えてしまいます。

対等ではない感じがしませんか?

一人でいるのはかわいそうだから「仲間に入れてあげる」、寂しそうだから「話しかけてあげる」。

うっすらと、上下関係が見えるような気がします。

私はこんな風に善意の「かわいそう」でその時だけは声を掛けてくれる人のことが、ものすごく嫌いになりました。たいていその一時だけ構ってくれるような子は、私と長く友達でいる気は無いからです。

とは言っても、声を掛けてもらうことが人見知りな人や周りと打ち解けるのに時間の掛かる人にとって、誰かと仲良くなるための大きなきっかけになりうることは確かだと思います。

大切なのは声を掛ける側の態度なのではないかと、私は自分の経験から思います。

私は一人でいる人に気付いて話しかけるとき、努めて「かわいそう」とは思わないようにしています。

その人自身に対して、心から興味を持つようにしています。

純粋にその人のことを知りたくて、仲良くなって友達になりたくて声を掛けてみるのです。

私の態度がどんな風に相手に伝わるのかなんて、もちろん分かりません。分かりませんが、私は自分が過去に感じていたような「話しかけてもらったのに寂しい」という気持ちだけは相手にさせたくないと思って、気を付けています。

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