岸本和葉先生『今日も生きててえらい! ~甘々完璧美少女と過ごす3LDK同棲生活~』読書感想文
サヴィルロウ大学 オーランド教授による『しあわせ』についての研究報告
ここに魔法の杖がある。
この杖を一振りすれば、あなたに必ず幸せが訪れる。
あなたは杖を振るだろうか?
安心してほしい。
あとで金品を要求したり、なんらかの代償を払う必要もない。
あるいはこれは何かのテストで、返答の次第であなたの内面を評価するわけでもない。
コーヒースタンドで無料のチケットを渡して、一杯サービスしてもらえるくらいの感覚で、幸せを受け取れるのだ。
さて、どうする?
私はこの問いかけを、あらゆる世代のグループの前で行ってきた。
興味深いことに、どのグループも半数は杖を振ることを選び、残りの半分は拒んだ。
杖を振ることを選択した面々の主張は実に明快で、それはもう『幸せになりたいから』にほかならない。
他方、杖を振らない人々の理由は次の二つに分類された。
『やはり何か裏があるのではないか』『幸せとは簡単に手に入れるべきものではないから』
どうやら幸せというのは、まるで貨幣のように誰もが求めるものであると同時に、たやすくそれが手に入りそうになれば警戒を生む効果もあるようだ。
私だって、この棒を振るだけで一万ドルさしあげますと言われたら、疑うより先に無視するし、あるいは悲鳴を上げて逃げ出すかもしれない。
それはきっと子供のころ夢中で読んだ、リチャード・マシスンの名作『運命のボタン』の影響だろう。
このボタンを押すだけで、数万ドルを提供します。ただし、世界のどこかであなたの知らない誰かが死にます。
あの驚愕の結末は十歳の少年に一生残るトラウマを与えるには十分すぎた。
だが、おちついてほしい。
私があなたに提供するのは現金ではなく幸せだ。そして駆け引きはなしだ。誰も傷つかない。あなたはただ幸せになればいい。
こうやって言葉を重ねていくたびに、私への疑念も増していくように感じるのは、たぶん気のせいではないだろう。
私もだんだん、スパムメールの文面をつむいでいる気分になってきた。
『あなたを幸せにしてあげましょう!』
こんな件名のメールが届けば、本文を見る前にスワイプして迷惑メールフォルダかゴミ箱に直行されるだろう。
その行動は間違ってない。
しかし、一度立ち止まって考えてみてほしい。
そもそも、幸せとはなんだろう。あなたにとっての幸せとは?
ネットで検索しても辞書を引いても、あなたなりの定義を語ってくれてもかまわない。
あなたがどんな解答を提出しても、私はそれを肯定する。
幸せとは何か?
あらゆる哲学者、政治家、アスリート、著名人が自分なりの解釈を交えて口にする光景を幾度となく目にしてきた。
あわよくば、今どきの言葉でいうところの、バズろうとでもしているのか、ずいぶん独創的な定義もあった。
私は世間から幸せ研究の第一人者などと呼ばれているせいか、私自身の定義を訊ねられることも少なくない。
そしてそれを伝えると、聞いた相手は納得するどころか、首をかしげたり、露骨に不快感をあらわにさせることもあった。
それでもあなたは聞きたいだろうか?
では、少しだけ時間をもらえないだろうか。
私にとって幸せとはどのようなものなのか?
