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「ありがとう」の探し方

久しぶりの投稿になってしまいましたが、今日久々にnoteにログインしたらトータルで30個の「いいね!」がついたと通知がありました。
まず読んでくださっているだけでありがたいですし、更にいいねまで頂けるのはとってもありがたいことだなぁと思います🙏
しかもどの記事にも1個以上は頂けているんですよね😊
それが本当に嬉しいなぁと思います。

そして今回の記事はちょうど「ありがたさ」をテーマに書こうと思っていたところでした。
きっかけはこちらの本↓↓

こちらの本の中では感謝の大切さも語られているのですが、その中に「ありがとう」の反対は「当たり前」という一文が出てきました。
私自身この本以外でもこれまでに何度も聞いてきた言葉ではあるのですが、今回この本を読んだことで改めて「当たり前の中のありがとうを探すこと」について考えてみよう、振り返ってみようと思い立ちました。

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当たり前=あって当然=100%あるのが当然、と考えると「本当にそうかな?」という疑問が湧いてきました💡

○本当に「当たり前」だったかをこれまでの自分の人生から振り返ってみる

まず「仕事があること」。
これはかなりタイムリーで、まさに先月の今頃の私にはありませんでした。そもそもそれまでにしていた仕事を辞めるつもりは全くなかったのですが、急に辞めざるを得ないような状況に追い込まれてしまったので実質「仕事を奪われた」ようなものだったのです。
この時点で「仕事があること・仕事をさせて貰えること」は(その中身の良し悪しに関わらず)当たり前ではないことだと分かります。

それから「食事ができること・お水を飲めること」。
幼少期に自家中毒にかかったときは何も食べられなくなり、しばらく幼稚園にも行けず毎日のように点滴生活を送っていました。祖母が「じゃがいもくらいだったら食べられるんじゃないか」と柔らかく煮たじゃがいもを食べさせてくれたのですが、それすらもすぐに戻してしまったのを今でも覚えています。
もう少し成長してから・また大人になってからも、何度か罹患してきた胃腸炎では食事は勿論、普通のお水すら飲むのが難しい(スポーツドリンクとか経口補水液じゃないと飲めない)状態でした。

・電気が使えること
・お風呂に入れること
・夜でも日中と同じように生活できること
・電話が通じること
・インターネットが使えること
・テレビや冷蔵庫、洗濯機といった家電が使えること
・信号機や街灯が点いていること etc.
⇒これらは全て6年前に私が経験した『北海道胆振東部地震』でできなくなったことです。
(名前でピンと来ない方も「北海道全域がブラックアウトした地震」と言うと「あぁ!」と思えるのではないでしょうか?)
約2日間に渡る停電により、「電気がないとこれだけ多くのことが出来なくなるのか…」ということを痛感しました。冷蔵庫に入っている食材は冷やすことが出来ないのでどんどん傷んでいき(当時一人暮らしにも関わらずファミリーサイズの冷蔵庫を持っていたこともあり、折角買い溜めてあった多くの食材も1日2日のうちに食べ切れなかったものは捨てざるを得なくなりました)、水しか出ないのでお風呂に入ることもできない、そして夜は真っ暗なのでできることといえば(いつもより相当早い時間でしたが)寝ることくらいしかなかったのです。
また街灯は勿論信号機も全部消えていたものの、当日中に電気が復旧する見込みは薄く(最初は復旧までに1週間かかると言われていた)、実家は車で20分の距離だったこともありまた1人で夜を明かすなら日中のうちに帰った方がいいだろうと実家に戻ることを決め、信号機の点いていない中で運転して帰宅しました。全部の道路がそのような状態だったため交通整理の方がいるわけでもなかったので譲り合いながら運転するしかなかったのですが、そんな中で事故も起こさず無事に帰れたのは今考えると奇跡みたいなものだなと思います。
そして停電からしばらくの間は電話も通じず、当時本州に単身赴任していた父とは1日目の夜になってようやく電話が通じたものの、どれだけ大声で喋っても「え?何?聞こえない」と言われる始末でした。
それからインターネットも最初は使えていたものの1日目の昼頃から使えなくなり、情報を得る手段は非常時用の手巻きラジオだけ、という時間帯もありました。(そもそもスマホも充電できなかったのであまり使わないように気を付けていました)

