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若いトマトの揚げたん


フライド・グリーン・トマト
初めて本作を観たのは、恐らくレンタルビデオだったと思う。
高校入試、大学入試、就職、結婚。 人生の半分も生きないうちに大型イベントはもうほとんど終わったと思うし、毎日のメリハリとか変化といったものから徐々に離れて行って急に黄昏が訪れたかと思う なんもない毎日、を生きていた(気分)。
これは、どうも違う。でも何をどうすればいいのかわからないし。いや、これはこれで次のフェーズに向かっているのかもしれない、としたらこれで間違ってるわけではないのか。。
勇気のない自分は現状にとどまる言い訳をぐるぐる回しながら過ごしていた。
エブリンは平均的な主婦で、やっぱり、どこか現状に満足できない、でもそこから進めないジレンマを抱えている。少し自分に似てるのかも。

ニニーの語るイジーとルースの友情と・・・彼女たちの人生との闘い、と私には思えた、のストーリーは、観始めてすぐにエブリンとシンクロした私の心にもガンガン響いてきた。もちろん、少しづつ影響を受け励まされて色々なことにチャレンジし始めたエブリンにも。

イジーとルースは周囲の偏見や夫からのDVと戦いながら、彼女たちの足で立って生きていく。その行動力はどこから・・・。友情、というものの力だろうか。私には無縁だが。

それでもエブリンは次第に、ニニーの語るイジーとルースを心の友にして、勇気をもらっていく。平凡で、内気で、すぐあきらめて、きっとそれでもどこかで新しいなにか、新しい自分、を望んでいた。その望みを捨てていなかったからこそ、勇気をもらって前進し、新しい自分を手に入れていく。

すごいな、私にも何かできるかも、いややってみたい。何か前に進むことを。はっきりとした記憶はないが恐らく一人の昼間のリビングで私は涙しながら画面に食い入っていたとおもう。
自分は何をしたいのか、何をすべきか、何ができるのか。自分の価値とは、アイデンティティとは。それまで、通関士の資格も取った。翻訳の勉強もしてみた。でも、それだけ。そこから先に進む行動力と勇気がなかった。でも変わりたい、どうしたら。
20代の私は結婚を機にそんなことを考えていた。特に名前を半強制的に変えざるを得なくなってしまったことは、想像以上に私にとって強い違和感を抱かせた。

  幼稚園の頃。おなまえを呼ばれたら「はい!」っていうために、じっと
  耳を澄ましていた。
  新しいクラスの名簿は何番かなあ、あ、やっぱり一番うしろかあ。
  受験で最も大事なのは、名前と受験番号を書くこと。
  生まれたての自分に親が一生懸命考えて(もしかしたら一生ものと思っていたかも)名付けてくれた。

そうやって、名前=自分と思って生きてきたのに。

なまえ、それは、いのち。ひとりにひとつづつ。
同世代の方なら絶対知ってるあの名曲。
名前、はあなたの最もシンプルで最も原始的なアイデンティティ。

名前を単なる記号、として捉える人たちもいるとは思うが、私にとってはあの曲の歌詞が真髄をついている。

あれからもう30年近く経とうとしている(!)。
人生のイベントはあの後も、形を変えて色々訪れた。もちろん最も大きいことは子供の誕生と成長。自分のが終わっても今度は子供の、人生のイベントを近くで見守るという形で。
そんな機会も「親」としては残り少なくなっている今、また、20代のころの悩みが大きくなってきている。

子供が少し大きくなってから非正規で働き続けて、毎日慌ただしくこなしていくのに精いっぱいで、ちょっぴり社会で苦い経験もして、あの頃の情熱や勢い、根拠のない自信はもう随分小さくなってしまった、けれど。
「今の」自分はもう一度この消えない悩みに正面からむきあうタイミングかもしれない。30年。行動力、ついててくれ。
トゥワンダ! 彼女たちが今また、少し私の背中を押してくれますように。

※タイトルの「揚げたん」は「揚げたもの」という意味

#映画にまつわる思い出

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