それを語るためには、時計の針を三十五年前に戻す必要がある。
私がまだ、しがない高校教師だった、ある日の放課後に。
「聞いてください、先生!」
「聞いてください、先生!」
同じ言葉を叫びながら、二人の生徒が校内に用意された私のオフィスに飛び込んできた。
どちらも二年生だ。
「聞いてください、先生。とてもひどい本を読んでしまったんですよ!」
「聞いてください、先生。とても素晴らしい本に出会ってしまったの!」
ここで二人の意見はわかれたが、手にしていた文庫本は同じものだった。
岸本和葉、著『今日も生きててえらい! ~甘々完璧美少女と過ごす3LDK同棲生活~』
とりあえずおちついて、そこに何が書いてあったのか聞かせてくれないか、と私は促した。
「僕はこの本を読んでひどく傷ついてしまったんです」この世の不幸を一人で背負わされたような顔をした少年は言った。「主人公は事故で家族を失い、お金にとても困っているのに、仕事まで失ってしまったのです。つまり今の僕とまったく同じ状況にあります。この本は読者に癒やしを与えてくれると聞いていたのに、癒やしどころかトラウマをえぐらた気分ですよ!」
「それはあなたがそこで読むのをやめてしまっているからよ」絵画の中から飛び出してきたみたいな美しく幸福そうな笑顔の少女は言った。「もう少しだけ読めば主人公の前に救いの女神様が現れるのよ。きっとあなたの人生だってそうなるはずよ。絶望でもあきらめなければ、希望は向こうからやってくるものなのよ」
「物語のつづきなら僕だって読んださ。美人で裕福なクラスの女子から散々甘やかされて、おまけに求婚までされて、とんだ茶番だね。こんなのは物語だから成立している絵空事だろ」
「そんなことはないわ。私もほんの少し前まで、この物語の主人公と同じような、つまりあなたと近い境遇にいたわ。家族を失い、お金もない、何度死のうと思ったことか数えきれないくらいよ。だけど、とても親切な善意の人に救われて、こうして綺麗な制服を着て、不自由もなく学校に通えている。この物語を否定するのは今こうしている私を否定されているみたいで不思議だし、これからのあなたの可能性を否定しているみたいで悲しいことよ?」
少年は何か言い返そうと試みたようだが、上手い言葉が浮かんでこなかったのか、唇をむずむずさせるだけだった。
少年と少女。
客観的な事実だけ並べると、少年は自己肯定感が低く表情も暗く常に後ろ向きで、少女は自己肯定感が高く明るい笑顔でいつも前向きだった。
両極端な性格にもかかわらず、これまで二人が歩んできた人生の道筋は驚くほどよく似ていた。
ここまでの情報で既に二人の正体に気づいた読者諸賢もいるだろう。
これは推理小説ではないので、ここで明かしてもかまわないのだけれど、それは最後までとっておこう。
以降、自己肯定感の低く暗い少年のことはユウ。自己肯定感の高く明るい少女のことはマオと呼んでいこうと思う。
ここでユウは珍しく勇ましく、声を上げた。
「この本は僕を怯えさせるために書かれた悪魔の書物です。その理由だってちゃんと言えますよ」
「ほう」私はその主張に興味を覚えた。「それはそれはぜひご教示いただきたいね」
「いいですか? これを見て下さい」ユウは『今日も生きててえらい! ~甘々完璧美少女と過ごす3LDK同棲生活~』の前半のページを開いてみせた。「主人公は二年A組の生徒で、彼の前に現れた女の子の名前は冬季さんといいます。これで十分でしょう?」
私は首をかしげ、しばらく考えたのちに、こう訊ねた。
「すまない、さっぱりわからない」
やれやれとあきれるように首を振って、ユウは教えてくれた。
「いいですか? 『2』は僕のアンラッキーナンバーで『A』と『冬』は僕のアンラッキーワードです。嫌なことがあったとき、ふと時計を目にするといつも2時22分だし、『A』や『冬』の文字を見た後には決まってよくないことが起きるんです。僕がいつも避けている数字や文字を意図的に入れて嫌がらせをしているとしか思えませんよ!」
おそらく誰もが思いつくであろう常識的な反論を私がはじめる前に、マオが口を挟んだ。
「そんなことはないわ! 『2』『A』『冬』は私にとってのラッキーナンバーとラッキーワードよ。ハッピーなことが起きるとその時間を記録するようにしてるけど、それが2時22分のときがすごく多いの。それにApple製品、ABCマート、冬至に冬虫夏草や冬将軍──私の大好きなものには『A』や『冬』がいっぱいついている。この物語の作者は私を喜ばせようとしてくれているに違いないわ。きっと作者は天使のような御方よ!」