○他の人の状況から「当たり前」かを考えてみる

例えば私自身は両親も兄弟も健在ですが、友人の中にはお父さんが亡くなっている子やお母さんが亡くなっている子もいます。
親戚の中には兄弟が産まれてすぐに亡くなっていたり、子供の頃に事故で亡くなっていたりという人もいます。
また健在であっても関係があまり良好ではない、既に縁が切れているという人もいます。
我が家はありがたいことに人から「仲のいい家族だね」と言って貰えることも多い家庭なのですが、それも当たり前のことではないのだ、といったように、他の人の状況から気付かせて貰えることも多くあります。

○今「当たり前」と思える状況の中にも、普段忘れている「ありがたさ」がないか思い出してみる

前述した地震による停電での「電気が使えること」もそうですが、他にも「住める家があること」。
実は今住んでいる家を借りるための申請をしたときはアルバイトが決まっただけ(しかもフルタイムではなかった)で、不動産会社の方からも「ちょっと厳しいかもしれない」と言われるような状況でした。
そんな中でも割とあっさりと入居させて頂けることになったのです。(時間はかかったのですが審査に問題があったわけではなく、単に不動産会社から管理会社への連絡が遅れてしまっただけという事情だった記憶があります)
特に治安が悪いエリア・建物というわけでもなく造りもしっかりしているところで当時から快適に住まわせて頂いていますが、あの状況で審査を通して貰えたことを思い返すとすごくありがたいことだなぁ…と思わずにはいられません。
(ちなみに現在はその後に転職を繰り返した結果正社員として勤務しています💡)

このように一見「当たり前」に見えることも、どんなときでも100%そこにあるものか?いつでも100%できることか?といった視点で見てみると、全く100%ではない=つまり当たり前ではない、ということに気が付くことが出来ます。
そして「当たり前」と感じられるほどいつもそこにあるということ自体がとても豊かなことであり、ありがたいことなのだと実感することもできます。

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○番外編・上級編:嫌な人・モノ・出来事の中にも「ありがたさ」を見つける

先程までの「”当たり前”の中の”ありがとう”」とは少し話が変わってしまうのですが、「隠れている”ありがとう”を見つける」という点では共通していると思うのでこちらについても書きます。

勿論最初から無理に感謝する必要はありません。まずは「嫌だ!」という感情をしっかり感じ切る方が大事です。
感じ切れると段々許せるようになったり「いつまでも恨んでいるのも疲れるな」と思えるようになってきたりして、ありがたさすら見つけられるようになります。
例えば前述した「仕事が出来なくなる状況に追い込まれたこと」。
この出来事自体はとても辛いものでしたが、転職したおかげで当時より自分に合った環境で自分に合った働き方ができるようになったり、本当なら来月には貰えるはずだったボーナスが貰えなくなったことでお金の使い方を見直すことができてより満足のいくお金の使い方ができるようになり貯金体質にも近付くことができたり、
何よりとある出来事から「悪いところが自分に似ているからという理由であまり好かれていないのではないか」と疑ってしまっていた父からの深い愛情に気付くことができたのはとても大きかったです。
(今回私が追い込まれた状況に対してすごく憤っていたし心配もしてくれていることを実感でき、また母との電話中に精神的な不安定さがピークに達したことがあり泣きながら母にその疑いを持ってしまっていることを打ち明けたところ「逆、逆!むしろ生まれたときからずっとものすごく可愛がってる!」と言って貰えたため)
また元々自分に合った会社ではないと気付いていたのにお金のために無理をして働き続けようとしていたことに気付けたことで、自分自身や自分の人生に対してもっと本気で向き合おう、真剣になろうと思うことができ、「もし人から叩かれてしまったらと思うと恐い、何も書けない」と思えてしまって書きたくてもずっと書けずにいたnoteもこうして書くことができるようになりました。

それから「幼少期にかかった自家中毒」。
実はこれにかかる前は偏食が結構あり、目玉焼きの白身すら「美味しくないから食べたくない!」というほどだったのですが、この病気にかかって何も食べられなくなったことがきっかけで好き嫌いをほとんどしなくなりました。
今でも嫌いな食べ物はイカの塩辛ぐらいで(味というより臭いが苦手)、自家中毒後も苦手だったみかんや(味もそこまで好きではなかったけれどそれ以上に皮を剥いて手が汚れたり皮や実から剥がれた筋でテーブルなどが汚れたりするのが当時はすごく嫌だった)、ホタルイカ(イカの塩辛と同じ臭いがするので苦手だったけれど調理法によって味も臭いも全く変わることに気付いてからは平気に)など、年々苦手な食材は減っていっています。(なのでそのうちイカの塩辛も平気になる日がくるかも?)

