かりそめ金魚
解離
洗濯する前には確認したほうがいい
荒削りは否めない。ただ、 光りを見いだす行く末に希望がある。
コトバノ泳ぐ日
3月1日。千葉市
バイク乗りだった友人と、伊良湖岬をツーリングしていた。それは、彼女が最期に走った道。高台の鐘をふたりで鳴らすと、彼女はわたしの頭をひと撫でし光りへと吸い込まれていった。相変わらずの心配性だ。
軒先で干からびてる鉢植えには、もう命はなくて、それすら思い出せない渇いた土に何となし穴を拵えてみたら、そりゃ何となし、何かいれたくなるのも性で、見渡したそこらの池に浮かんでた金魚を植えてみた。水を遣ろか遣るまいか、通りすがりの猫に聞いたらさ、猫が水遣りしてくれるって云うもんだから
わたしたち、どこまでなの。 ベルベットの手触り、見た目違わぬと思っていたもの。それが、思う以上に花だったとき。 突然に世界は音を取り戻し訴える。 死んじゃいない、と方々から聞こえる赤い唄。 三々五々、尻尾だけを選り分ける。不思議な花。 優しくなどない。それの手触りを確かめた。
いつか、わたしもそこへたどり着く。 そのとき持つ花が、朱か白かはまだはやい。 そうして選べるうちは上っ面ものばかりに傾いて、後ろをふりかえる。ふりかえれば、それがあると確信している。 道なんてものがあると、ある分だけ次もあるものと思うから始末がわるい。雑草並みなら、それもいい。勝手気儘な種なら、それもいい。 そのときは、ひとだったことも忘れているはずだ。 いつか見た沙げし花たちは、いまもあるだろうか。死んでいるだろうか。 わたしが帰るころには、もうい
毎日、お弁当作ってもらえるひとになりたい。
あれから三つき十かほどが経つ。 蝉とは、思いのほか息のながいものと知った。 ひとつの脱け殻が、つぎの脱け殻を呼び。また呼ぶを繰返し、わたしの手中にあるものが最期とは限らない。 ひどく飴色の味がした。
アタラシイ仲間が加わった。それの名は激痛。
箱の鍵が壊れてしまった。なかには自我という鎖をしまっておいた。やつらは生命維持装置なみに暴虐でしかない。いま静かな箱の底には時を経たワイヤーカッターだけが、わたしを待っていてくれる。ひとは皆、いつか気づく。何よりも、ずっと傍らにあるものに最期は感謝するんだ。挨拶はこうだ。疲れた。
次は、ふつうがいい。
先生、星の目的とはわたしたちのためにあり得るのでしょうか。 それは隣に座る女が、人体構造学の最中に投じたひとことだった。 ふりつづく雨に沈むわたしひとり分が女の影と重なる。一週間以上を絶え間無く降る雨に星など存在すら忘れかけていたところへ、女が無為自然を作為へとした。 人体に無数の宇宙を知ることは間々ある。女のいう星が天地ならば、そこに目的は存在しうると言えるのかもしれない。ただ、ここでは 降る雨に消された煩雑なこたえが、わたしたちに再び作為という傘を余儀せずささ
抗がん剤は夢をみない。然りとて、現実的にも非ず。それは誇示するために在る。役立たずに有りがちな手法だ。動もすると夢ばかりを語る。夏の雨の止むころになれば使い手は、いつかの諦念を唱えることに費やし余剰とするのだろう。鳴音する放送塔のようだと、
漸う夏もおわる。
それは窓の向こう側から気狂いのふりした天使がいったんだ。 わたしは病気じゃない。 縞茄子と赤ピーマン混ぜたような頭の追随を それ見たことかとほざく。 見てない 白い皿の上には、干からびたシナプス。 テリーヌではなくスープにすればよかったんだよ。 そうでないなら、一粒のレッドペッパーで事足りた。 なにを食べたい。 気狂いのふりした天使は皿の裏に書いた。 なに等無い。ここは真理だ、ってね。 皿の裏を見るのは皿洗いの役目だ。
臓腑の底に空を魅る、雲ながれ、嵐の吹き荒ぶ。 月の煌々とする胎もあれば、月待ちのものあり。 後は深くこだまを吸うようにとまれば粗粗、 おなじくして人体の飽和と為す。 唯、向かう。それが 理想でないにしろ、理はない。 暇が意図なく恋をするようなものだ。
死ねばいいのにとは、生きている矛盾。