ここでもまた、二人の意見は見事に割れた。
ユウは引き下がらなかった。
「この本がおそろしいのは内容だけではありません」
私は訊ねる。
「それは一体、どういうことかな?」
「見てて下さい」
ユウは活け花でもするみたいに、文庫本をテーブルの上に立てた。
バランスがとれていなかったのか、本はぱたりと倒れる。
「どうです?」
「……すまない。よくわからない」
「僕はいつもこうやって机に本を立てるんです。そうして椅子に座ると表紙と向きあえるのが好きなんです。だけどこの本はしっかり立ってくれないんです。これは何かの予兆にちがいありません。大切な誰かが倒れるとか、もしかしたら出かけた先で建物が倒壊することを予見しているのかも」
ユウは真剣におびえている様子だった。
「きみは一度、カウンセリングを受けるべきだ」
「いいえ、あなたのその見解は間違っているわ」またしてもマオが割り込んできた。「本が倒れるのは、あなたに世界の素晴らしさを知ってもらいたいからよ」
マオの意見に私とユウは同時に首をかしげる。
「ほら見て、本は表紙を上にして倒れているでしょう? まるで空を見上げているみたい。今朝、ニュースで見たの。今日は今年一番の星空になるでしょうって。この本はそれをあなたに伝えたかったのよ」
ロマンチックすぎると思ったものの、素敵なものの見方だなと感心したのも事実だった。
きっと今夜、私は夜空を見上げるだろう。
「とにかくこれは直感なんですよ!」ユウは意外と粘り強かった。「この本は僕に悪さをしようとしているんです。僕は悪い直感だけはよく当たるんです!」
「あら、それなら私だって同じよ?」マオも負けていない。「私、良い直感の的中率には自信があるもの。私の直感はこの本を素晴らしいと断言しているわ」
「聞いてください、先生」大切そうに文庫本を抱きしめながらマオは言う。「この本はね、私の……願いを叶えてくれたんですよ」
そこでマオは私ではなく、ユウに視線を向けた。
その視線に少年は気づいていない。ずっとうつむいているからだ。
「それはよかったね」その声に感情はなかった。「僕の願いはいつまでたっても叶えてもらえそうにないよ。ときどき神社や教会に行ったり、普通の人よりは清く正しく生きてるつもりだけどね」
「願いを叶えるなんて簡単よ」マオは言いきった。「紙に書けばいいのよ」
「──は」ユウは鼻で笑う。「なにそれ、スピリチュアルってやつ?」
「そもそも!」ユウはマオに声を上げた。「一体、きみは誰なの!」
それを聞いて、私は驚いた。
そう。この時点でまだ二人は知り合いですらなかったのだ。
「わたしは……」するとマオは、もじもじしながら声をにごした。「……わたしだよ」
「だから誰なんだよ? どうして僕にまとわりつくの?」
「それは……きみが……持ってたから……」
「なにを?」
「……それだよ」
そう言ってマオはユウの持っている文庫本を指さした。
少女も手に同じものを握っている。
「……この本がどうしたの?」
「私も、同じの、持ってる」
「見ればわかるよ」
「私、この本、大好きなの」
「それはこの何分かで十分伝わったよ」
「でも、きみはそうじゃないんでしょ?」
「…………」
ユウは黙ってしまった。
誰かの大好きを偏見で否定していた自分を恥じているように見えた。
「だから、教えてあげるよ」とマオは言った。
「なにを?」
「この本のいいところ。私が、きみに」
そう言うと、マオは自分の顔の隣に本を並べてみせた。
本の表紙の少女と彼女は、どこか似ているものがあった。
「────!」
わかりやすいくらい、少年は、少年の顔になる。
「それじゃ、いこ!」
マオはユウの手を握って、彼を引っぱっていく。
困惑しながら、でも嬉しさを隠せない表情の少年。
二人は私にわかれの挨拶をして、オフィスを後にした。
ずいぶんとまあ、微笑ましいものを見せてもらった。
社会に絶望した少年がいた。
ひそかに彼を見つめていた美しい少女がいた。
少女は少年に手をさしのべる。
『今日も生きててえらい! ~甘々完璧美少女と過ごす3LDK同棲生活~』のプロローグと全く同じ展開。
絵空事だとバカにしていた物語そのもののを現実で体現してしまっているじゃないか。
さて、あなたの前には二冊の本がある。
一冊は、私の幸せの定義が書かれたもの。
もう一冊は、ユウとマオのその後が書かれたもの。
どちらを先に開こうか?
