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私以上に私を理解

ツイッターでこちらが流れてきて読んだ。それで考えたことを書きます。

「私以外のシステムが私以上に私のことを理解」。ほんとうにそんなことが起きたら問題だ。だがしかし場合によっては起きるのかもしれない。そう思った。

それというのも「私以外のシステム」というが、では「私のシステム」となると何だろう。たぶんそれは意識のことかもしれない。でこう考えた。私達の意識は何であるのか。

私達は日々の経験の蓄積によって自分自身の意識を日々アップデートしながら保持している。例えば日々の情報源がテレビだけだと情報源に偏りがあることも問題だが、掘り下げの足りない、性急で対立的で刺激的な情報によって意識が形作られてゆくことになる。極端な話だが。

恐らく様々な思考パターンの多くは独自のものというよりは類型的に分類され得る。僕は批判的思考かつ反否定的に見る傾向だと自己認識している。それは批判と否定を異なる概念と僕はとらえていて、検証したいがダメだという否定を極力したくない、ジャッジメントをしたくないという思考を持っている。可能性の検証。それが批判。そして否定はノーと断定すること。ただそれは世間ではすぐに理解されないこともあって批判的な時点で否定と受け止められることがままある。これは視点の違い、認識フレームが異なるので共通認識となるように調整に努めたりもする。あ、話が逸れた笑。

上記のTwitterの引用にある「ミーム化」とは、情報を分析、分類し、ある程度の類型化した意識のパターン化なのだと思う。その有り様は現在のチャットAIのデータをディープラーニングしたプログラムと似ている。本来知識や嗜好、視点の幅はほぼ無限大でそこからの類型化は不可能ではないがかなりの難題のような気がする。それなら人の知識や視点に制限をかけることで類型化が可能になる。

そのための手段としてテレビなどのメディアを使って、多くの人がテレビを主な情報源にするようなライフスタイルを画策する。テレビは一人で見ても複数人でみても楽しめる。見てるだけでいい。それだけで世の中のことが分かったような気になる。テレビの話題が共通の話題になる。40年以上前は親によく言われた。「テレビばかり見ていたら馬鹿になる」気が付けばそんなことを言う人はいなくなった。

こうしてテレビは画一的な情報源として私たちの暮らしに大きな影響を与えた。テレビによる情報制限。そのことによって多くの人の意識を類型化することが可能になったと考えるのはあり得るのか?どう思うのかは自由だ。ただ、テレビやメディアを通じて多くの情報を与えられると多くの人が情報を共有していることになる。場合によっては思考パターンや感情表現なども覚えてゆく。流行語やお笑いのセンスなどのほとんどはテレビを媒介して伝染する。それらがミームなのだと思う。

世界を省略化、ダイジェスト版で見せ、トレンド化した情報知の中で回答を提供するのがチャットAIだ。今後この情報知は拡大し、まるで制限されていないかのように錯覚を覚えるものになっていくのだろう。最近はある写真コンテストでAIが作成したものがグランプリに選ばれた。カウントダウンはすでに始まっているのだ。

AIは今後どこまで発展していくのか。AIが指し示す回答は、世界の真理のようになっていくのだろうか。

AIは人間の認知能力、神経伝達も含めた、脳や神経を駆使した意識すら網羅するようになるのか。それは恐ろしくもあるが同時にゾクゾクする。もしそこまでいくと面白いなとも思う。そうなれば人間の意識はもはや再現可能と言えるかもしれない。人間の持つ直感や妄想、夢はなぜ見るのか。人間の本能自体を解析して情報化できれば、もはや人間が存在する必要があるのか、と思ってしまう。

ここまで文章が長くなってきたので飛躍して書くと、仏教やヨーガで到達する無の境地とかは、遥か昔に人間が人の意識に対して理解を深めた結果、たどりついた境地なのかも知れない。すべては想像だけど、この想像はおそろしくて、面白い。

引用したTwitterのスレッドを拝見すると、統一教会の洗脳についても取り上げられている。いわゆる洗脳の問題だ。人の意識は制限するとその人を操ることができるようになったりする。自分が洗脳されるのかどうか、過酷な環境に置かれるとおそらく容易く洗脳されてしまうのだろうなと思う。

コロナ禍を体験したこの3年半ほどで、色々と考え直すことが多かったように思う。これまではなんだかんだ疑うことはしてこなかった公式に発表されることがすんなりと信用できなくなってしまった。

そしてその「信用できない」場面はいちどそう思ってしまうと、様々な場面に拡大していった。ある時思ったのは、ずっと騙されていたんじゃないかとすら思うこともある。2023年現在の残念ながら正直な気持ちだ。

僕はきっと気づくのが遅かった。もっと以前からものごとを自分の目で見て自分の頭で考え判断して、自分なりの意識を育むべきだった。だが遅くても気付いたのだから、ラッキーだ。私以外のシステムが私以上に私のことを理解したとしても、「私のことを理解」という部分を明け渡す必要はないのだ。私は私のことを理解していて、その一方で「私のことを理解」という解釈は自分と他者という異なる存在が並行世界として認識する知識がたまたま交差する一点のことをどう捉えるのかということなんだと思う。それは同じことでもあり同時に全く異なることに過ぎない。

それくらい自分と他者の認識は似て非なるもので、その差をまるで無いことにすれば都合が良いと思う人たちがいるだけだ。その存在に気づけば気を付けることができる。自己認識の精度を他者に明け渡さずに済む。ただそれだけのことである。

以上は今朝、選挙に行こうよと皆さんに訴えるために一度書き、それをリライトしたものだ。つまり、投票するのとしないのとでは自己認識の機会を生かすのか放置するのかという違いがあるのかも知れない。それほどこの権利を放棄することにはあまり意義が思いつかない。まったく無意味ではないだろうが、制度的にもお祭りイベント的にも意識を拡張する機会としても、この機会は生かした方がはるかに有意義だと思う。まあ個人的な考えでしかありませんが。

#統一地方選2023
#投票しよう
#杉並区


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