竜崎亮(Liang Longqi)との対話
竜崎亮(Liang Longqi)は台北在住の中国哲学の研究者で彼とは先のアジアツアーで出会った。
現在の中国哲学の状況は非常に加熱しており、90年代から文献上に名前しか存在しない人物の文献が出土したり、失われたと思われていた文献が続々と出土していて、それまでの古代哲学の解釈がひっくり返るような状況がおこっているそうだ。一文字変わるだけで、真逆の解釈になってしまうそうで、それによってそれまで主流とされてきた学説の権威が失墜することもある。
それら文献は、発掘する役割と、出土した文献を洗い文字に起こす役割と、起こされた文字の分析や解釈をする役割と、分業化されており彼は分析をする役割にある。
そうした文献における学術的世界において取り沙汰されるのは、それが政治的意図によって歪められた解釈であるか、である。思想哲学はその時々の社会状況によって覇権を握るためのプロパガンダとして機能しており、政治的決定の裏付けとして、あるいはそのカウンターとして利用されてきた歴史がある。
文献分析のひとつの目的は、原典に近づくことがある。それは言い換えれば、当初の解釈が適当であったのか否か、歴史を批判的に見ることでありpost truthの時代にふさわしい領域だろう。
言語同様、思想哲学もまた意味の逆転や屈折が起きやすいのは、その思想の主題が、時代を超えて人類が直面する理不尽、あるいは根源的欲望から生まれるものであるからだとわたしは考えている。葛藤のシーソーの上を揺れ動く人民を動員するものが思想哲学だとして、原典は重しを置く行為だといえるだろうか。
原典はその葛藤に、永久的な回答を出すだろうか。わたしは原典の絶対性は認めない立場をとっている。それは原典が既に政治的意図をもって作られた可能性があるからである。
ここには真理に対する重要な示唆がある。その真理が"いつ、誰にとっての"真理なのかを考えることは意義深い行為だろう。
例えば昨今批判にさらされやすい儒教的精神であるが、長期間安定した社会構造のなかでは有効に作用する反面、社会変動に対しては強烈な足枷となっていることは同世代共通の感覚としてあるだろう。
いずれにせよ胡蝶の夢をモチーフに作った曲を発表した直後に、中国哲学のエキスパートと出会ったことは何を示唆するのか。社会情勢の地殻変動に対する自分のひとつの回答であるChaos&Systemsの意義に重しを置く出来事であるだろうかどうか、結論は長い時間の経過によって姿を現すだろう。
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