なんとなく二人のその後のほうが気になっている様子なので、まずはそちらを見て見よう。
私のオフィスでの奇妙な出会いから10年後。
26歳か27歳のとき、二人は死んだ。
お互いの命を奪いあって。
今あなたはどんな顔をしているだろうか。
何かの間違いかと思う人もいれば、やっぱりかと納得した人もいるだろう。
ネガティブ思考で根暗なユウとポジティブで明るいマオ。
二十歳のとき、マオは人々から魔王と呼ばれ、魔族を召喚して世界を滅ぼそうとした。
一方、ユウは勇者として立ち上がり、仲間たちを集め、世界を救った。
どんよりした少年と溌溂とした少女。
どちらが将来邪悪な存在になりそうかアンケートでもとれば、少年の圧勝だろう。
第一印象がいかにあてにならないかわかるというものだ。
天魔大戦と呼ばれた人と魔族との戦いから25年も経ち、彼──勇者のおかげで私たちは平穏な世界を享受できている。
世界に魔物があふれていたなんてフィクションかゲームの話だと思い込んでいる世代も出てきたという。
それでいいと思う。
残念なのは、現実世界は物語とは違い、全てのできごとに説明があるわけではないということだろう。
なぜ彼女は魔王となったのか。
あの幸福の結晶のような笑顔の少女は、なぜ人類に反旗を翻したのか。
そして、それに立ち向かったのは、人々にうらぎられ、社会に絶望していた一人の少年だった。
戦後、あらゆる憶測と考察が飛びかったが、どれもピンとはこなかった。
決戦の場、魔王の間で二人は相打ちとなり倒れていた。
火竜の舌は、あらゆる災害、魔法、呪いを弾くため、伝説級素材と呼ばれ重宝されている。
それでつくった小さな袋を二人は身に着けていた。
袋の中には一冊の文庫本。
岸本和葉 著『今日も生きててえらい! ~甘々完璧美少女と過ごす3LDK同棲生活~』
どちらの文庫本にも、まるで参考書のように付箋が貼られ、いたるところに蛍光ペンでマークがしてあった。
どうして二人は伝説級の武具に身を包みながらも、それを携えていたのか。
今でもわからない。わかる日がくるとも思えない。
ただ一つ、顔を向けあうように倒れた二人の表情を目にして、私の直感はこうつぶやいたのだ。
──なんてしあわせそうなんだろう。
最後に、私の幸せの定義をお伝えしよう。
私の考える幸せ、あるいは不幸でもかまわない。
それは、それらは一時の感情にすぎないということだ。
束の間の喜び、もしくは不快。
その程度のものだ。
例えるなら幸せとは、スマートフォンの懐中電灯や計算機アプリのようなものだろう。
ないよりはあったほうがいい。
人々は幸せを過大評価して、不幸に過剰反応する。
幸せは持続的な喜びを約束しないし、不幸は延々とつづくわけでもない。
精神的、肉体的、金銭的、人間関係などで困難な状況にある人は少なくないだろう。
その問題が解消されれば、幸せと思えるかもしれない。
しかし、一つの課題を乗り越えても、おそらく別の何かが待っている。
客観的に見て、何一つ不自由ない成功者でも、その立場ゆえに表に出せないものを抱えている。
この世は魔物などいなくても地獄であるといいたいのではない。
言葉や状況に縛られないでほしいのだ。
幸せについて、好きな名言がある。
かのピーター・ドラッカーの言葉だ。
『幸福の追求よりも、やるべきことをやれ』
何も私は、幸せという言葉を矮小化したり貶めたいわけではない。
世界は、踏み出す一歩によって変化していく。
誰一人、取りこぼすことなく幸せを伝播したいと本気で考えている。
それが私一人では不可能だということも痛いほどわからせられてきた。
だからあなたに手伝ってもらいたい。
私は幸せという言葉が好きだ。幸福という言葉も好きだ。そして幸運という言葉が一番好きだ。
きっとあなたにも課題や目標があるだろう。
そのために既に動き出していたり、これから動き出すのかもしれない。
その道中での気づきを、いつか誰かに伝えてはもらえないだろうか。
きっとそれはいつか誰かの喜びとなり、人によってはそれを幸せと呼ぶかもしれない。
そしてこれだけは信じてほしい。
私はあなたの幸せを願っている。
参考文献
『スタンフォードの自分を変える教室』
『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』
『運は数学にまかせなさい』
『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』
『不合理 誰もがまぬがれない思考の罠100』
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』
『ファスト&スロー』
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
『その科学があなたを変える』
『現実は厳しい でも幸せにはなれる』
『明日の幸せを科学する』
『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』
『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』
『失敗の科学』
『幸・不幸の分かれ道』
『道は開ける』
『親切は脳に効く』
『1日ひとつだけ、強くなる。世界一プロ・ゲーマーの勝ち続ける64の流儀』
『東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない』
『バッタを倒しにアフリカへ』
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