そして「北海道胆振東部地震」。
時間が経ってしまったことで忘れがちではありますが、この出来事で「いわゆる”普通の朝”が来るのは当たり前じゃないんだ」「”普通に電気を使える生活”は当たり前じゃないんだ」などとても大事なことに気付かせて貰うことが出来ました。
また大地震だったので震源地では死亡者も出てしまうほどの悲惨な状況でしたが、私自身は当時少なくとも震度5強の地域に住んでいたにもかかわらず怪我もないどころか家も小物が2、3個落ちたくらいで壊れることもなく済み(このことであの地域は地盤が強いんだなということを実感しました)、更に言えば地震が真夜中だったおかげで火事が起きることもなく、また9月初旬というまだ暖かい季節だったおかげで寒さに震えることもなく済んだのは運がよかったしありがたいことだなと思います(あれが真冬だったり火を使う時間帯に起きていたりしたら死亡者はもっと増えてしまっていたはずです)。
それから私は見そびれてしまったのですが、夜は電気が本当に全くないことで星空がとても美しく見えたと後になって人から教えて貰いました。(それを見逃してしまったのはとても勿体なかったなとちょっと後悔…!)

このように、嫌な人・モノ・出来事の中にも「ありがたい出来事」というのは結構隠されているもので、むしろこういったものの中に隠されている方がより重要なこと・大事なことだったりするものなのかもしれないと今こうして記事を書きながらふと思いました。
特に嫌な人に対しては、これまでの私は結構「あの人今でも許せない…!」とかなり長く恨みがちだったのですが(苦笑)、今回の仕事の件に関わった人達に関しては最初にめちゃくちゃ恨んだり腹を立てたりしたおかげで自然と「もういいや」という気持ちになり、こうして冷静になってありがたさすら見つけることができ、段々彼らについて考えたり思い出したりすることも少なくなってきていて、今は「こっちはこっちで幸せになるから、そっちはそっちで幸せになってください」とさえ思えるようになってきています(勿論だからといって今後も関わりたいというわけではないです)。
そしてこう思えたことで自分の中のエネルギーの軽さの心地よさを感じられたといいますか、恨みがましい自分さえも苦しめるような重苦しいエネルギーを手放せるとこんなにスッキリした気持ちでいられるんだということを実感できたのもとても大きな経験です。

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”普通”の毎日にも嫌な出来事の中にもこれだけたくさんの「ありがたさ」が隠れている→自分にはありがたいことが毎日たくさん「ある」

少し前に、このことを忘れて「自分にはあれもこれもない、足りない」と思っていた時期がありました。
そして実際その時期にはとある会社を退職した後再就職の意欲が湧かずに仕事ができない状態が続き、それまでは結構あったはずの貯金も底をつき、そしてパートナーも欲しいのに相変わらずできない、という状態になってしまい、そんな自分の状況を周りと比べて落ち込んでいたことがきっかけで友人関係でも嫌な思いをすることになり、更にはその嫌な思いを引きずっていた影響でその後に就いたアルバイト先でもトラブルを起こして退職の危機に陥る…といったように、どんどんいろんなものをなくしてしまう状況に陥ってしまいました。

今振り返ると「ない」と思っていたから実際に「ない」状況になっていった、「ない」という不安な気持ちをベースに動いていたからその気持ちが更に増幅するような状況になっていったのだと分かります。

その後アルバイト先での退職危機をきっかけに「感謝」や「あるものに目を向ける」という方向に目先を変えて、今では仕事は短時間のアルバイトからフルタイムのアルバイトを経て正社員となり、更に今回転職したことでお給料も上がり、お金の遣い方も何に遣っていたのか分からないような生活から必要なものやよく吟味した上で選んだものだけを買うようになったので支出は減って満足度は上がり、パートナーに関しては今はまず自分と向き合う時間を大事にしたいし、見栄や体裁を気にして欲しがっていただけで本当に欲しかったわけではなかったのだと気付くことができました。
現時点で「今の自分にとってベストな状況」にいられているので、そこから更に色々なありがたさ、「ある」に気付くことができた今、逆を経験したからこそこれからどうなっていくのだろう?とワクワクしています😊

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